26 夏の日(たぶん光って)
夏の陽が差し込む窓辺に、真っ白な手紙が一枚、光り輝きながら揺れている。
探さないでください。
そんな言葉が、書いてある。
*
何もかも上手くいくなんて欠片も思っていなかったのに、ぜんぶ上手くいったから何かのご利益があったのかな、なんて。
実際のところ欠片も信じてないようなことを思いながら、枦木は自転車を漕いでいる。
夏のこと。
空はすっかり晴れた。着替えと自転車を取りに帰った家には、誰もいなかった。書き置き一つを残した。近くのホームセンターを見に行ったらなんとか予算の範囲内で買えるでかい水槽が売っていて、自転車の荷台に上手く括りつけることもできて、あぐりもそこになんとか入って座ることができた。
「ほれがんばれ、遅くなってきてるぞ」
「うっせ……! ちょっと黙ってろ……!」
「なんだ。黙ってたら寂しいだろうと思って喋ってやってるのに」
問題は自分の体力だけだ。
がくがくと震える足は本当に疲労のせいだけじゃないのか、と不安になってくる。もうすぐ死ぬんじゃないのか、と思う。雨上がりの真夏の日は信じられないほど暑い。アスファルトの上はひたすら陽炎の立ち上るばかりで、この湿気で虹のひとつも見えないのかよ、と言いがかりみたいな怒りが湧いてくる。
知らない道を、あぐりを乗せて、自転車で走っている。
海に行く道を。
そんな力があったらこんな狭い池さっさと出てる、とはあぐりが言ったことだった。願いを叶えられる力があるなら、と。
だから、こうして枦木は走っている。狭い池を出て、広い海を目指して。
もう何もかも無茶苦茶だ、なんてことは自分でわかっていた。
でも、無茶苦茶だから気持ちいい。そういうことも、ちゃんとわかっていた。
「……もしかしてこれ、坂道はつらいのか」
「これが、つらく、ない、よ、見えるか?」
「し、死にかけてる……」
あぐりの声に返答するだけでも、心底きつい。午前十時から漕ぎ始めて、今はだいたい正午ごろ。Tシャツはびっしょりと汗で濡れている。陽に晒し続けている肌は、少しずつひりひり痛み始めて、日焼けの到来を告げている。ハンドルを握る手のひらもずるずる滑って、立ち漕ぎしている間、うっかり手を放してしまわないかと気が気ではない。息も絶え絶え満身創痍。
「ほら、頑張れ。もう少し!」
「おい! 尻叩いてくんな!」
「…………」
「撫でんな!」
けらけらと背中で後ろであぐりが笑う声がする。構っている暇はない。実際のところもうすぐなのだ。あと五十メートルくらいで、坂のてっぺんに着く。問題はふたつあって、ひとつめはその残り五十メートルで信じられないような急勾配が待っているということ。もうひとつは、下り坂に差し掛かっても後ろに巨大な水槽を乗せているから、ノーブレーキで爽快大疾走というわけにはいかないということ。
夏の空ばかりがやたらに爽やかで、抜けるように青い。たぶんあの空は、生きるとか死ぬとか考えたことないんだろうな、なんてぼんやりと考えれば、もう自分に限界が近いことがわかってきたりする。ひと漕ぎするごとに、荷台に乗せた水槽の中で波が立ち、それに負けないよう車体をまっすぐに保つだけで体力がガリガリ削れていく。
それでもなんとか、上り坂の頂上に辿り着く。今度は、ゆるやかな下り坂になる。スピードが出ないように、浅くブレーキをかけたり、地面を靴の底で叩いたりしながら、走っていく。ペダルは漕がない。サドルにようやく腰を下ろす。生温い風が頬を通り過ぎていく。ぱしゃ、と後ろで水音がすれば、重心の変わった感覚があって、慌てて自転車を操作しようとハンドルを握ると、それと同時に伸びてきた両手が、枦木の肩を掴む。
「ひょっとして、下りの坂は楽か?」
「……見てのとおり」
そうか、とだけあぐりは言った。もう一度、背中で水音が聞こえる。嫌な予感がしたが、自転車を止めるわけにはいかなかった。この重たい自転車は、走り出すときがいちばん難しい。漕ぎ出してからはある程度安定するが、最初に車輪を勢いよく回すのが難しいのだ。
つまりは、防御不能で、
「うえ、」
冷たい濡れた手が、首の後ろから背中に差し込まれる。きゃっきゃ、と笑う声とともに。
「涼しくなったか?」
「お前、次止まったら覚えてろよ」
「親切心なのに」
もう一度濡れた手が差し込まれてくる。
楽しくて、笑った。
*
知ってるようで全然知らないコンビニの、裏手の駐車場の日陰で水分を補給する。いくら飲んでも足りなかった。
「人間は大変だな。人魚になってみるか?」
「なんねえ」
喉まで鳴らしてスポーツドリンクを飲む。二リットルのうち、一リットルくらいを一気に飲み干す。トイレの心配はほとんどしていない。どうせ汗になって消える。それから、前籠に詰めてあったミネラルウォーターの残りを、水槽の中に投入する。投入しながら、
「だいじょぶか?」
「ん?」
「体勢とか。きつくねえ?」
別に、とあぐりは言う。
別にきつくねえのか、と枦木は不思議に思う。確かにあぐりはやや小柄だが、それでもホームセンターで売っていて、かつ自転車の後ろに詰める水槽の中に入って座ろうとすれば、やや不自然な形で尾びれを折りたたむ必要がある。それできつくないと言うのだから、人魚というのは不思議だ、と思うしかない。
「あとどのくらいで着くんだ」
と、あぐりが聞く。さあ、と枦木は答えながら、さあとはなんだ、と文句を言われながら、頭の中で計算する。
だいたい後、三時間くらい。うんざりする。計算しなければよかった。
「日が暮れるまでには着くだろ」
そう言って、もう一口、飲み物を呷る。
なんでこんなことしてんだか、という疑問は消えない。消えないが、大したものでもないと感じている。やらなくちゃいけないことではない。ただ、やりたいことなのだ。たぶん、そう思う。
蝉が鳴いている。姿は見えないが、声だけが聞こえている。
あぐりが何かを言った。
「え?」
枦木は聞き返した。あぐりは、じっと枦木を見つめていた。
「いいのか」
それだけを言った。
枦木は服の袖で顔の汗を拭く。さして効果があるとは思えなかったが、とりあえず拭く。それから、
「何回目だよ、それ」
「百回目」
「ガキか」
「ババアだ」
笑いながら、あぐりが言う。見えねえ、と枦木は少し笑う。
聞かれれば聞かれるほど、答えれば答えるほど、気持ちが固まっていくのが自分でわかった。
これでいいと、そう思う。その思いが、どんどん心の深いところに沈んでいくように感じる。
もうすぐ死ぬ。
無理して生き延びたくはない。
やることだって、ほとんどない。
ただひとつ。ふと、あの、小野崎から借りた小説のことを思い出す。何も共感できなかったあの難病の中学生が出てくる話。死ぬ間際で、やりたいことがたくさんあって、寿命の長い人間に憧れて、妬んで、最後に何かを残そうとして、必死で、そんな話。
そっちの方には感情移入できなかったけれど。
今なら、男の方は、誰かのために何かをしたいと思う人の気持ちは、わかるような気がする。
気がしただけ。
「そろそろ行くか」
「大丈夫か?」
「疲れは抜けてねーけど、走らねえことにはどこにも着かねえしな」
「そうか。せいぜい頑張れ」
「腹立つな」
「怒るな」
はいはい、と言って、ペットボトルを一気に飲み干す。空になったのは捨てていこう、と思って、あ、と思い出す。そして、
「お返し」
枦木は空になったペットボトルで、ぽこん、とあぐりの頭を叩いた。
あぐりは何のことやら、という顔で、きょとん、と枦木を見ている。
忘れるのが早すぎて、気が楽になった。
海まで、まだ距離はある。
距離があるうちは、まだ走れる。
自転車のスタンドが倒される。光る水が揺れる。サドルに跨る。ペダルを漕ぐ。
まだ夏の日に、まだ生きている人間と、まだ生きている人魚が走る。
風を切るには程遠い速度で、ゆっくりと。
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