エピローグ
新しい季節を駆け抜けて
波が視界いっぱいに打ち寄せてくる。
「…………」
志之はぼんやりと立ち尽くす。パーカーと海パン一丁という姿だが、胸にはテーピングが施されている。肌色で目立たないので、痛々しさはない。実際、痛みももうない。
後ろではユーウェイン重工のスタッフたちが「設営完了っす!」「よし!」と明るい声で働いている。
八月末の海岸。夏休みもあと少しで終わるとなって、大勢のレジャー客が詰めかけていた。
その一角をチームでレンタルして、思いっきり息抜きをしよう、というのが以前から進んでいた三鷹の計画であった。
意外なことにスタッフたちはものすごく乗り気だった。医療班まで出張して、万全の体制を築いている。
まあ、みんなこういうときじゃないと忙しすぎて遊べないんだろうなあ……。
と、志之はしみじみ眺める。
不意にざわめきが起こった。更衣室から女性陣が現れたのだ。
一気に場が華やぐ。普段はオフィススーツや作業着の姿しか見ない彼女たちが、水着でしか肌を隠していないこの状況、大人な人々が浮足立つのもわからないでもない。
鹿住は黒い水着にサングラスまでキメている。男性陣の中では最も目立つ三鷹さえも、隣に並ぶと存在感を失う。それほどの美しさだった。広告塔にもなれるのではないか。
「なんだか修学旅行に来たみたいっつーか……」
なんて余裕ぶっていた志之も、
「いいじゃない。こんなこと何度も楽しめないわよ」
聞き慣れた声に振り返って、硬直する。
理緒は志之の反応に、少し恥じらう素振りを見せた。
白い水着だった。両手を尻の後ろで隠し、内股になっている。ビーチサンダルで砂を無意味に踏み荒らすが、その足は指先まで綺麗だ。
「ど、どうかな……?」
とにかく、色んな意味で、ダメだった。
ダメになったのは志之の頭だ。
制服、私服、作業着。理緒のプライベートな姿は散々見慣れているはずだったのに、水着は反則だろう。
屋内で作業することの多い彼女の肌は、健康的な白さだ。近くで見るとつやつやしていて、柔らかそうである。体も動かしているので、控えめに引き締まった体つきだ。
それなのに、うなじや胸や腹や臀部や何やらがどうしようもなく女性であることを志之に意識させる。
幼馴染なのに、初対面の誰かみたいだった。
いつもは下ろしているストレートヘアも、今日は緩い三つ編みに結っている。理緒が無防備に目の前に立っている事実が、志之から思考力を奪う。
「え、えっと……その……なんだ」
「うん」
「すごくどきどきします」
「――っ!?」
理緒は顔を真っ赤にして、志之から数歩離れた。
「似合ってるかどうか訊いてるんだけど!?」
「ごめんごめん似合ってる似合ってます!」
平謝りするしかない。顔が熱いのは決して直射日光のせいではない。冷たい飲み物が欲しい。氷水でキンキンに冷やしたサイダーとか。
理緒は「もうっ」とひと睨みすると、いきなり距離を詰めてきた。何をされるかと思えば、志之の腕に自らの腕を絡ませてきたのである。
「り、り、理緒!?」
「……志之ってば抵抗ないのねー。これからは女の人がたくさん近づいてきて、あんなことやこんなことされちゃうのよ。平常心を鍛えないと」
「『あんなこと』『こんなこと』って!?」
「人に知られたら恥ずかしくって外も歩けなくなるようなこと」
いいようにからかわれている。
志之は絡みつく理緒の腕とさっきから触れているような気がする胸に集中力を奪われながら、懸命に反撃を試みる。
「そ、そーゆーお前はどうなんだよ。こんなところ、誰かに見られたら困るんじゃないのか?」
「困らないけど」
「そーだろそーだろ困るだ……えっ」
「困らないけど」
繰り返す理緒は、意味深にこちらをじっと見つめる。水着姿でも眼鏡はつけていて、彼女の瞳が静かに揺れているのが見て取れた。
しばしの沈黙の時間が過ぎて、
「ちょっと歩こっか」
「お、おう」
ふたりは鹿住に買い出しへ出かけると伝え、砂浜を歩いていく。
互いに密着状態の慣れが生まれたのか、硬さはすぐほぐれた。いつしか志之が理緒をエスコートして歩くような姿勢になっていた。
「志之、泳げるの?」
カナヅチかどうかを尋ねられているのではない。
体の調子を心配されているのである。
「大丈夫だ。ハードなトレーニングをするワケじゃないしな」
「そっか。よかった」
はしゃぐのは今日が解禁日ではない。
試合の直後、入院の必要なしと診断された志之は、その足でメディアスタッフの前に出て、三鷹からシャンパンの洗礼を受けることとなった。
鹿住はパーティーを企画していて、関係者だけの祝勝会が開かれた。そこで志之は初めてユーウェイン重工社の上役と面会したのである。
立川整工は繁盛している。しかし、本業はチーム運営にシフトしているので、工場そのものを拡大する予定はなさそうだ。
後日、メディアの企画で、志之はクロムウェル親子と対談までした。とはいえ、トークの八割がクロムウェルの熱弁だ。志之は、話が終わるのを待つ犬みたいな顔を写真に撮られるのだった。
家に帰ると、連絡ひとつ寄越さなかった両親からメッセージが届いていた。
試合は観た。面白いデータが得られた。改良の役に立つだろう。そういう簡素な内容だ。
「……電話くらいしろっての」
呆れる志之だが、こうも思う。両親は立川から送られたデータから、志之が何を見て、何を決断して、どう動いたかを読み取るだろう。
ウチはそれでいいのかもしれない、と肩の力を抜くことにした。
そうして、一週間が経つ。
志之は新たな〈ビリオネア・チャレンジ〉の挑戦者として登録された。
〈雄風〉は再びグループBの仕様に戻され、戦績を十分積んだのち、グループAへの昇格を目指すこととなる。
世間はあっという間に志之を新しい神輿に乗せ、
メディアの引っ張りダコとなり、生い立ちやら参戦の経緯やらを何度も何度も話す羽目になった。宇宙開発機構への未練や、競技からの転身についても問われた。
なるほどこういうことなんだな、と志之は思う。自分の足が地面についていないような錯覚に陥るのだ。
今は〈ハウンド・ア・バウト〉のことで頭がいっぱいだ。
八月が終わって、〈雄風〉の修復が済めば、通常の試合に復帰する。ホルダーとして挑む第一回戦も忘れてはならない。
それ以外のことは、考えられない。
「少し休んだら、また試合だな」
「そうね」
「そういえばさ……『ご褒美』ってなんなんだ?」
試合直前、理緒がちょろっと囁いたことを思い出したのである。
理緒はおやっという表情を浮かべた。
「まだ考え中。でも、なんでこのタイミングで思い出したの?」
「た、たまたまさ。たまたま」
「ふうん?」
理緒ににやけ笑みで見つめられ、志之は目を逸らす。まるで『これ』以上のおねだりをしているみたいになってしまった……。
でも、本当のところ、どうなのだろう。
志之は自分の気持ちをじっと考えてみる。
売店に向かう道路へ出たところで、理緒がほほえんだ。
「それで、志之はどういう『ご褒美』が欲しいワケ?」
なかなか口に出せなかった気持ち。半年前まで眠っていた気持ち。普段は特別意識していなかったけれど、彼女を見れば当たり前のように持っていた気持ち。
なんだ、戸惑ったり恥ずかしがったりすることないじゃないか。
「なんでもいいのか?」
「いいけど? 私に可能な範囲でお願い」
「今できる」
「今?」
「俺と理緒がいれば」
志之は彼女と向き合った。
売店へ向かう道路は、ふたり以外に
車だって通りやしない。
「目を閉じてくれ」
理緒は「ん……」と頷いて目を閉じた。自ら顔を上げて。
志之は彼女の腰に手を回し、そして――
〇
九月初週。
《〈ハウぅンド・ア・バぁウト〉! 夏が終わってもまだまだ熱いスタジアム! みなさんお待たせしました、本日の試合がいよいよ始まります! 実況はワタクシ、鳴戸響と! 解説の六条宗晴さんでお送りします! よろしくお願いします!》
《はい、よろしくお願いします――》
まだ太陽の光はぎらつきを残している。
外の空気を吸いにガレージへ出た志之は、駐車場に停まっているチームカーを見つけた。
ブリギッド・モーター社の搬入車だ。
「そうか……」
〈ビリオネア・チャレンジ〉を終えた彼女のチームは、今日からグループAの〈4ハウンズ・バトルロイヤル〉に復帰する。
車の荷台にはハウンドの影も形もないようだが、
「やあやあ、志之くん! おはよー!」
明るい声が志之を呼ぶ。
そこにはすっかり笑顔の絵馬・ルゼットが立っていた。プレイヤースーツの上にジャケットを着込んでいる。
「絵馬……第何試合で出るんだ?」
「ラストだよ。志之くんは?」
「二番目。グループBだから、前座みたいなもんだ」
「そうそう、そうなんだよね」
絵馬が急に腕を組んで何度も頷くものだから、首を傾げていると、
「私はグループA。志之くんはグループB」
「……どうかしたか?」
「いやさ、『今度は俺が待つ番だ』って言われたけど」
志之の声真似のつもりか、声を低めるも、全然似ていない。
「よく考えてみたら、まだ私が待つ側なんだよね。だってグループAだよ? ランキングポイントもずっと上だよね?」
「……お前な」
絵馬はにかっと笑い、
「追いつき追いつかれがライバルってもんでしょ!」
ばしばしと志之の背中を叩いてきた。もうすっかり元気なようだ。
「〈4ハウンズ〉は、私が志之くんを待つ。〈ビリオネア〉のほうは――待ってて。また戦いに行くからさ」
「……ああ!」
ふたりは挑戦的に睨み合った後で、声を上げて笑い合う。また、試合の日々が始まるのだという実感が志之に灯った。
別れ際、絵馬は小声で呟く。
「ありがとね。待ってるって言われて、嬉しかった」
志之は軽く首を振って、笑う。
「ひとつ聞いておきたかったんだけど」
「何?」
「試合前のステージで、何か言いかけてただろ。俺のプレイングについてさ」
「あー……」
絵馬は空を見上げるような仕草をした。
「志之くんは相手を真正面からぶっ潰す! ってアレね。そーだなあ。あのときは、志之くんは相手が持ってる自信をへし折っちゃうようなプレイをするって言いたかったの」
「……やっぱり、俺ってひどく思われてるのか?」
「ごめんね。間違いだった。私もさ、フィールドで志之くんと戦って、負けて、そのあとずっと考えてわかったの」
絵馬は柔らかくはにかんだ。
「志之くんのプレイングは、相手の長所を潰す。本当に痛いところを突く。でもそれって逆に言えば、志之くんはちゃんとフィールドで相手を見てるってこと。それが相手の強さなんだってわかってくれるってこと。――私のプレイングは、私のものなんだってこと」
彼女は自分の胸に当てた手をぎゅっと握ると、こちらにパンチを繰り出すようなポーズを取る。
「さーて、今日も思いっきり勝っちゃうぞっ!」
「ああ。やるとするか」
志之のほうも拳を作り、彼女の手にこつんと合わせた。
コクピットシートに座ると、気持ちが落ち着いてくる。これが自分の世界で、仕事で、生き方なんだと思える。
外で理緒がタブレットを操作する。
「新しい腕のチェックは入念にやったと思うけど、実戦は初めてになるわ。動きがおかしいと思ったら、酷使しないようにお願いね」
「了解」
「武器のオーダーが来たわ。マシンガンひとり、アサルトライフルふたり。そのうちひとりはハンドガンも所持してるから、詰めるときは気をつけて」
「サンキュー」
ひととおりの確認が終わったところで、
《第二試合まであと十五分となりました――》
アナウンスが入った。
理緒が離れ、外からインカムで指示を出す。
《コクピット閉鎖》
「了解、閉鎖」
《リフト下降開始》
「了解」
《いってらっしゃい、志之》
「いってくる、理緒」
夏が過ぎ、ふたりの関係は変わった――ような、変わらないような。
しかし、今の志之は身構えることなく理緒をこう思えるようになった。
好きだ、と。
それは志之にとっては大きな前進だったし、大きな活力にもなる。向かうところ敵なしだろう。
武器を受け取り、フィールドへと向かう。
〈雄風〉の修復は終わっている。装甲も新品となって、橙色が眩しい。
待機線に立って、マニピュレーターを見下ろす。コントローラー・グローブの動きに合わせて、機械の指がきしきしと反応した。
コンマ数秒のタイムラグ。自分の感覚を同調させる。
志之はひとり、笑みを浮かべて呟く。
「さあ、やるぞ、〈雄風〉」
人は何かをやることに理由を求める。
あの人はどうしてこの世界に、あの人はどうしてこの選択を。
そんなものが当人にもわからなくたって、これからやることは至って単純明快だ。
走って、殴って、撃って、戦う。
試合開始まで十秒。
カウントダウンの秒読みが、始まる。
〈終〉
ハウンド・ア・バウト! あたりけんぽ @kenpo_h
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます