28 for Eternity

 昔のことを、あぐりは本当に覚えていない。


 遠い昔のことは覚えていられないくらいに、長い、長い時間が経ったのだと、自分では思っている。もう何百の、何千の季節を巡ったのかもわからない。夢だって見ないのだから、思い出しようもない。


 薄らと覚えがあるのは、腹が減っていたことだけ。そして、食べた肉がひどく美味かったことだけ。私の食べた人魚はどこに行ったのだろう、なんてことを時折考えたりするが、記憶に空いた穴は一度も塞がった試しがない。


 変わり映えのない、存在しているだけの日々が、ずっと続いていた。


 永遠に生きることにも飽きていた。

 孤独な暮らしにも、嫌気が差していた。


 時折訪れる、叶いもしない願い事を唱えていく人間たちの言葉を覚え続けたのは惰性だったのか。自分のことを見える人間が最後に現れたのはいつだったか。そもそも、自分のことを見える人間がいるという知識は、自分で得たものなのか。それすらも定かではない。


 そんなとき、この男が現れた。


 死にかけた男。


 初めの頃は、少し脅かして遠ざけてやろうと思った。自分は怪しげな生き物だという自覚があって、人間は狡猾で欲深な生き物だという記憶もあったから。しかし、二度も逃げたと思えば、三度目も来た。物を渡されたくらいで、親切心で来たんだなんて言われたくらいで、いいやつだと、そう思うようになったのは、たぶん人恋しかったから。願いなんか叶わんぞ、と伝えたのに、寿命なんか伸ばせんぞ、と嘘を吐いたのに、まるでそれを気にしてないように見えたから。


 やっぱり、変な男だと思う。


 生きることに対する執着が少なすぎる。やることがないだのなんだの言って、自分のようなもののところに目的もなく死ぬ間際まで通い詰めるのは、頭のおかしいやつ以外にありえない。


 でも、頭がおかしいだけのやつとも思えない。


 服を持ってきた。食べ物を持ってきた。綺麗な光を持ってきた。そして目の前で人の願いを叶えた挙句、嘘を知ってもなお、自分の願いを叶えに来たと言う。それも自分がぼそりと一言口にしただけの、些細な願いを。死にかけの状態から、さらに死にかけてまで。


 人のために生きているのかと思った。でも、そういうわけじゃないのもわかる。何かに怯えているようにも、何かから逃げているようにも見える。そして、それでいいと思っているようにも見える。


 後悔がないから死んでもいいと思っているのでも、日々が苦しいから死んでもいいと思っているのでもない。自分が死ぬ生き物だと知っているから、死ぬことを諦めているような、そんな印象を受けた。


 あぐりは、複雑だった。自分が話せる人間がいるのは嬉しい。できれば寿命を伸ばしてやりたいと思う。だが、寿命を伸ばした結果どんな日々が待っているのかは、自分がいちばんよく知っている。だから、自然のまま死なせてやりたいとも思う。本人は、このまま死んで構わないと言う。だったらそれでいいようにも思われたが、そうなれば自分は、なぜ生きるのを諦められずに人魚の肉まで食べて、このように生きながらえているのか。もはや記憶のない過去まで否定されたようで、苛立つこともある。


 ぐるぐると感情が渦巻いていた。


 百年だか、千年だかの孤独の果てにあったのは、そんな男との二十日程度の日々だった。



*



 笑っちゃいけないとは思うのだが、もう三回くらい笑ってしまっていて、そのたびに背中から「死ね」という言葉が飛んでくる。

 そんな帰り道だった。


「…………っく」

「死ね」


 今ので四回目。


 後ろに水を溜めた水槽と、それに入った人魚を乗せながら、また自転車を漕いでいる。

 一回ペダルを漕ぐごとに足のすべてが軋んでいる。これ絶対今日中には帰れないだろうな、と枦木は思っている。どこかで力尽きて野宿だ。帰りの道でまでこの重さの自転車を漕ぐ予定はなかった。


 まさか、淡水魚だとは思わなかった。


 枦木が恐る恐るした質問に、まずあぐりはこう答えた。たんすいぎょってなに。ぐすぐすと、洟を鳴らしながら、幼稚園児みたいな口調で。


 淡水魚っていうのはな。枦木がうろ覚えで説明した。海水の中だと生きられない魚のことだ。すると、あぐりは激しい調子でこう言った。それ。絶対それ。馬鹿。


 こうして、締まりのない帰路が始まっている。夕陽はもう落ちかけている。漏れる笑い声と、死ね、の応酬以外では、おおむねあぐりからの恨み言が会話の殆どを占めている。


「だいたいなんでいきなり海なんだ。もっとあるだろ、いいところが。川とか」

「どこのだよ」

「知らん」

「んじゃ川行くか?」

「行かん」

「拗ねんなよ」

「拗ねてない」

「…………ふ、」

「死ね」


 言われるまでもなくそろそろ死にそうだ、と遠くに見える坂道を見ながら、枦木は思う。登るのに五十年くらいかかりそうだ。


「お前は勝手だ」

「おう」

「大体私の言う子とも全然聞かなかったし」

「……言ってたっけ」

「……言ってないが」

「おい」

「言ってなくても汲み取れ」


 んな無茶な、と心の中で呟くと、それを察知したわけではないだろうが、荷台ががたん、と揺れた。あっぶね、と片足で地面を蹴って、体勢を立て直す。


「私が思うところでは、」


 そんな枦木に、あぐりが言う。


「お前は、」

「……お前は?」

「………………」

「なんだよ」

「生きるとは、」


 続かねえのかよ、と枦木は若干もやもやした気持ちになる。


「生きるとは?」

「…………よくわからん」


 なんだそりゃ、と心の中だけで思っていたら、黙るな、とあぐりに背中を小突かれる。大した強さもなかったので、はいはい、と言って受け流す。


「生きるというのはだ」

「おう」

「よくわからんものだ」

「なるほど」

「いつの間にか、知らんうちに始まっている。特に続ける理由はない。やめない理由だけがちょっとある」

「というと」

「死ぬのはなんか苦しい。あとよくわからなくて怖い」

「ほうほう」

「つまり、生きるというのは、よくわからんうちに始まって、やめるのが難しいからずっと続けてしまう、そういうものだ」

「ああ」


 確かに、と枦木は頷いた。しっくり来た。だいたい自分が思っていることと同じだ。

 そうなると、たぶん自分は今、すごく簡単に、痛くもなければつらくもない、そんな死に方に向かっているから余裕があるのかな、とも思う。


「でも、生きるのは好きになった方がいいものだ」

「ん?」

「生きてる間はずっと生きてるんだから、生きてるのが好きな方が得だ」


 一瞬、何か言おうと思った。が、何も上手いことが思いつかなかった。とりあえず、うん、と頷いておく。


「つまり、私の方がお前より正しい」

「お前生きるの好きなの」

「当然だろ」

「いやだって、自分で生きるのつらいとか言ってたろ」

「は? 言ってない」


 いや言ってただろ、と呆れて、それから気付く。


「お前、もしかしてさっきのやつ正当化しようとしてる?」

「は?」

「さっきすげえ勢いで死にたくないって泣き喚いてたの誤魔化そうとしてる?」


 水槽の中の水が飛んできた。図星かよ、とちょっと笑う。


「まあでも、一理はあるな」

「馬鹿にしてるだろ」

「してねえよ、ちょっとおもしれえなとは思ったけど」

「殺す」


 本当に殺しにかかってきた。首元あたりにあぐりの両手がかけられて、左右に揺さぶられる。馬鹿、とか、やめろ、とか言ったけれど、あぐりの暴れぶりに手が付けられず、危ねえ、と仕方なく枦木は自転車を降りる。

 お前な、とさすがに反抗しようとして後ろを向いて、



 唇と唇が触れた。



 そうとわかったのは、その感触に、やわらかい、と名前を付けたのと同時で、そして直後には、もっと強い感覚に塗り潰される。


 痛い。


 がちん、と。

 前歯が、どころじゃなくて額も鼻の頭も、正面衝突だった。ほとんど頭突きを食らったみたいなもので、枦木は一歩、後ろによろめく。ちかっ、と視界に閃いた光が消えると、水槽から大きく身を乗り出したあぐりの姿がある。


 キスした。

 なんか、すげえ勢いで。


 なんで、とかそんなことは頭を巡らなかった。ただ延々と、キスしたという情報だけが浮かんで、浮かびっぱなしになっている。


 鉄の匂いがして、それでようやく混乱から思考が整い始める。唇が切れて血が出ている。いって、と舐める。唇を。また混乱する。


 は、とか。何、とか。


 普通に使えたはずの言葉が、使えなくなっていた。なぜなら、枦木はあぐりに真意を問いただすよりも先に、自分自身の態度を決めなければならなかったからだ。

 キスしたことに対して、どんな気持ちになったか、そしてそれをどういう風に扱うか、ちゃんと決めてからじゃなければ、何も言葉は使えないようにされていた。


 あぐりは、枦木が何か言うよりもずっと早く、笑った。

 そして何も言わないまま、乗り出していた身体を元の場所へと戻してしまう。


 しばらく、枦木は戸惑っていた。混乱していた。どうしようもできないでいた。

 けれど結局、あぐりの態度に従って、もう一度サドルに腰かけ、ペダルを漕ぎ始めた。


 顔が見えなくなると、あぐりがまた話し始める。


「生きていた方が、いいことはあるぞ。少なくとも、生きてる間は」


 なんだそりゃ、なんて言葉も、迂闊には口に出せない。何言ってんだ、という言葉も、同様だった。


「どんなに退屈でも、つまらなくても、それでもとりあえず、生きていた方がいい。そんな風に、選ぶ余地があるなら」

「……そうか?」


 たとえば、つらくてつらくてたまらないような人生だったら。そしてその後よくな

る見込みもないような人生だったら、死ぬのだってひとつの正解なんじゃないかと、枦木は思う。思ったことを素直に口にして、あぐりに伝えてみると、


「そういう選ぶ余地がないときは、単に死ねばいいんじゃないか」


 などとあっさり言われたから、拍子抜けしてしまった。


「でも、ぼんやり生きられるようなやつは、そのままぼんやり生きていた方がいい」


 その言葉に、自分を重ね合わせて、


「やりたいことがなくても?」


 何にもなくても?と聞けば、何にもなくても、とあぐりは頷く。


「何かやりたいことがあって生まれてくる人間なんてこの世にいないさ。やりたいことというのは、生きてる間に作っていくものだ」

「……お前、ないって言ってたじゃん」

「ある」

「おい」

「お前に言ったときはなかったが、そのあとできたんだ」


 きっぱり言われてしまうと、もう言い返せない。


「そういう風に、やりたいことっていうのは生きている間に作っていくものなのだ。作って、やって、なくなったらまた作って、そういう風に続けていく。だから、やりたいことがないけどぼんやり生きてるというのは、その……、」


 えっと、一環で、と言い淀んだのを、枦木が、


「サイクル……、循環?」

「そう、そういうやつ。そういうやつの中にある、えと、ああ、季節、のひとつみたいなものだ。だからそういうときは、それで終わりにするんじゃなくて、季節が過ぎるのを待ってやればいい」


 ふうん、と枦木は頷く。もっともらしい話だ、と思いながら。そして無意識に唇を舐めていた自分に気が付く。一瞬、とんでもなく恥ずかしくなったが、何のことはなくて、単に唇から血が垂れたのを反射的に舐め取っただけみたいだったので、それで上手いこと自分の中で言い訳がつけられる。


「なんかそれっぽいこと言うじゃん」

「真面目に聞け」

「聞いてるって」

「だからまあ、生きろという話だ」


 生きろという話か、と頷くと、


「お前も生きろ」


 と、あぐりは言う。枦木は、とうとう直球で来たな、と思い、ペダルを漕ぐ勢いを強くする。疲れているはずなのに不思議と、足が軽くなったように感じた。


「食えってか」

「怒るなよ」

「いや、怒ってねーけど」

「もう食わせた」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。わからなくて、は、という音だけがただ漏れる。


「怒るな」

「いや……、は?」

「別にいいだろ。お前だって私のこと、勝手にここまで連れてきたんだから」


 自転車を止めようか、と一瞬思った。思っただけで、そのまま漕ぎ続けてしまう。そしてまた、血の匂いがして、唇を舐める。


「あ、」


 それで、気付いた。


「どのくらい効くかは私にもわからん」


 血だ。

 さっき、キスしたとき。たぶん血は、一人分じゃなかった。


「全然効かないかもしれんし、お前も私と同じようになるかもしれん」

「おい、」

「怒るな。……怒るなよ」


 柔らかい声色で、あぐりは言う。けれど枦木は、怒るだとか怒らないだとか、それ以前のところで引っかかっている。


 なんで、と。

 さっきからしている話からすれば、生きるのを好きでいろ、生きている間は生きろ、だからお前も生きろ、そういう話なんだろうけど。でも、


「なんで、」


 そこまで。

 ペダルが少しずつ、軽くなっていく。


「やりたいことができたって言っただろ」


 と、あぐりは言う。

 確かにそれは聞いた。聞いたが、なんだっていうんだ。なんて、そんなこと、本当は期待している答えがありながら、枦木は考えている。


「お前は勝手だ。願いを叶えるなんて言って、こんなひどいところに連れてくるし。言ったことにはちゃんと責任を持て。私の願いを、」


 ちゃんと叶えろ。


 そう言って、肩に、手が置かれる。細く、柔らかい指。


「好きになったやつに、生きていてほしい。そいつが生きていることを、ずっと喜んでいたい」


 枦木は、自転車を止めようとした。けれど、あぐりが後ろから肩を押しているような感覚に、それをできないでいた。


「生きていろ。生きる理由がないなら、作れ。作れるまで生きろ。なくしたら、また作れ」


 楽しそうな声にも聞こえたし、泣いているような声にも聞こえた。


 足が、どんどん軽くなっていく。疲れていたはずなのに、それを感じさせないくらいに。どんどん車輪が回る。前へ、前へと運んでいく。


「あんまり効かなかったりしたら、すまん。効きすぎても、すまん。鱗くらいは我慢してくれ」


 だけど、それだけじゃない。


「でも、本当に少しだけだから、そんなに効かないと思う。もっとちゃんとすればよかったな。何回も」


 はは、と笑う声が、かすれて聞こえた。

 少しずつ、あぐりの声が聞こえづらくなっている。


 自転車が軽く感じるのは、疲労が抜けてきたからだけじゃない。実際に、軽くなっている。自分の肩に置かれている手の感触が、薄らいでいくのがわかる。水槽の重みが、ただ水の重みだけになり始めている。


「お前、」


 人魚を見られるのは、死の淵にある人間だけだという。

 だったら人魚を食べて、その淵から遠ざかった人間は、どうなる?


 答え合わせは、もう始まっている。


「勝手なやつだな」

「怒るなってば」

「流石に怒るわ」

「……嫌か?」


 こんな終わりは、想像していなかった。

 死んで終わりだと、そう思っていたのに、死ぬ以外の終わりがあった。死ぬ以外の終わり方は、死ぬよりもずっと悲しく思えた。なのに、あぐりの声は嬉しそうで、あぐりはそれが願いだと言って、自分はあぐりの願いを叶えると言って、叶えたいと思って、だからさ、あの、


「嫌じゃない」


 想像ばかりが巡る。そしてそれは、ただの想像としては終わらない。必ず訪れることの、必ずそうなるということの想像。手放してしまいたい未来。あぐりが押し付けてきた、未来。だけど、


「嫌じゃないよ」


 この声は、いつまで聞こえているのだろう。


 この手は、いつまで触れていられるのだろう。


 この重みは、いつまで感じられているだろう。


 この涙は、いつまで堪えられているだろう。


 そのひとつひとつの想像に、そのひとつひとつの未来が、だけど、嫌じゃない。嫌じゃないんだ。どれだけ嫌でも、どれだけ悲しくても、それでも、嫌じゃないと、言う。嫌じゃないと、言える。

 言うしかない。

 言いたい。


 いいよ。



「お前のことが、好きだから」



 それからは、ただお互いに、伝えたい言葉を交換し続けた。

 これからの一生分に、これからの永遠分に足りるように、たくさんの言葉を、お互いに。




 夕陽が落ちるころだったらしい。

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