震える男

隠居

蝉の念仏



 ちりちりとした蝉の羽音が喧しくも車内に鳴り響いていた。ぶつぶつ途切れながら音を発するラジオの人声と、タイヤに巻き上げられて弾ける砂利の音。それらの音を搔き消すように、羽音はちりちり、ぢりぢりとこの古めかしいセダン車を包み込んでどこまでも付き纏っている。

「お客さん、随分と深いところまで来てしまいましたね」

 ハンドルを握っていた運転手の男は身に付けている手袋で汗を拭いながら、後部座席に座る私へと声を掛けた。辺りの騒音に声を消されまいとしているのか、大きめに発せられた声量に思わずびくりとして私は運転手のほうへと視線をやる。運転手は私に声を掛けながらも後ろを振り向くことはなく、ただ前だけを見据えてこの生い茂る木々の中にゆっくりと車を走らせていた。

「そりゃあ仕事ですからね。私はこの仕事のためならどこへだって行きますよ」

「お好きなんですね、今のお仕事」

 ぶっきらぼうに答えた私に呼応し、運転手も適当にそれだけを返すと再び車内には辺りの騒音だけが残った。こめかみから流れ出した汗が顎先に伝い、ぽたりと手のひらに落ちる。運転手に気付かれぬようにして手のひらをシートに擦り付け、汗を拭き取った。そうっと拭き取ったのには理由がある。何でも、つい先日行われた車内清掃で後部座席のシートは替えたてだと運転手が言うので、見られでもしたら咎められてしまうと考えたからだ。気付かれていないことを確認すると、それから素知らぬふりをして全開に空いている窓枠に肘をかけ外の景色を眺めた。

 ──1993年、『完全自殺マニュアル』が刊行され世に出回るようになると、本を持ち出し自殺を試みようとする人の数が爆発的に増加した。特に、この富士の山麓に広がる青木ヶ原樹海での自殺者数には、警察も頭を抱えるほどであった。元々自殺の名所として知られる青木ヶ原ではあったが、平成の世になってからというもの、その数は増加の一途を辿っている。そのあまりにも多すぎる自殺者の数や、観光客でも目にすることのできる遺留品、遺体の多くにいつ頃からか、この青木ヶ原にはオカルトめいた噂が纏い付くようになっていた。そこに我が出版社、雑誌『オカルト研究会』は目を付けたのである。『オカルト研究会』はその名の通り、心霊やUFOなどといった超自然的な現象に重きを置く月刊雑誌だ。その専属記者である私は、青木ヶ原の心霊特集ページを組むため、遠路はるばる東京からタクシーでこの樹海へとやってきたのであった。

 雑誌の取材で青木ヶ原の樹海へ行くと運転手に告げると、男は目に見えて嫌そうな顔をしたため、以降仕事についての話は運転手とは交わしていない。が、私はこの取材に対し密かに胸を躍らせていた。その身の入り様といったら、企画段階から関わったほどである。私はこの手の話題には目がないのだ。この青木ヶ原には必ず何かがあると、そう己の直感が告げている。数多く言われている噂をこの身で体験し、その正体を見てやりたいと騒ぎ高ぶる気持ちを抑え、樹海の深くへと車を走らせているのであった。


「お客さん、大丈夫ですか?顔が少し赤いように見えますけど」

 窓の外に見える鬱蒼とした木々たちをぼうっと眺めていると、またもや唐突に運転手に声を掛けられ、先と同じようにどきりと心臓が跳ねた。今度は声の大きさに驚いたのではない。新品のシートに汗を擦り付けたことが露見してしまったのでは、と咄嗟に考えたのだ。ルームミラーをちらりと一瞥すると、鏡越しに運転手と目が合った。目敏い男である。他人の、それも後部座席に乗せている人間の顔の赤みに気が付くなんて、小さな悪事はとっくに知れているに違いない。しかし気分を害しているわけではなさそうだ。

 取材に対する高揚を悟られ、恥じた私は顔の赤さを太陽の光のせいだと言い訳しようとして、この場所が日の光を阻害する深い森だということを思い出した。だから、この赤みは暑さのせいにして、「車内が随分と蒸しているようで」とだけ答えた。

「すみません。先日、温度を下げすぎたのか冷房が壊れてしまいまして。この速度じゃあ、窓を開けていても暑いですよね」

 運転手の言う通りであった。ゆっくりと徐行しながら進む車体には、風の一つも吹いてこない。寧ろ窓を開けていることによって、辺りの蝉の騒音が喧しく車内に鳴り響き、暑さを更に耐えがたいものにしているのではないかとすら思えた。この場が多少なりとも標高のある地で助かった。盆地などを走っていては今頃焼け死んでいる。真夏に冷房が壊れているタクシーは今後御免被りたい。

「本当、すみません。あと少し行くとそこで車は行き止まりの場所なので。それまでご辛抱ください」

 運転手はそう言うと、手袋で額の汗を一拭いし、それから少しだけ速度を上げて車を進めた。この暑い中、よくもまあ手袋なんてものを身に付けていられる、と思わず感心した。タクシーの運転手という職業柄、仕方のないことではあるのだろう。

 しばらくして緩やかなカーブを抜けると、先程の景色よりも深く、より色濃くなった木々たちが僅かな風に揺られて鬱蒼と茂っていた。率直に言って薄気味の悪い場所だ。明らかに下がった辺りの温度に、いよいよかと胸が高鳴る。葉が重なり揺れる音がしては、今にも死体か何かが転がってくるのではないかと口元が緩みそうになるのを必死に噛み殺した。そして高ぶる気持ちを誤魔化すために、

「ここ、何だか人を殺してしまっても、わからなさそうですね」

 と、つい口にしてしまったのだ。しまった、と思った。だが口を噤んだ時にはもう遅い。いくらオカルト雑誌の記者とはいえ、他人に「人を殺しても」だなんて話し出す男は危険すぎる。私が他人としてこの話を聞けば、即座に近付いてはいけない人間のレッテルを貼るだろう。変質者だと思われても仕方がない。青木ヶ原へ取材に一人向かっている時点で十分変質者なのだから、否定はしないのだけれども。

 そら見たことか。運転手もびくりと肩を震わせて、車の進む速度も落ちてしまったではないか。慌てて取り繕い、冗談ですと続けようとすると、緩やかに踏みあげられタイヤの下敷きになった砂利が、バチバチバチッと悲鳴をあげる。電波が悪いのかぶつぶつと途切れながら音を発するラジオのそれは、最早人の声などには聞こえずブッブッと呻吟する亡霊のようでもあった。にこりと無理矢理口角を上げ口を開こうとした、その時。

「わかりませんよ」

 と、自分のものではないはっきりとした声が斜め前の運転席から聞こえた。

「え?」

 その声の主が運転手だと気が付いたときには、心中で呟いたものが言葉となり、声となって外に漏れ出ていた。驚き瞳を丸くして、しきりに目を瞬かせていると運転手は再び同じ言葉を繰り返した。

「わかりませんよ、人を殺しても。この場所なら」

 何か悪いものが乗り移ってしまったかのように、突然様子の変わった運転手を目の前にして私はただ呆然としていた。しかし運転手はこちらの様子など意にも介さず、相変わらずただ前だけを見据えて話を続ける。のろのろと車を前進させながら、先程までの張りのある声はどうしたのだというほど覇気のない声色で。ゆっくりと、されども淡々と。

「人を殺めたことがありますか」

 森に催眠術でも掛けられてしまったのだ、と思った。私も、この運転手も。それほど運転手の声は不思議と私の耳にすうっと入ってきたし、私も淡々と受け答えをしていた。「いいえ」と答えると運転手はそのまま話を続けた。

 この樹海にごまんと転がっている遺体はね、何も自殺者のものだけではないんです。人の首に両手を添えて、そのまま力の限りに圧力を加えると、気道を圧迫された人間はもがき苦しんで、自身の首に巻きついた手の甲を掻き毟るんです。それから数分も経つと、やがて力をなくした腕はぼとりと地に落ちて、そのまま力を加え続けると、気道は完全に潰れて、人は息絶えるんです。そうして殺めた人間をね、縊死した人間がたくさん転がる森へと還すと、どうです。森には動物も住んでいて、人はそのまま放置されて、腐乱した亡骸は最早人の形を留めていない。どうです、人を殺しても、この場ならわからないとは思いませんか。


 全身に冷水を浴びたような心地であった。心臓が早鐘を打っている。高揚感によるものではない。これは紛れもない恐怖から来るものである。自身の胸の音とぢりぢりと喧しい蝉の声が重なり、警鐘のように身体中が、辺りが音を鳴らした。

 この運転手は、この男は、本当に人を殺めたことがあり、この地に死体を葬り、そして私も殺されてしまうのでは、といった考えばかりが自身の脳内をぐるぐると駆け巡っていた。何か言わなければ、と震える唇を噛み締め口を開こうとした時。

「──なんて、冗談です。私、実はB級のホラー映画が大好きでして。そのような話があったなあ、と」

 元の声量に戻った運転手があっけらかんとした様子でそう口にした。と、同時に車はブレーキを掛けてゆっくりと停車し、拓けた駐車場のような場所に到着した。あまりにも拍子抜けした展開に、私は思わず間抜けな声を出してずっこけてしまう。

「何だ、驚かせないでくださいよ」

「すみません、随分と暑いようだったので。さて、ここで車は行き止まりです。到着ですよ」

 後部座席を振り向き、にこりと笑う運転手は愛想のいい、まだ年若くも見える男であった。人懐こい笑みに私もつられて頬を緩めると、運賃を渡し、それから車外へと出て思い切り伸びをした。

 さて、色々とおかしな道中ではあったが、気を引き締めて取材へと取り掛かろうか。

「ここで待っていますよ」という運転手の申し出を、いつになるか分からないからと言って断った。それから開け放たれた窓越しに、運転手と一つ二つ、言葉を交わす。

「入り組んだ所まで来させてしまってすみませんね。帰り道は大丈夫そうですか?」

「ええ、この道は慣れていますから」

「それは良かった。お気を付けて」

「ありがとうございます」

 にこり、と笑んで運転手はギアをガチガチと鳴らす。そうして慣れた様子で元来た道を下る古いセダン車の後ろ姿を、私は見送った。


 それから程なくして、私は事の真相に気が付きがたがたと震え出したのである。

 壊れた冷房、真夏の手袋、新品のシート、慣れているといったこの道。森にはけたたましい蝉の音だけがじいっと木霊していた。


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震える男 隠居 @yakiba

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