27 Scream
永遠に着かないような気がしていたのに、着いた。
だからそこは永遠に着かない場所なんかじゃないと、そうわかった。
遠い場所ならどこだって。
昔の人は海と名を付けて、今でもそのまま呼ばれ続けている。
そんな場所。
「頑張ったな」
とは、あぐりの言葉だったが、頑張った程度の言葉では言い表せないほどしんどい道のりだったと、少なくとも枦木はそう思っている。足はがくがくで、新しい、これまでに感じたことのないような状態に陥っている。汗はかきすぎて、飲み物は摂りすぎて、もう自分の体の中にどのくらいの水分が残っているのか、さっぱりわからない。
それでも、着いた。
自転車を止めるのすらしばらくはできそうにない。堤防の上で両足を地面につけて、ハンドルに凭れかかって、しばらくはそんな恰好で、息を整える。整いそうにない。下手をすれば夜まで整わないかもしれない。肺がもう疲れ切ってろくに酸素を吸収してくれない。普通にしていても息苦しい。このまま死ぬのか、と冗談で思ってから、いや冗談にならねえと気が付いた。
あー、ととりあえず肺の中にある空気を吐き出して楽になろうとしたら、胃の中にあるものまで出てきそうになって、変な咳が出る。あぐりが背中を擦ってくる。さすがに長時間日光に当てられたからか、その手すらも生温かった。
息も絶え絶えの状態で、
「、海」
と、枦木は指さした。
「うん」
と、あぐりは言った。
言って、そこで終わった。
沈黙。のち、枦木は振り向いて、
「……反応薄くね」
「ああ、いや……」
あぐりは言いにくそうに、
「その、ここまで来る間にたくさん景色を見過ぎて、感動を使い切った……」
感動を使い切った。
感動を使い切った。その言葉の意味を、枦木はよくよく噛みしめた。噛んでる間にまた体力の限界が来たので、
「じゃあお前、」
飲みこんで一言、
「その都度テンション上げろよ……」
「てんしょん」
「盛り、上がれ」
話している途中で本当にヤバいと思った。一瞬だけ間を置いて、枦木は急に動き出す。自転車のスタンドを無理やり起こす。そしてその場にごろん、と寝転がった。コンクリートだかアスファルトだか知らないが、とにかく熱い。背中が灼ける。どうせなら下の砂浜まで行ってから寝転がりたかった。太陽の光を、瞼と口を閉じて遮断する。鼻呼吸を三回。胸のあたりが落ち着く。
「……お前、本当に大丈夫か?」
けふ、とひとつ空咳をして、
「なんとか」
頭に手を当てて、さらに三回呼吸して、三分くらい経過するのを待って、それからようやく目を開けた。心配そうなあぐりの顔がありそうだ、と思った。実際には逆光と、水槽の中の光の反射でよく見えなかったけれど。
あぐりが水槽の中の水を手で掬う。そして、ぺしゃっ、と枦木の顔に投げつけた。
「……おい」
「しっかりしろ」
しっかりした。かなり温かくなった水だったけれど、顔から噴き出ていた汗が散ったのが効いたのか、それだけで妙に気分が良くなった。
ようやく起き上がる。その場に胡坐をかいて、海を見る。
青色とは、少し違う。もっと曖昧で、もっと複雑な色をしていた。ほとんど真っ白にすら見えた。
「……海じゃん」
「うん」
やり切ったな、と。
そう思って。
「行くか?」
と指さして、
「いや。もう少し、いいか」
とあぐりが言うので、正直助かるな、と思いながら、もう一度、枦木は仰向けに寝転がった。
*
ぽつり、ぽつりと。
話をした。色々な話を。
そしてそのほとんどが、どうだっていいような話を。
お前は海に来たことあるのか。
何回か。お前はなさそうだな。
忘れただけかもしれない。
それ便利だな。
だろう。
これはどこまで繋がってるんだ。
だいたいどこまでも。
…………、なるほど?
わかってないだろ。
うるさい。
お前って魚とかには見えてんの。
全部にただ無視されてるわけじゃないなら、見えてない。
んじゃ鮫とかでかい魚に食われる心配もないのか。
……怖いこと言うな。
怖いことないからいいじゃんって話だろ。
馬鹿。
なんでだよ。
お前はこれからどうするんだ。
帰る。
どこに。
知らね。
知らねって、お前。
帰れるところに帰るよ。なかったらまあ、そんとき考える。
お前のそういうところは本当にわからん。
ジェネレーションギャップだろ。
じぇ。
生まれた時代の違いってやつ。
いや、どう考えてもお前がおかしい。
考えんなや。
は?
聞かないのか。
何を。
色々。
たとえば?
いつこんな風になったんだとか。
いつこんな風になったんだよ。
なんで人魚の肉を食べたんだとか。
なんで人魚の肉を食べたんだよ。
……ばーか。
ばーか。
…………。
おい、水かけんな。
んじゃあれ。あげたスナック菓子。どれが一番好きだった?
お前、本当にそんなことが聞きたいのか。
うん。
最初に食べたやつ。
え、お前言えよ。もっと買ってきたのに。
新しいのを食べるのも楽しかったんだ。
なら、まあいいけど。
季節どれ好き?
特には。
つまんな。
お前の質問がつまらない。なんだ好きな季節って。
まあ俺も特にないけど。
おい。
強いて言うなら、今は夏が好きになってるかな。
……そうか。
お前は? 強いて言うなら。
人魚に季節感はない。
なんだそりゃ。
あ、じゃああれ。
どれだ。
ここに来るまで見たやつで、何がいちばんびっくりした?
無様にその自転車とかいうやつを漕いでるお前。
殴んぞ。
感動したと言ってるんだ。
馬鹿にしてんだろ。
うん。
殴る。
やめろ。
で、なんだよ。本当は。
さあ、なんだろう。
えー。
思った以上に感動しすぎて、何も覚えてないな。
お前、本当にすぐ忘れるな。
ずっと覚えていられるわけないだろう。何歳だと思ってるんだ。
さあ。
私も忘れた。
だろうな。
お前。
ん。
いや、なんでもない。
おう。
あのさ。
ん。
……あれ、なんか言おうとしたんだけど。
忘れたか。
かも。
ふふん。
は?
おい。
ん。
いいのか。
ん、おう。
本当にいいのか。
おう。
別に、そんなに悪くはないぞ。
自分で悪いって言ってたくせに。
死ぬよりはマシだ。
あー。まあ……。
心変わりしたか?
いや、別に。
なんでだ。
人それぞれだろ、そういうの。
そういうとこがわからん。
生まれた時代の違いだろ。
嘘つけ。
はは。
……。
……。
……。
あー。
うん。
そろそろ?
うん、そろそろ。
そっか。
うん。
じゃ、行くか。
うん。
*
少しだけ不安だったけど、普通に抱き上げることはできた。
足はもう、ほとんど感覚をなくしていたけれど、それでも何とかなるくらいには、あぐりは軽かった。
灰色の堤防を下りていく。砂浜。靴が沈み込んで、さらに足が重くなるのを、一歩、一歩と進んでいく。
波が打ち寄せている。白く。そしてすぐに返っていく。あるべき場所に、帰っていく。枦木は足だけを動かして靴を脱ぐ。靴下が濡れていく。風が肌を一枚、透き通るように吹いている。
もうすぐ夕暮れが来る。
腕の中のあぐりを見た。
もう、こちらのことは見ていない。
じっと、海を見ている。それを見つめるための生き物みたいに、じっと。
「あぐり」
声をかける。あぐりは、枦木の腕を握って答えた。
「下ろすぞ」
「ちょっとだけ」
「ん」
「もう少しだけ」
枦木はそのまま、あぐりを抱えたまま、空が赤黄色に変わっていくのを見つめていた。オレンジ、と教わった色は、金色として瞳に映っていた。
綺麗かもな、と思った。思っただけで、やがてあぐりの手から力が抜けていくのを感じる。
「いいか?」
小さく、頷くのを見た。
枦木は歩く。海の底に向かって、少しずつ足首を、ふくらはぎを、膝を、水の中に浸していく。腕から力をゆるゆると抜いていく。あぐりが腕を伸ばして、海に触れる。
あぐりが枦木を見た。
枦木は、笑ったつもりでいた。
あぐりもたぶん、笑ったのだと思う。
腕が、腰が、腹が、足が、胸が、徐々に沈んでいく。枦木は腕の力を抜いていく。
「じゃあな」
最後にそう言って、枦木はあぐりから、手を放す。
あぐりの身体が、海に沈みこむのを、見届けて。
夏の真ん中なのに、夏の終わりのような気がして、空を見て、夕陽の色を吸い込んで。
「あ゛あ゛ぁーーーっ!!!!」
すげえ汚ねえ声が聞こえた。
は?と視線を戻す。ばしゃばしゃと、綺麗な金色に染まった水面が波立っている。
あぐりが暴れている。
いや、というかあれは、溺れている。
人魚が溺れてる。
「たす、たすヴぇっ、た」
助けてっつってる。
いや。
ありうるのか、そんなこと。
「たすっ、つかヴぁ」
たぶん名前を呼ばれている。自分の名前が呼ばれている。自分が名指しで、助けを求められている。
半信半疑で、枦木は近付いた。
ばしゃばしゃと、二本の腕と、一本の尾びれが暴れている。
溺れてる。
「やヴぁっ、じにだくなっ」
死にたくないっつってる。人魚が。不老不死でなんか色々忘れるくらい長く生きて、長く生きるのつらいとか言ってた人魚が、溺れて、死にたくないっつって、暴れてる。
特殊な夢かなんかかな、と思いながら枦木はその腕を取る。すると、ものすごい力で引っ張られて転びそうになる。あ、これ前に学校の授業で習ったな、と思う。溺れてる人は混乱しているから、助けに行くと助けに行った人も引っ張られたりして満足に動けなくなる場合があります、みたいなやつ。
知識が役に立って、枦木は落ち着いて、しっかり腰を落として、あぐりを引き上げる。とりあえず、と抱きかかえるようにして上半身を密着させて、そのまま引き上げる。足が着く場所なのだ。それでちょっとは混乱も収まるだろう、と思って。
「はな゛じで!! むり゛!!!」
あんま落ち着いてねえな、と思う。放して、と言われてもこのまま放したらもう一度大惨事になることは間違いないので、そのまま強引に引っ張っていく。それにしてもすげえ顔になってるな、と失礼だとはわかりつつ枦木は思ってしまう。どうやったら五秒かそこらでこんなに崩れることができるんだ。
あーあー謎の言葉を発するあぐりを、岸まで引き上げた。まだ暴れていたので、とりあえず砂浜に横たえる。ここはここで乾いて文句言いそうだな、と思ったけれど、あぐりはそれで安心した様子で、しばらくどこでもなさそうな一点を見つめ、沈黙した。
「何?」
と枦木は聞いた。あぐりはたっぷりの溜めの後に、
「…………すごい気持ち悪かった…………」
と言った。
どういうことだよ、と思ったが、それ以上の説明はない。動く気配もない。どうすることもできないまま枦木は立ち尽くし、どういうことだよ、と三回くらい思い、
四回目くらいで、ふと気付いた。
いやまさか、とは思った。
いやまさか、とは思ったのだが、でもそれしか、いやでもないだろ、まさか、可能性としてはありえるとか、なんかその、
「お前もしかしてさ、」
淡水魚なの?
夕陽がアホみたいに綺麗だった。
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