青ざめた舌

宮元早百合

青ざめた舌

 小学校に赴任して一年目の先生が同僚の女教師から僕について相談を受けたのは十月の終わりの、運動会が終わった直後で中間テストまで忙しい用事のない、そんな日の昼休みで、ついでに先生の誕生日が近づいていた。僕と、先生と、同僚の女教師の通う小学校は国語の授業を毎日の成績ごとに普段と違う三つのクラスで教えていて、女教師が担当していたのは学年で国語の成績が一番悪い三分の一だったし、僕はそのクラスで将来の夢についての作文を書いた。女教師は僕の作文を先生に見せた。それで先生はせっかくの忙しくない時期に、とつぜん現れた問題児のことで頭を抱える羽目になった。

 次の日先生は僕を職員室に呼び出した。先生は僕の担任だった。それで先生は、恥ずかしげに俯いている僕を眺めて、クリアファイルの真ん中に挟んだ僕の作文をちらりと見ては気まずい思いをしながら、一体この凡庸な少年のどこに、こんな猟奇的な殺人を考える理由があるのだろう? と考えた。

 とりあえず先生は尋ねてみた。宮元君、きみはこの前の作文の授業で、その、あまり良くない事を書いたんだってね。

「ごめんなさい」僕は先生の足元を見つめて言った。

 謝らなくても良いんだよ。先生は職員室の椅子に座って広げた自分の膝に、手をついて僕を見上げるようにした。ただ、きみがどうしてあんなことを書いたのか、先生としては知らなきゃいけない。

「僕がやらなきゃいけないんです」僕は小声で言った。それから周りを見まわして、先生に顔を近づけた。「あまり大声で言いたくないんですが……」

 じゃあ静かな部屋に行こう、と先生は言った。それから理科室の鍵を借りて僕を連れて入った。理科室の硬い椅子に先生は僕を座らせて、それから自分も隣に座った。

「僕のお母さんは可哀想な人間なんです」僕の声はこわばっていた。

「子供の頃から父親にはずっと殴られていたし、母親は妹の面倒しか見ないで無視していたし、優しくしてくれた祖母と伯父は二人とも十歳の誕生日までに死んでしまった。夫にも殴られ続けてる。最近はついに息子まで暴力的になってきた。わたしの味方は誰もいない。ずっとそう言ってます」僕が一息にそう言うのを、先生は何となく落胆するような気持ちで聞いた。僕に兄弟がいたかどうか、先生は思い出そうとした。それから、あまり印象のない僕の母親が、どんな姿だったか思い出そうとした。どちらもうまく思い出せなかった。

 僕は突然話を切った。先生は僕が続きを話すのに十秒も待った。それでも僕が何も言わないので、それでどうして君がお母さんをどうこうしてしまうって話になるんだい? と、尋ねた。

「でも僕は頭が悪いんです」僕は目を赤くして言った。「お母さんのことを世の中に、世界中の人間に知って貰わないといけない。だけど頭が悪いから、小説家にはなれない。だからもう殺すしか残っていないんです」

 そんなことはないでしょう? と、先生は馬鹿みたいな笑顔を作って言った。僕は下を向いたまま首を振った。先生は思わず溜息をつきそうになった。それからひとしきり考えたが、何も思いつかなかった。また明日話そう、と先生は言って、僕を教室に帰した。

 その晩先生が自転車で安アパートに帰ると、先生と二人暮らしの母はちょうど夕食を作っていた。先生は先生の母に僕の話をした。

「寂しいんだよ。あんたがその子の気持ちを分かってやればいいんだ」

 先生の母は二番茶を啜りながら言った。先生は言った。でも、あんな変な子供、初めてだ。気持ちなんて分かる訳ないよ。それから少し考えて言った。僕とあいつに、共通点なんてあるかな。複雑な家庭事情かな。母さん、自分が可哀想だと思ったことある?

「あまり馬鹿な冗談言いなさんな」先生の母は言った。それで部屋を出ていった。先生は先生の母の離婚のことを考えていた。今までそれを人生の汚点だと思っていたが、今ならこの話を有効活用出来るのかもしれない。と、先生は思った。

 翌朝先生は再び僕を呼び出して言った。実は僕も君と同じなんだ。母親は父親に暴力を受けていた。それで僕の母親は離婚したけれど、人の家庭事情はそれぞれだから、君のお母さんにも離婚しろなんて言わないよ。言いたいのはそういうことじゃないんだ。僕は自分のお母さんを殺したりしてないけれど、こうしてちゃんと生きている。

 僕は曖昧に笑った。先生はうっすらと達成感を味わいながら言った。君もこれから頑張れよ。昨日は小説家になれないって言ったけど、やってみないと分からないじゃないか。

 僕は途端に顔をしかめた。それから顔を赤くして怒鳴るように言った。

「先生なら分かると思ったんだけど。小説じゃ駄目なんです。だって小説にしたら、面白がられるだけだ。それは駄目だ。でもニュースは嘘を言わない。テレビで特集されれば、みんな本当だと分かるでしょう。だから殺人事件にするんだ。そして有名になる。本当のことだと分からせなきゃいけないからです」

 先生は長い間何も言えなかった。やっとのことで、ノンフィクション作家ならどうだ? と、罪悪感のようなもののなかで言った。

「これは本当のことです、って初めのところに書いたり、作者の写真を載せたりするだけですよね? 僕も読んだことがある。結局ふつうの小説と同じです。僕はお母さんのことを身近に、真面目に考えてほしいのに」

 先生は次の日、社会の授業をして、休み時間に先生と僕との共通点を考えて、理科の授業をして、昼まで空いた時間をまるまる僕について考えるのに費やした。それからもう一度僕を呼び出した。

 やってみよう、と先生は僕に言った。僕は驚いたように見えた。

「なんでですか」と僕は訊いた。その表情がおかしくて先生はつい笑った。君が言い出したんだろ? と言うと、僕は眉をひそめた。先生は真面目な顔を作り直した。聞いてくれ、と前置きして、先生は語った。つまり、もちろん人を殺すのは良くないことだ。だが、そういう気持ちになってしまったものは仕方ない。そうだろ? だから、少しだけ、実際にやってみるんだ。それで気持ちが収まるかもしれないし、途中でいけないことだと心から分かってくるかもしれない。だから途中までやってみよう。どうだろうか?

 僕はしばらくして頷いた。先生は笑い返した。これで僕の教育がうまく行けば昇進も夢ではないとさえ思った。それで、まず一般的な殺人の方法を僕の代わりに調べる約束をした。

 先生は昼休み、教室にちらほらと残る生徒を眺めながらパソコンのシークレット・ウィンドウで人の殺し方を調べるようになった。これは絵に描いたような背徳行為であるが、それこそ人間の本質であって、いつか人が学ばなければならない事柄なのだ、などと考えた。ちょうどそのころ集団自殺が流行っていた。練炭が排出する一酸化炭素は痛みもなく眠るように人を死に至らせる。

 僕は放課後毎日職員室に来るようになった。先生は静かな理科室で毎日僕と話した。僕は先生に僕の母が昨日殴られたことや、僕の母の先祖のことを話し続けた。先生は先生の母のことや、練炭自殺のことを話した。僕は本物の練炭を見たがった。それで先生が練炭を買って、学校に持って来ることになった。

 先生は帰り途にホームセンターで七輪と練炭を買った。アパートでは先生の母が料理をしていた。先生は四畳半のこたつの上に七輪を置いて、明日のリハーサルをしようと思った。それからテレビ台の中のマッチを取って、説明書とスマホを見比べながら練炭に火を付けた。テレビではお笑い芸人が野次を飛ばし合っていた。先生は練炭の隙間で揺れるマッチの火を眺めた。

 気が付くと先生は泣き叫ぶ先生の母に揺さぶられていた。何があったのか先生には分からなかった。ただ年甲斐もなく喚く先生の母をうるさいと思った。しかし時間が経つに連れて分かってきた。急に身体がいちど大きく震えた。先生は先生の母の肩を抱いて宥めた。震えは収まって何もなかったように好調になった。

 翌日午前の空き時間、職員室に帰った先生を教頭が呼んだ。先生は自分の机に行こうとした。

「先生、とりあえず来てください」と、教頭が言った。先生がこちらも準備があるので、と答えると、「まあ、とりあえず来てください」と、教頭が言った。先生が校長室に入ると同僚の女の後頭部が見えた。同僚の女は振り返って先生をじっと見た。

「宮元君の教育方法についてですが」と、教頭が言い出したのを遮るように、先生は話した。聞いてください、これには様々な事情があってですね。まず、今は私の机にありますけど、彼の書いた作文を読んで頂きたい……。先生は喋りながら、心の中で形のない何かを思った。一瞬、大学時代の風景を思い出した気がした。

「先生、しかし、我々としては、見逃す訳にはいかない」教頭は机のあたりを目で追いながら言った。誰も先生の話を聞いていなかった。あっけなく先生の減給処分が決定した。先生は黙って校長室を出て、その場で僕を校内放送で呼び出した。

「何でしょうか?」僕は先生を見上げた。

 先生は言った。あれ、そろそろやめようか。

「そうですね」僕は言った。それからほっと息をついたように見えた。

 ――本当に? 先生が言っておいて何だけど、本当にもうやめちゃうの?

「はい。もう大丈夫です」僕は言った。

 ――どうして、やめる気になった?

「……みんながやめておけって言うので」

 ――そんな理由か! 先生は笑った。それじゃ、本当はやめようと思っていないわけだ。

「そんなことはないです」僕は言った。「人を殺すのは良くないことでしょう」

「本当よ」同僚の女が脇から顔を出した。

「先生に宮元くんのこと頼んだの、間違いだったかしら? まさかそんなことするなんて思ってなかったよね」

 先生は唇に笑みを浮かべて、二人を見比べながら小さく何度も頷いた。

 放課後になっても僕は来なかった。先生は何かを思って、それから自転車で帰った。先生の母はアパートの居間でテレビを見ていた。早く帰宅した先生を見て驚いた。減給になっちゃったよ。先生は言った。先生の母は「まあ」と言ったきり口を抑えて黙った。先生は初めから僕のことを話した。先生の母は殴られて離婚した、と僕に言ったことも話した。

「何、馬鹿にしてるの?」先生の母は怒り出した。

「本当の理由はあたしの不倫だって知ってるじゃない。何でそんな嘘をついたの。本当の理由じゃいけない? あたしは可哀想じゃないの?」

 先生は後日、受け取った給与明細の写真をデジカメで撮った。それから2ちゃんねるにスレッドを立てた。『生徒の相談に乗ったら減給処分になったんだがwwwww』先生はインターネットの向こうの誰かが反応するのを待った。数十分も画面を見つめたまま、先生の母の鼾を聞きながら、じっと動かず待っていた。それでも誰も来なかったので、別のことをやり始めて、遂に今になった。僕は今何をしているのだろうか? 何が間違っていたんだろう。誰か。

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青ざめた舌 宮元早百合 @salilymiya

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