*ブルーフローライトの記憶
「――ほら、こっちへ来な」
体格のいい女将に顎で示され、
といっても、そこに藍洙の意志は無い。歩くことの出来ない藍洙は、大柄な男衆に荷物のように抱えあげられ、薄暗い部屋へと運ばれる。
窓のない部屋の中には香の匂いが充満しており、息を吸うと頭がくらくらした。真ん中に置かれたテーブルには青緑がかった丸い石が置かれている。
その石の前に藍洙を座らせると、頭から薄布を被せられた。じゃらじゃらと玉飾りのついた腕輪を嵌められ、濃い化粧を施される。
「いいかい」と女将がキツイ顔をして藍洙に命じた。
「あんたの仕事は“お祓い”をすることだ。ここへは悩みを持った客を入れる。話を聞いて、それらしくお祓いをして帰す。簡単な仕事だろう」
藍洙が返事をする前に女将は捲し立てる。
「ったく、あの馬鹿。まともに客の相手も出来ない娘なんか買いやがって。身支度も一人で出来ないなんざ手間がかかってしょうがないよ。この先、客の機嫌を損ねるような真似をしたらここから追い出すからね!」
「……はい……」
言うだけ言って女将はバタンと喧しい音を立てて部屋を出ていった。部屋に残された藍洙は濃い煙を吸い込んで噎せる。
(追い出されたら、死んじゃうのかな……)
娼館に売られた藍洙に帰る場所はない。
それも、足の不自由な藍洙は追い出されたらまともに歩くことも出来ないのだ。野垂れ死ぬしかない。
そこそこの客入りらしいこの宿で、女将の言い付け通りにすれば住むところと食べるものは保証される。
十四歳の藍洙が生きるためには、ただ逆らわずに言い付けを守るしかない。香枦からくゆる煙が充満した部屋にぽつんと取り残され、机の上に鎮座ましている丸い石を見つめた。
占い師というのは、こういう丸い石の前に座っているものらしい。ぼんやりと青緑色の玉を見ていると、なんだか心が洗われるような気がした。
高い石なのだろうか?
深く吸い込まれるような色はとても綺麗だと思った。
「そんなに見つめられると照れちゃうわね」
「ひ……ッ」
ふとかけられた声に顔をあげると、見知らぬ人物が目の前に座っていて――藍洙は上げかけた悲鳴を慌てて飲み込んだ。騒ぎを起こせばつまみ出されてしまう。
「だ、誰……?」
「アタシはこの石の精霊。ブルーフローライトのフロウよ」
笑う声はゆったりと低い。
フロウと名乗った人物は、長い銀髪に切れ長の目をした、男性とも女性ともつかぬ顔立ちをしていた。ケープのようなものを見に纏っているため、その体型はわからない。しかし、眩しいほどの美貌はとても神々しくて、「女神さま……?」と思わず溢してしまっていた。
「女神じゃないわ。精霊よ」
「精霊……」
香の吸いすぎで頭がおかしくなってしまったのだろうか。ぼけっとした顔で美貌の人物を見上げる藍洙に、「ところでここはどこ?」とフロウが首を傾けた。
「ここは……雛菊楼。……娼館よ」
「ふうん……。あなたも売り物なのかしら?」
「ううん。わたしは役にたたないから……、ここで占い師の真似事をするように言われてるの」
藍洙に占いなど出来ないが、それらしく振る舞うように言い付けられている。フロウは「そう」と短く答えて眉尻を下げた。不憫な娘だと思われたのかもしれないが、藍洙にとってはフロウのほうが可哀想だと思った。
こんなに綺麗な石なのに、藍洙と客の目にしか触れないなんてもったいない。もっと然るべき場所に飾られていてもいいくらいなのに。
「ね、あなた名前は?」
「わたしは……藍洙」
「藍洙。アタシとお友達になりましょ」
ね? と笑ったフロウがふわりとケープを翻すと、
ふんわりとしたケープで隠れていた時には気が付かなかったが、フロウはかなり体格が良かった。
がっしりとした肩幅に、喉仏。でも、顔つきは傾国の美女といわれてもおかしくないくらいに整っている。そのアンバランスさに目を丸くしてしまう。
「フロウは、男の人なの?」
「どっちだと思う?」
「え……わからない。どちらにも見えるもの」
そう言うと、それでいいのよとフロウはにんまりと笑った。
宦官になった男性は徐々に女性化してくるというが、フロウはそれとも違う。あまりにも神々しいから、両性具有と言われてもこの世の人ならざるものなんだなぁと納得できてしまう。
リン、と鈴の音がなり、藍洙の背中はびくりと伸びた。客だ。
「フ、フロウ、隠れて……」
「平気よ。アタシの姿はあなたにしか見えていないわ」
え? と戸惑ったのも束の間、中年の男性が男衆に案内されて部屋に通される。二人はすぐ側にいるフロウの前を素通りした。
席についた男がじろじろと藍洙を舐め回すように見る。
「ヘェ! 可愛い占い師だ。この子は買えないのかい」
「こいつはダメだ。足が悪くてね」
「俺ぁ気にしないけどね。これだけ上玉だったら、お嬢ちゃんが動かなくても奉仕してくれる男は少なからずいるんじゃないかい」
ニヤニヤと笑いを浮かべる男に、藍洙は俯く。そっと藍洙の側にフロウが寄り添った。
「下品な奴等ね。でも負けちゃだめよ。ちゃんと顔を上げなさい」
故郷でも冷たく扱われていた藍洙に、フロウは母や姉のように笑いかけてみせた。
「あの男が懐に隠し持っている指輪があるの。その指輪が、不幸を呼び寄せている。一刻も早く手放すべきだって言っておあげなさい」
「え……?」
ばちりとフロウは片目を瞑ってみせた。
指輪? 不幸?
半信半疑だが、いつまでも黙っていては役立たずだと捨てられてしまう。一応“占い師”という触れ込みでここに座っているのだ。
藍洙は蚊の鳴くような声で、フロウに言われた内容を繰り返した。
「あ、あなたの懐にある指輪から、良くない気配がします。その指輪を、一刻も早く手放してください」
ニヤケた笑いの男は藍洙の言葉にぴたりと凍りついた。
「どうして俺が指輪を持っているって知っているんだ」
「あ、あの、その……」
――わたしには見えるんです。
耳元で囁くフロウの言葉を復唱した。
――その指輪がある限り、あなたは不幸の輪から抜け出すことは出来ないでしょう。
そう告げると男は懐に手を突っ込み、古びた指輪を引っ張りだした。
「た、確かに、この指輪を買ってから変なことばかり起きやがる……」
男は指輪と藍洙の顔を交互に見比べた。男衆はお飾りの占い師が何を言い出したのかとぽかんとしていた。
フロウの手が藍洙の手を取り、優しくフローライトに触れさせる。
――わたしには見えます。このままだとあなたが不幸になる未来が……。
「っ、す、捨てるよ! 捨てりゃいいんだろ!」
ちっ、と舌打ちした男が立ち上がった。お代は、とへどもどとぶら下がる男衆に男は銭を投げた。
「占い師! もしハッタリだったらどうなるか分かっているだろうな」
笑いなさい、とフロウに言われ――藍洙は微笑んでみせた。何もかも見透かしたかのように笑う少女に、男は気圧され、そして去っていく。
誰もいなくなった部屋で、藍洙は肩から崩れ落ちそうになった。
「なかなかサマになってたわよ、藍洙」
「フロウ……。ねえさっきのって、本当なの?」
でっち上げにしてはなかなか脅しが効いている。特に、指輪を所有していると言い当てたときなんか、男は目を丸くして驚いていた。
「ええ。あの男の指輪は呪われていたもの。……といっても浄化はアタシの能力の範囲外だから、教えてあげるくらいしか出来ないけどね」
「呪い……?」
「ええ。この世には呪われた品というのが存在するのよ」
俄には信じがたいが、この女神さまのような人が言うのならそうなのかもしれないと思った。
もしフロウの存在が、藍洙だけが見ている妄想だったとしても、藍洙の頭ではそんなことを思いつけない。
フロウを見上げる藍洙の頭を、子供にするみたいに優しく撫でられた。
*
ブルーフローライトの精霊だというフロウは、その日から藍洙と生活を共にすることになった。
フロウは不思議な存在で、姉のように藍洙の髪を触って遊ぶこともあれば、兄のように優しく抱きしめてくれる夜もあった。
占い師としての仕事は、はじめの客のように呪われた品を所持しているような人間は滅多におらず、殆どがただの悩み相談のようなものだった。
口下手な藍洙は、はじめはフロウに言われるがままの台詞を口に出していたが、それも何度も繰り返すうちに慣れ、次第に自分の言葉で話すことが出来るようになってきた。
聞き上手の占い師の噂は新しい客を呼び寄せ、娼館での藍洙の地位は徐々に上がっていく。
部屋も広いものに代わり、新鮮な空気が入る窓付きの部屋が貰えた。着るものも上等なものに変わっていき、「雛菊楼の藍洙」と名が知られていくなかで、変わらないのはフロウと過ごす穏やかな日常だった。
藍洙のたった一人の友達のフロウは、家族のように藍洙に寄り添ってくれていた。
しかし、藍洙が十六になった春――
「身請け、ですか……?」
――藍洙を身請けしたいという男が現れたと、嬉々として女将は語った。
身請け話はこれまで何度もあったが、看板商品でもある藍洙を手放すのはずっと女将が渋り続けていた。しかし、今回は違うらしい。
「いい話さ。あんたのことを身請けしてくれて、この雛菊楼の改築費も出してくれるっていうんだから。あんただって、あたしたちへの恩返しがしたいだろう?」
ほくほく顔で女将が笑う。今日の午後に迎えが来るから、と言われ、「そんな!」と藍洙は悲鳴を上げた。
「なんだい? そんなにこの娼館が気に入ってたのかい? おかしな子だね」
普通は早くこの暮らしから抜け出したいと願うものだ。自由な暮らしがしたいと乞うならいざ知らず、残りたいなんておかしな話かもしれない。
けれど、藍洙にとってはこの部屋の中でフロウと過ごす時間が全てだった。自由に歩けない藍洙にとっては、どこにいても鳥籠の中と変わらない。
「あ、あの、このフローライトは……」
「その蛍石ならもう買い手がついてるよ。あんたの見せかけの占いに必要だからと売るのは断ってきたんだが、もう必要なくなるしね」
フロウと、離ればなれになってしまう。
藍洙は勇気を出して食い下がった。
「こ、この石を頂くことは出来ませんか?」
「は? 馬鹿なことをいうんじゃないよ。その石は雲南で採れた上等なモンだ。小娘への祝儀でやれるほど安くはないよ」
「では、いつか必ずわたしが買い取ります。だから……」
「何を言われたってもう買い手がついてるんだ。今さら言われたってしょうがないよ」
女将の手がフローライトに触れる。丸い石は女将にひょいと抱えられると、藍洙の手の届かない扉の向こうへ消えてしまった。
「……今日でお別れみたいね」
眉尻を下げたフロウが藍洙の頭に触れる。優しい手だ。ずっと藍洙のことを励まし続けてくれた手。「嫌」と藍洙は子供のように泣いた。
「嫌……。嫌よ、わたし、あなたと離れるなんて……」
「アタシも寂しい。でもね、藍洙。アタシは精霊で人間とは違うの。あなたは、人間の世界で生きていく子なんだから」
ここを出れば、きっと新しい出会いもあるわ。優しく笑うフロウはそういって最後まで藍洙を励まし続ける。
「あなたは強い子だわ。この二年でずっと見違えた。これからは日の当たる場所で堂々と暮らしなさい」
「そんな、の……、どんな人かもわからないのに……」
身請け先で、藍洙がどういう扱いを受けるのかわからない。馬鹿ね、とフロウは片目を瞑った。
「日当たりのいい部屋をくれなきゃ呪いが降りかかるわよ、とでも言いなさい。これから先はそれくらいしたたかに生きなきゃ」
雛菊楼の藍洙はそんなに安い女じゃないでしょう?
フロウは初めてあった時と同じように、美しくて強くて格好いい。藍洙にとっては神様みたいなひとだった。
フロウがいなかったら、藍洙はきっとここにいない。
フロウがいてくれたから――藍洙は頑張ってこられたのだ。
「フロウは、これから先もずっと生きていくのよね?」
藍洙に関わった時間なんて、精霊のフロウにとってはごく僅かな時間だろう。忘れないで欲しいなんて図々しいことは言えないけれど――
「フロウ、わたしの代わりに、いろんな世界を見て来て。それで、もし、わたしが生まれ変わったら、その話をたくさん聞かせて欲しい」
「……ええ、もちろん。約束するわ」
フロウの長い指が藍洙の頬に触れる。涙を拭ってくれる手はどこまでも優しかった。
「幸せになりなさい、藍洙」
「ありがとう。フロウも……元気でいてね」
フロウの顔が近づき、藍洙は目を閉じた。唇に温もりが触れた気がして、目を開けると――そこにいたはずの「女神さま」の姿はもうどこにもなかった。
*****
懐かしい夢に、フロウはほろ苦い気持ちで瞼を開ける。
ふわりとフローライトから姿を現し、窓の外を覗く。秋風に漂う薔薇の香りが、フロウの鼻腔をくすぐった。
見慣れたキースリング邸の庭に、二つの人影が見える。喧嘩をしたり、仲直りをしながら作業をする様子を微笑ましく眺めながら、フロウはそっと記憶に思いを馳せる。
「ずいぶん遠くまで来ちゃったわねぇ……」
話したいことも見せたい世界も、たくさんあるのよ。
愛しい少女に語りかけように、フロウは長い月日をかけて形を変えたフローライトにそっと触れた。
エーデルシュタインの恋人 深見アキ @fukami_a
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