25 闇でお祈り

――人魚って言っても、結構種類があるみたいで

――いちばん有名なのは人魚姫かな。王子様に恋して、悪い魔法使いと契約して、声と引き換えに足を手に入れて、結局恋が叶わず泡になって死んじゃうの


――でも……、あの、ごめんね。私もあんまり詳しくないんだけど

――日本で言われる人魚は、あんまりそういう感じのじゃないと思う

――妖怪っていうか、幻の生き物みたいな

――リュウグウノツカイとか? ああいうのみたいなイメージなんじゃないかな

――凶兆とか言われたりして、うちの民話もそうだよね


――ううん、独特だと思うよ。人魚がお願い事ぜんぶ叶えてくれるってほかで聞いたことないし

――普通は? 普通はね、


――お肉食べたら不老不死になるとか、そのくらいかな



 やっぱり傘は買わなかった。

 だから、濡れながら、ただひたすらに歩いている。


 ただの都合のいい勘違いなんじゃないかと、そう思っている。

 それでもいいと思っている。でも、そうじゃないといいなとも思っている。


 勘違いだったら、本当のことを知るのが怖い。

 勘違いじゃなかったら、本当のことを早く知りたい。


 面白いくらい当たり前のことしか、頭に浮かんでこない。今は、それが気持ちいい。


 どうして、あぐりはあんなに自分に何度も、それでいいのかと問いかけたんだろう。

 自分のところには迷惑だから来るなって意味だったのか。単に一般的な話として、もっと大切なことをしろって意味だったのか。それとも、もうすぐ死ぬけどここがいい、なんて思いで縋りついてこられるのが重たすぎたのか。


 どれでもないとしたら、どうなんだろう。

 もしもそれが、ただの心配だったとしたら。


 治らない病気で死ぬなんてやつには無意味だからしないような心配だったとしても、たとえば。

 治るってことを、知っていたとしたら。

 だったら、なんて。


 そんな夢を見ながら。

 枦木は人魚のいる池に、辿り着く。



*



 綺麗だ、と思った。

 もう何度目かわからないくらいの綺麗だ、を、枦木はあぐりに対して、抱いた。


 池の淵に腰かけた人魚が、雨を見ている。明かりのない、ほとんど完璧な暗闇の中でも、赤い髪は、赤い髪から覗く真っ白な背中は、淡く浮き上がるように輝いて見えた。


 くしゃ、とわざと音を立てて、枦木は濡れた草を踏んだ。

 弾かれたように、あぐりが振り向く。そんなに大した音は出てないのに。それだけで、枦木は嬉しくなった。


「…………お前、」


 複雑な表情だった。驚いたような、嬉しがったような、怒ったような、悲しんだような。でも今は、少しでも嬉しそうな表情が混じったならいい、とそう思う。


「よ、」

 できるだけ軽く聞こえるように声を作って、枦木はあぐりの隣に腰を下ろす。


 あぐりは、黒いTシャツを着ていなかった。今はなぜかそれを、かき抱くようにして胸元に寄せている。枦木は少し、悲しい気持ちになる。気に入んなかったかな、と。もっといいやつ買ってきてやればよかったのかな、と。


「その恰好、」


 あぐりは心配そうに、


「どうしたんだ」

「どうも」

「どうもじゃないだろう」

「大したことじゃねーよ」

「なわけあるか」


 言いながら、あぐりは枦木の服や肌についた汚れを払い、棘を抜き始める。痛かったり、くすぐったかったりで、枦木は少しだけ身をよじる。


「……自暴自棄はやめろ。命を大切にしろ」

「あと一週間なんだ」


 ぽつり、と枦木は言った。あぐりの視線は、止まったが、動かない。


「七日」


 もうちょっと短かったかもな、と付け足して、


「そんで動けなくなって、終わり」


 あぐりは、それに何も答えなかった。ただ少しだけ、濡れた服を握る力を強くしただけで。


「だからこんくらいは誤差だよ、誤差」

「…………なんで」

「ん」

「なんで一日でも長く生きようとしないんだ」


 今度は、枦木がそれに答えなかった。


「なんで一日でも、一秒でも長く生きようとしないんだ。なんでそんなに簡単に諦められるんだ。なあ、」


 あぐりは顔を伏せて、


「なんで、生きたいと、」

「だから食ったのか」


 弾かれたように、あぐりが枦木を見る。


「人魚の肉、だから食ったのか」

「なんで……」


 その反応で、枦木はひょっとすると、と期待を起こしてしまう。

 ひょっとすると、予想していたとおりなのかもしれない。


「お前、嘘ついてたんだな。いや、嘘じゃないのかもしんないけどさ。少なくとも、ひとつくらいは願い、叶えられんだろ」


 そしてそれはきっと、途方もない願いのひとつ。


 不老不死。


 人魚の肉を食べたものは、不老不死になる。そんな伝説。八百比丘尼、と小野崎は教えてくれた。人魚の肉を食べたことで、八百年以上も生きて、その間ずっと、若い姿のままでいたという僧侶の話。


 人魚を食べた人間が人魚になる。そんなミイラ取りがミイラになるような話ではなかったから不安はあったけれど、今のあぐりの反応を見る限り、自分の予想は合っていたらしいとわかる。


 あぐりは、生まれながらの妖怪じゃない。人魚の肉を食べたことで人魚になった、人間だった。


「…………そんなに、いいものじゃない」

「そっか」


 あぐりの言うのを、枦木はそのまま肯定した。本人が言うんならそうなんだろうと。ただそれだけ。


「ただ生きてたって何もない。誰にも見えないし、誰にも聞こえないし、時間が経っていくだけだ」

「うん」

「どこにも行けない。空が青くなって、黒くなって、そんなのを見てるだけでひたすらに時間が過ぎていく」

「ん」

「苦しいんだ。ずっと生きてるっていうのは。だから、その、お前に言わなかったのは、意地悪したわけじゃなくて、」


 あぐりは枦木の顔を見て、


「……怒るな」

「いや、怒ってねーけど」

「お前は怒ってないって言って怒る」

「どういうことだよ」

「怒らないで」


 あぐりは服を持っていない方の手を、枦木の手に重ねる。冷え切った指で触れても、まだ冷たい感触がした。


 何の話だ、と枦木は不思議に思う。そして、ああ、と思い出す。今日の。もう昨日のかもしれないけれど、あれ。


 あぐりの手をどかすと、


「あ……」


 と小さな声が漏れ聞こえたが、それも一瞬のうちで、


 とぷん、と。

 枦木は飛び降りた。池の中に。


 今度こそ本当に冷たかった。うへ、と間抜けな声が漏れる。服なんて来ていても意味がなかった。真っ暗な夜の水が、ひそかな生き物のように肌の表面に溶けていく。


「、な」


 一拍遅れて、あぐりの声。


「何してんだっ」


 ぺた、と。今度はほんのり温かく感じるようになった手が、枦木の身体に触れる。それはどこか肌を掴んで、持ち上げようとして、非力だからできそうにもなかった。


「気にしてんのこれか」


 枦木が言うと、う、と背中で声が聞こえた。そうらしい。自分を引き留めようとしたあぐりに引っ張られて、池に叩き落とされたこと。あのあと、とりあえず笑って流したこと。


「別に気にしてねーよ。水浴び好きだし」


 見てのとおり、と言えば、


「め、めちゃくちゃ怒ってるじゃないか」

「いやだから、怒ってねーって」

「押し殺してるだろ。怖い」


 押し殺せてるなら怒ってるうちに入らなくねーか。枦木はそう思ったが、そういう話でもないらしかったので、


「ほれ」

「わぷ」


 手で水を掬って、ひょい、とあぐりの顔に投げた。

 未だにざあざあと降る雨の中でその行動にどれほどの効果があったのかといえば、まあ当然なかったわけだが、


「お返し」


 ぱちぱちと瞬きするあぐりに向かって、そう言って、


「これであいこ」


 枦木は再び岸に上がる。水を吸い切った服が重い。それを着ている身体も重い。力が入りづらいような気がした。


「……そういう話だったか?」

「そういう話だった」


 納得いかない、とあぐりの声色を、枦木は笑い飛ばす。


「んで、何だっけ」


 話を元に戻す。あぐりの反応は鈍かったから、自分で、


「意地悪じゃなくて?」

「……不老不死は、つらいんだ。だからお前に、そういう道があるなんてこと、教えたくなかった」

「そっか、サンキュな」


 言ってから、あ、と枦木は気付いて、


「ありがとな」


 と言い直す。あぐりは少しだけ、言葉を失った後、


「何がありがとうなんだ」

「心配してくれて」

「……隠してたんだぞ。お前が生き残れる方法を」

「別にそっちはいーよ」

「よくない」

「いいっつってんの。それより、あー、」

「何もそれよりじゃない」

「あのさ、お前、こんなところにいる場合じゃないって何回も言ってたけどさ、あれ」

「おい」

「あれ、迷惑だから来んなって意味で言ってた?」


 虚を突かれたように、あぐりは黙った。それから、自分の頭の中にある何かを引き出すようにして、


「……お前に対しては、なんというか一言で言えない」

「そか」

「でも、たぶん、そういうことを思って言ってたわけじゃない」

「……そか」

「というか、あ、いや。私が悪いのか」

「んなことねーけど」

「お前な」

「なんでもいーよ、別に」


 枦木は笑った。それならよかった、と。それだけでよかった、と。それから続けて、こう聞きたくもなった。「んじゃ、楽しかったか?」と。でも、聞かなかった。恥ずかしかったから。


 何でもよくはない、とあぐりはまだ怒っている。でも、後のことは何でもいいと思う。


 あ、と思い出す。ポケットの中に、機嫌を直すための道具が入っている。取り出して、手渡して、


「前ほしがってたろ、これ」


 あんまりいいもんじゃねえな、と改めて思う。なんでさっきこんなもん買ったんだか、と思う。たぶん、何も考えてなくて、記憶の中にあるものだけを頼りにしていた。


 刃物。

 身だしなみに使うと言っていたから、剃刀。


「そんなんでよかったかわかんねえけど」


 とりあえず、そこそこ高いやつを買ってきた。何に使うかまでは聞かなかったし、聞けなかったから、なんとなくイメージで。昔の人間の使う刃物といったらこれかな、と偏見で。


 しばらくあぐりはそれを見つめていた。外したかな、と枦木が不安になっていると、


「……やっぱり怒ってるじゃないか」

「は?」

「お前本当に溜め込む性質だな……。怖いぞ」


 どういう意味だよ。なんでプレゼント買ってきたのに怖がられなきゃなんねえんだ。怒るとは正反対の行動だろ、と思って、何かを言い返そうとした。


 言い返せなかった。

 あぐりが肌を隠していた服を、横に置いたから。


 目を逸らす速度は速かった。そして考える速度も速かった。誰が溜め込ませてんだ。ボケがよ。


「お前、恥ずかしいって言葉知ってる?」


 返答がなかったので、知らないんだと思った。溜息を吐きながら枦木は立ち上がる。それからあぐりを視界に入れないようにして、自分とは反対側に置かれてしまった服を拾おうとする。


「いっ、」


 そのとき、異様な声が聞こえた。枦木は見ないようにと努めた。が、


「おい、ちゃんと見ろ」

「やだよ馬鹿」

「見ろ」

「服着ろ」


 Tシャツを押し付けようとすると、


「馬鹿、汚れちゃう」


 何がだよ、と枦木は呟きながら、あぐりが服を押し返してきているその手だけを、器用に視界に入れる。


「は、」


 赤く汚れている。

 思わずもう少しだけ視線をずらした。前腕のあたりに、切り傷がある。


「ば、」

「食ってみろ」


 重ねられた言葉は、一瞬何のことだかわからない。


 あぐりを見た。

 裸の身体。そのなめらかな肌に、剃刀が押し当てられている。腹のやわらかなあたりを、刃の先で突き破るように押し込んで、


 ぶつり、と。

 皮が切れる。血が滲む。一瞬のうちに雨がそれを洗う。


「死ぬほど美味いぞ」

「馬鹿かお前は!」


 枦木はあぐりの右の手を取る。剃刀が握られたそれをねじって、動けないようにする。奪い取る。傷口に触れようとする。一瞬ためらって、剃刀をあぐりの手の届かない場所に投げて、Tシャツをあぐりに頭から被せる。


 いきなり身動きを封じられたあぐりは、うわ、なんて声を上げじたばたともがく。うわ、はこっちの台詞だよ、と枦木は跳ね上がった鼓動を落ち着かせる努力をする。ようやくあぐりが、服を着直せたところで、


「馬鹿かお前は」


 ともう一度言う。


「何考えてんだ」

「肉を、」

「馬鹿か」


 もう一度言う。大体予想がついていたから、最後まで聞く必要はなかった。怒ってる、の意味もわかった。俺はこいつにどんなやつだと思われてるんだろう、と呆れるような気持ちもあった。


「食わねえから、肉」

「……は? なんで」

「ならねえから、不老不死」

「なんでだ」

「お前が自分で言ってたんだろ。それつらいって」


 何か、また複雑な表情をあぐりはした。


「だって、でも」

「そんなに生きる気力ねえし。普通に俺は時間通りでいーよ」

「だって、そんな。簡単に、」

「人それぞれだろそんなん」


 枦木は言った。何の気負いもなく。思うところだけ、簡潔に。


「お前ほんと無茶苦茶な。何考えてんの」

「……もうお前というやつがわからん」

「こっちの台詞だわ」

「じゃあなんで来たんだ、ここに。肉を食うためじゃないのか」

「ちげーよ」


 と、そこまで言って、枦木は本当の理由を言おうとした。


 言おうとして。

 言えなくて。

 やっぱり言いたくて。

 それでもやっぱり言えないから。


 代わりになる言葉がほしくて。

 見つけて。


「お前の願いを、叶えに来たんだよ」


 それってつまり好きだからってことなんだけど。

 

 なんだけど、なんだよ。

 なんて、笑ってしまって、続きは出てこない。

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