媚薬事件 イルディ視点(後編)
「失敗した……」
まんじりともできなかった夜明けを迎えて、イルディは座ったままのベッドの上で片肘をついた。
空はいつの間にか白み始めている。
王宮の朝は早い。
下働きのメイドや厨房関係者、それに夜勤と交代する警備兵などはもう動き出しているのだろう。あちこちから微かに響く音を聞きながら、昨夜から何回目になるかわからない溜息をついた。
「まいりましたねえ……」
こんな感情は何年ぶりだろうか。前に淡い気持で感じたのは、もう五、六年も前なので気がつくのが遅れてしまった。
「まさか、私がディーナに……」
(恋をしていようとは……)
一人きりの部屋でさえ口に出すのをためらってしまうのは、長年の宮仕えの習性だろう。
宮中など、どこに耳があるかわからない。それなのに、こぼれる溜息はおさえることができない。
「ええ――ちょっと変だとは思っていたんですよ」
婚約破棄を依頼する候補者の肖像画を並べた時に、ディーナの笑顔がひどく鮮やかに見えたし。実際に会ってみると、肖像画の何倍も生き生きとしていて、金に困っているはずなのに、こちらに合わせたもてなしを用意してくる機微も気に入った。
だから、もう少し、詳しく話を聞いてから切り出すはずだったのに、一発で彼女だと思ってしまった。
「ああ――。そういうこと……」
(自分ながら呆れてしまう。何が彼女だ)
それでも、この時点ではまだ違ったと思う。
ふうと溜息をつきながら、俯いた顔を腕からあげた。
「だって――すごい頑張り屋なんですよ」
無茶な任務なのに、臆せずに正面から取り組んでくれた。
(あの度胸。時折見せる頭の回転の速さと、照れたような笑顔)
「どうしましょうねえ……。私は、彼女の大嫌いな男なんですが」
(どう考えても、性別の段階で不利なんですが)
「いや……、自分ながら、それはどうなんですか……」
まてまてと混乱している頭に引き攣ってしまう。
正確に把握しよう。男としては、恋愛の対象としては希望があるはずなのだが、異性と意識された段階で逃げ出されてしまう可能性が高いだけなのだと髪を掻き揚げながら考える。
「第一、彼女には陛下の公式寵姫を目指してもらうという任務がありますし」
(そうだ。自分の思いを告げるどころの話じゃない)
「もっとも、これも成功率はよくて三割なのですが……」
だからといって、任務を放棄していいという話ではない。
昨夜何度も計算してみた現在の確率を思い出して、ふうと一つ大きく溜息をついた。
「少し頭を冷やしてきましょう」
そして、手早く服を着替えると、解いていた黒髪を後ろで一つに纏めた。
公爵令嬢補佐としての身なりを整え、まだ朝早い王宮内を足早に歩いていく。
それでもさっきよりはだいぶ陽が昇ってきている。だから、夜通し王宮に詰めていた下級官吏の大半は起き出し、食堂に向かっていく。
その人波を足早に追い抜き、多分いるだろう姿を探すと、案の定見知った小柄な姿が、食堂から王宮内の学校に向かう中庭の通路を歩いていた。
「ガルディ」
自分にそっくりな後ろ姿に呼びかけると、相手が少し驚いたように大きな眼鏡をかけた姿で振り返る。
「兄さん。こんなに朝早くどうしたの?」
「それはこっちの台詞だ。お前、また食堂の用意を手伝っていたのか」
「家のお蔭で、小さい頃から家事と育児はベテランだからね。それより、何の用?」
瞳も揺らさずに答える弟に、やはり一つ溜息をついてしまう。
「別にたいしたことじゃないんだが……。少し、相談したいことがあって」
(こいつらにも苦労させているんだよなあ……)
法務官だった父が、宮廷内の権力闘争に巻き込まれるのを嫌がって、早くに退官したせいで、身分的に下級貴族の実家には、退職官僚に支給される恩給しかあてがなくなってしまった。
(だから、こいつらのためにも絶対に公爵家の職をやめるわけにはいかないのだけど……)
「ふん。兄さんが僕に相談なんて、どうせ何か仕事でへまをしたんだろう」
「うっ――!」
(だからこの弟は嫌なんだ)
こちらが何も言わなくても、気配と様子でずばりと痛いところをついてくる。
「別に失敗したというわけじゃない」
(このまましらばっくれることもできる。ただ、自分の感情をどうしたらいいかわからないだけで)
彼女が王の心を射止める確率は三割。
昨夜どんなに計算しても、王が心を変えない可能性は七割。自分で出したこの数字をどう取れば、いいのか――。
「お前なら、仕事の成功率が低ければどうする?」
「成功率?」
(ディーナにこのまま寵姫を目指してもらうべきなのかどうか)
本音は――どこかで、あがいている自分の心があるせいなのだが。
(わかっている。私の気持など捨てるのが一番だ)
ただ、なんでだろう。そう考えると、ひどく胸の辺りが痛い。
(仕事だとわかっているのに)
けれど悩む兄の顔に、ガルディはにっと唇の端をあげた。
「ふうん、その仕事成功して欲しいの?」
「な――!」
一瞬で本音を見透かされたような気がして、息が詰まった。
「何を言って」
「だって成功してほしくなさそうだったから。それなら、失敗してもいいと思っているんじゃないかなって」
「それは――!」
確かに思っていた。
彼女が王の心を射止められず、ずっと公爵令嬢に仕え続けるのなら自分にも可能性があると。
だが、駄目だ!
ぐっと拳を握りこむ。
(彼女には、たくさんの借金がある)
そして、普通の侍女の給料では、とてもあの莫大な借金を返していくことはできない。
「馬鹿なことを――。うまくいってほしいのに決まっている」
「ふうん。ひどく含みのある言い方だね」
(だから、こいつは……!)
どうして、一瞬で人の本音を見抜いていくのか。
だけど、振り返った先でガルディはかちゃりと眼鏡を持ち上げると、薄く笑った。
「それより、兄さん。いい加減アルディ姉さんをどうにかしてあげないと、いよいよいき遅れになってしまうよ」
もう二十三だろう、という弟の言葉にがっくりときてしまう。
(そうだった……。姉さんの結婚という問題もあった……)
恋人は何年も前からいるのに、幼い弟妹のために、ずっと結婚を伸ばしてきたのだ。
だが、さすがに二十四にもなって初婚もまだという女性は、貴族社会では珍しすぎる。
「あ。ああ……、そうだな……」
(いよいよ、本格的に私の恋愛問題どころではなくなってきた)
どう考えても、諦めるという選択肢しか出てこない。
(そして、私は彼女の作戦仲間として、彼女が王に愛されるようにすること)
たとえ、それにこれからどれほど胸が痛んでも。今と同じように、知らぬ顔で騙し続けるしかない。
思わず、ぎゅっと着慣れた長衣の胸を握り締めた。
胸が痛い――気がする。ディーナが王に向かって微笑みかけている姿を想像すると。
けれど、そんな兄の様子に気がついたのか。
珍しく弟が微笑むと、自分を見つめた。
「ああ、そうそう、さっきの解答だけどね。僕なら、成功率をあげるね」
「え?」
「見極めて、自分の望む方向に。だって、そうじゃないと本当の意味の成功じゃないだろう?」
かちゃりと黒い眼鏡を持ち上げている。
弟の怜悧な視線に、背筋を何かが流れていくような気がした。
「自分の望む方向に――成功率をあげる……」
「そう。何もしなければ、なんでも可能性は五分と五分。だけど脅迫をすれば、二割はあがるし、証拠をつきつければ、先ず逃げ場はなくなる」
「だから、すぐに脅迫するその姿勢は見直しなさい」
「まあ、悩むのなら方向性が違うということ。どうやれば自分が望む未来を手に入れられるのか。そのための可能性を全て洗いなおして、どうやって望むことの成功率を高めるかということじゃない?」
「成功率を高める――」
(そうだ。確かに考えてみれば、この自分の悩みへの答えは、彼女が王に気に入られて、公式寵姫となるか、ダメかそれ以外があるはずだ)
ディーナが王を射止める確率は三割。そして王がアグリッナ様を諦めない可能性は七割。
(その中で私の恋が叶う可能性は――)
きっと単純な七割ではないだろう。
何かがあるはずだ。王とアグリッナ様の関係が動き、私もこの恋を捨てずに打開する方法が。
「そうだな。だって我が陛下は、本当に偉大な方だから」
何かある。そう思って笑いかけると、いつも冷徹な弟は、ちょっと驚いた顔で、軽く唇の端をあげた。
(きっとどこかに全てを叶える方法があるだろう)
だからと、イルディは青くなり始めた空の下に歩き進んだ。そして、立っている弟の髪を一度撫でてやる。
「わかった。頑張るよ」
「それなら重畳――」
なんて生意気な口なんだろうと思ったが、朝日の中で、笑いながらくしゃっと髪を撫でてやる。
(仕事のためではなく、きっと陛下のためにもアグリッナ様のためにも。そして自分のためにも、この問題を解く方法が)
だから今は隠そう。
青い空を見あげて、心に誓う。
(いつか、全ての問題を解く方法が見つかった時、全力を尽くすため)
それまでは、三割が私の仕事。だけど、残りの七割を見ている気持も、大切に心の中に暖めておこう。
(貴方が好きです、ディーナ)
言えるかわからない言葉と共に。
見上げた空は、いつも強い彼女を思い出させるほど爽やかな青さだった。
悪女ですが!? ~婚約をぶち壊して、王の寵姫を狙います~ 明夜明琉 @yuzuazu
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