ミスター・ゴールデン・タイム

カント

第1話

 残業を終わらせて帰宅した僕を出迎えたのは、妻と娘と一枚の離婚届だった。


「さ、早く名前書いてね」


「ま……待って」


「何を?」


 ぴしゃりと妻が言う。娘は無言のまま、退屈そうにスマートフォンなど弄っている。僕の視界はぐにゃりと折れ曲がった。これが……これが約二十年間、必死こいて働いてきた結婚生活の末路なのか。こんなの……こんなの。


「あんまりだ」


「そうだあんまりだぞコラァ!!」


 突然、けたたましい破壊音が背後から響いた。驚愕に思わず首を竦めて悲鳴を上げる僕のすぐ後ろで、リビングルームの壁面がガラガラと崩れ落ち、中から。


「世界中のお父さんの気持ち考えたことあんのかコラァ!!」


 一人の男が現れた。ドスの利いた低い声で、不意の事態に混乱して後退する僕など気にも留めず、彼は壁に大きく開いた穴の中から、ずかずかと家に入ってくる。


「お前らちょっとくらいお父さんの言い分だって聞いてやるのが筋じゃねえのかコラァ!! フェアじゃねえケンカは江戸じゃご法度だったんだぞコラァ!!」


「だ、え、ど、どなたですか!?」


「尋ねたな、お父さん! ならば答えるぜエエエエエェ! 俺の名は! ミスター! ゴオオオオオオオオオオルデン・タアアアアアアアアアアアアアアイム!!!!!!」


 でええええん、と、男のバカでかい声に呼応するかのように、盛大な銅鑼の音が鳴り響いた。どこから鳴っているかは分からない。僕は目を白黒させることしか出来なかった。


 異様にテンションの高いその男は、服装もハイテンションハイボルテージだった。彼は全身が金色だったのだ。金色のスーツに金色のネクタイ、金色のボブカットに金色のカジュアルブーツ。唯一、シャツと肌の色だけが白い。あ、目を覆うアビエイタータイプのサングラスは黒だ。身長は恐らく二メートルを超えており、ボボボーボ・ボーボボもびっくりなほどの筋骨隆々ぷりは、彼が恐らく僕の家の壁を素手で破壊してきたのであろうことを彷彿とさせる。


「か、金目のものはありません! お引き取りください!!」


「もうこれ以上金色はノーセンキューだぞコラァ! そして落ち着けお父さん!! 俺の名は!! ミスター・ゴオオオオオオオルデン・タイム!! いまこの瞬間だけアンタの味方だ夜露獅玖!!」


 二度目の自己紹介でも何一つ意味が分からず、けれどようやく少し我に返って、僕はリビングルームの四人掛けテーブルを庇うように両手を広げた。妻と娘は微動だにせずテーブルの向こうで座っているが、きっと呆然として動けないのだろう。ならば僕が守らなければ。何せ僕は、これでもお父さんなのだから。


「オウオウオウ殊勝だなァ!? 午後二十三時のアンタのご帰宅を、熟年離婚志望で出迎えた妻子だぜェエエェエェ!?」


「そ、それは……!」


 僕はチラリと背後を見遣った。二十数年前はあんなに美しかった妻の顔には、苦労やらしがらみやらに囚われた結果か、幾筋もの皺とシミが浮き出ている。美しいとはもうお世辞にも言えない。娘は娘で妙にケバくなって、髪は茶に染めるわ耳にピアスの穴は空けるわ、今朝も「あたしの前にトイレ行くんじゃねーよ臭いんだよ」と吐き捨てるように言うだわで、ああなんかもう心がささくれてきた。


 けれど!


「それはきっと、僕が悪いんです! 仕事仕事でいつもこんなに遅い時間まで家に帰ってこなくて、きっと寂しい思いをさせてしまっていたんだ!」


「オイオイオイ泣かせるなァァァ!? でもそりゃ家族を養うためだろうがィ!!」


「何が言いたいんですかあなたは!!」


「ゴオオオオオオオオオオルデン・タアアアアアアアアアアアアアアイム!!」


 うるさい。破滅的な大声だ。僕は思わず耳を塞いだ。だが、そんな僕の両手を、Mr.ゴールデン・タイムと名乗ったその男はガシリと掴んだ。掴んで、強く言った。


「ナットク!! 出来るのかィ!?」


「は、はい!?」


「アンタこのままじゃ嫁にも娘にもホントのアンタを見せないままに熟年離婚まっしぐら、後は退職金含めて延々と金を吸い上げられるATMと化しちまうぜ!? だけどよォ!? そりゃあアンタの望みじゃねえよなァァァァ!?」


「僕の望み……?」


「そうさ! 見な、後ろの二人をヨォォ! あ、ちなみに今は時間止めてるから、嫁さん娘さんは俺が来てるってこと認識してねえぜ夜露獅玖」


「なんかさらっと凄いこと言ってません?」


 段々疲れてきて、僕は素直に感想を返した。返しながら改めて後方を見つめた。……確かに、ぴたりとも動かない。『微動だにしない』とは、将にこの様子を言うのだろう。


「俺には分かるぜェェ!! この二人が! 百パー!! 『お父さんならすぐに言いなりになって署名とハンコ押すに決まってるわねウフフ』と考えてるのがヨォォォ!!」


「言いなり……言いなりですか」


「ああそうさ言いなりさ! アンタはいつだってそうだったんじゃねえのかよォ!! いつだって今だって従順な犬みてェに人に言われたことを心を殺してやってきたんだろうがヨォォォ! だが、アアそうさ!! だがもう一回言うぜ!! そりゃアンタの望みじゃねエエエんじゃねエエエのかヨォォォォ!!」


 Mr.ゴールデン・タイムはクドクドしく叫び、僕の顔へ唾を飛ばしてくる。僕はそれをくたびれたスーツの袖で拭いながら、一方で思った。


 確かに、彼の言う通りかも知れない。


 僕はずっと、必死に働いてきた。高い給料では無かったけれど、妻も娘も養えるだけの稼ぎを、この二十数年間続けてきたつもりだ。確かに、家に帰るのはいつも夜遅い。休日も取れないくらいに忙しい日も多かった。だけど、逆に言えば、僕はそれだけ彼女らに尽くしてきたのだ。職場では頭を下げ、体が悲鳴を上げてもビル街を歩き回り、家に帰ったら既に眠っている妻子を起こさぬようにひっそりと風呂に入り、冷えたご飯とおかずを口に運んで、一杯の発泡酒を飲んで、眠る。ずっとそんな生活を繰り返してきたのだ。


 妻や娘に寂しい思いをさせた?


 そう糾弾されれば、僕はそれを否定できない。


 だけど、僕だって必死にやってきたんだ。寂しい思いをさせたくてさせていたんじゃない。妻子を幸せにするために身を粉にして働いてきたんだ! 幸せにするために!


「いいぜいいぜいいぜェェェ! アンタの心の底からゴールデンソウルがフツフツと煮詰まってくるのを感じるぜェェェエエエ!!」


 バンバンとMr.ゴールデン・タイムは僕の肩を叩いた。それから、一際強く叫んだ。いいかァお父さん、と。


「分かったらここからはアンタの! アンタだけの、ゴールデン・タイムだ!! 俺はそいつを顕現させるためにやってきたゴールデン・プレゼンテーター、Mr.ゴールデン・タイムッッッッ!!!!」


「僕のゴールデン・タイム……?」


「『反撃の時間』さ! 人に黄金が宿る瞬間!! それは追い詰められた者がテーブルをひっくり返す刹那ァ! アンタがアンタだけの為に輝くアンタの為だけの時間ンンンッッッッ!! その輝きたるや!!」


「か……輝きたるや?」


「すごくゥ……ゴールデン……」


 恍惚とした様相で、Mr.ゴールデン・タイムは天井を見上げながら告げた。事情は一切分からないが、とにかく、この人がかなりイっていることは間違いない。


「さァて、そろそろ俺の仕事は終わりだな……ァ? アンタの心には今、確かな黄金が芽生えた。フフッ。後は……じっくり、眺めさせてもらうぜェェェ……? 『父』が『漢』に回帰する、最高にゴールデンなタイムをヨォォォォ……!?」


 彼がそう言った刹那――また、激しい、鼓膜を突き破るような銅鑼の音が僕の耳にこだました。僕は思わず両手で耳を塞いだ。しかし。


「――ちょっと。なに耳塞いでるの? わたしの声なんて聴きたくないってこと?」


「っつーか早くしてくれない? あたしも明日、学校あるし。いちおー起きててあげたけど、さっさと済まして欲しいんだけど」


 背後から、妻と娘の声が、耳を塞ぐ両手をすり抜けてやってきた。僕はびっくりして妻子へ目を遣る。それから背後のリビングルームの壁を。交互に。


 妻子はきょろきょろしている僕の様子を、怪訝そうに見遣っている。だが、仕方ないじゃないか。何せ。


 さっきまでぱっくりと開いていた筈の、あの大男が入ってきたはずの壁の穴が、どこにも見当たらないのだ。いや、穴どころか、あの金色の男すら。


 居ない。


 先ほどまで足元に転がっていた壁の破材も、何もかも綺麗さっぱり無くなっている。まるで、先ほどの全てのやり取りが幻であったかのように。


 幻。


 幻?


「ちょっと! さっさとしてってば――!」


「うるせえ!! 何だお前ら帰ってくるなり離婚届とか畜生!!」


 僕はキレた。大声で喚くように言った。頭の中には、先ほどの大男の声がこびりついている。



『分かったらここからはアンタの! アンタだけの、ゴールデン・タイムだ!!』



「何が離婚だ!! ふざけんな!! いいか、絶対に離婚なんかしないからな!!」


 僕は叫んだ。


「僕はお前らを愛してるんだからな!! 絶対に離婚なんかしてやるか分かったかこん畜生!! とりあえず発泡酒だ!!」







 結論から言おう。


 僕と妻は離婚した。


「あの子の様子はどうだい?」


 あれから、数か月が経った。僕と元妻は、いま、川沿いの桜並木を共に歩いている。陽は優しく、大勢の家族連れや恋人たちが、同じように花見を楽しんでいた。


「変わらず、かな。元気ではあるけど」


 隣を歩く元妻は、そう言うと小さく笑った。どうしたの、と尋ねると、いやだって、と彼女は返す。


「わたしもあの子も、今でもたまに思い出しちゃってね。あの晩のこと。特にあの子には、よっぽど衝撃だったらしくて。今日、あなたに会ってくるって言った時も、全力で止めてきたわ。『大人しい人ほど何するか分からないんだから行かない方がいい』って」


「失礼な」


 娘は妻が引き取った。何だかんだと喚いてみたけれど、結局、僕は独りになったのだ。今日も家に帰ると、山積みになった洗濯物と洗い物が、無言で僕を出迎えることだろう。


 それは、変えることの出来ない出来事だったのかもしれない。二十数年間積み重ねてきたすれ違いが、あんな一瞬のキレ芸で何とかなる程、世の中は甘くない。……ということだと思う。


 だけど。多分、あの一瞬の本音で、変わった未来もあるんじゃないか、と、最近、よく思う。


「それで、そっちは?」


「そっちは、って?」


「いい人は出来た?」


「まさか。君は?」


「毎日で精いっぱい」


「奇遇だね」


「うん、奇遇」


 元妻は、またそうして笑った。その横顔を、二十数年前と比較するのは酷だ。だが、それでも、と僕は思う。


「君は昔っから、笑うと綺麗だ」


「……昔から思ってたけど、そういう見え透いたお世辞、やめたら?」


「お世辞だと思ってたの?」


「まさか本気で言ってた?」


「僕はいつだって本気だ」


 そう真面目な顔で言うと、元妻は大きな声で笑った。そこに棘は無く、僕は何だかとても不思議だった。彼女と歩いていると、二十数年前に巻き戻ったかのような、新鮮な感覚が蘇ってくる。そして……きっとそれは、彼女も一緒だろう。


「手でも繋ごうか?」


 提案した僕を、はにかみながら彼女は笑った。そして、右手を差し出してくる。それを左手でしっかと握りながら、僕はあの晩の、あの男のことを思い出した。


「ねえ、君。Mr.ゴールデン・タイムって人を知ってるかい?」


「? 何それ? 新しい芸人か何か?」


「いや……」


 僕は答えに詰まった。『何それ』――そう言われると、僕にも分からない。何というか、一種の幻のようなものだったのかもしれないし、或いは神様とか天使とか……なんかそういうもの……なのかも?


 ……ああ、でも。間違いないことが、一つある。


「すごく変な人なんだ」


「そうでしょうね。名前からするに」


 元妻は納得したように頷いた。頷く彼女と共に、僕は歩いた。彼女と手を繋いだまま。





 「うーん、ゴールデン」という誰かの言葉が、ふと、聞こえた気がした。

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