お礼小話 媚薬事件 イルディ視点(前編)
しまったと思った!
目の前では、ディーナの青灰色の瞳がこれまでにないほど大きく見開かれている。
(今、私は彼女の唇に何をした?)
ゆっくりと自分の唇から遠ざかっていく温もりを感じながら、イルディは急いで頭を冷やした。持っていたグラスを卓に置くふりをしてディーナから視線を逸らしたが、頭の中では怒涛のように情報が流れている。
(なんで、こうなった?)
ああ、そうだ。ことんとグラスを卓に置く感触が伝わったのと同時に、頭の中に、ついさっきまでの記憶が蘇ってくる。
ほんの三十分とたたない前のことだ。ディーナに指示を出して、王に媚薬を盛らせようとしたのは。
こんなことは本意ではない。
内心では呟いたが、イルディが渡した媚薬を忍ばせた焼き菓子をもって部屋を出て行くディーナの背を見送りながら、本心ではない言葉をかけた。
「頑張ってください」
彼女が顔をしかめている。
(嫌な男)
まあ、これぐらいの意味なのは間違いがないだろう。
「わかっているわよ! 仕事ですものね!」
「その意気です」
パタンと扉が軽い音をたてて閉まる。
(よくて、成功率は三割)
軽く微笑んだ表情をしまい、自分で出した確率に小さく溜息をつく。
(それでも、今の陛下とアグリッナ様の状態をなんとかできるのなら……)
王の婚約者であるアグリッナに与えられた部屋の椅子に腰掛け、背を預けた。軽く両手を組むのと同時に、豪奢な天井を見上げる。
あまりに長い年月同じ状態を続けたせいで、王とアグリッナの関係性はすっかり固まってしまっている。
アグリッナは王との婚約で、自分の出自を攻撃されるのを嫌がっているし、王はだからこそアグリッナを自分の手で守りたいと考えている完全な堂々巡りだ。
(だから、型破りな力を持つディーナの存在で、何かが変わればと思ったのですが……)
それでも、成功率は三割。先ず敗退が確実。
それなのに、ちらっと時計を見た。
(まだ彼女が部屋を出てから、三分しか時がたっていない)
「おかしいな。壊れましたか?」
(いや、そんな筈はない。時計は毎朝、侍女たちが全て合っているか大聖堂の鳴らす鐘で確認しているはずだ)
「焦っても仕方がありませんね。成功すれば、帰りは早くて夜明けなはずですし」
(まだ十分に時間はあるはず)
だから背筋を伸ばしてくつろいだのに、なぜかまたすぐ瞼を開けてしまう。
「こちこちとうるさいですねえ」
(これだけ賑やかなのに、まだ一分しかたっていないって、品質に問題があるんじゃないだろうか?)
「今度時計屋に相談しましょう」
そう――時計屋なら、きっと無音時計だって作れるはず。
時計の音さえなければ、きっとこんなに気が散らずに、作戦のことだけを考えることができるはずだ。
「そうだ。どっちにしろ、なにか起爆剤がないと」
(陛下と公爵令嬢の関係は動かない)
この時計の針のように、少しでも関係を動かすために、ディーナを起用したのだ。
このまま王が辛い片想いを続けるぐらいなら、いっそアグリッナが望むように、婚約破棄をするのも一つの方法だろう。王の心がディーナに動き、彼女を愛するようになるのでもいい。
(もし、彼女が確率三割にまで届くことができたのなら……)
王は彼女に触れるだろう。
そこまで考えた瞬間、なぜかどんと手が卓を叩いていた。
「うるさい!」
(ああ、もうなんで、こんなにこちこちこちこちこちこち、ひっきりなしなんだ!)
時計が一秒一秒を丁寧に教えてくれるから、妙に時間が気になるじゃないか!
成功しているはずがない!
(うちの陛下の頑固さ、偏屈さ、いやもとい! 熱愛ぶりは後世までの笑い種、もとい! 武勇伝になること間違いなしなのに、なんで私はこんなに時間が気になっているんだ!?)
「ああ――……そうですね。自分で選んだ女性が、陛下のお気に召すかの大事な賭けの日です。気にならないはずがありませんね……」
(そうだ。これは、きっと自分の作戦が成功するかの心配)
だから、気になって当たり前なのだ。
心で呟いて納得すると、椅子から立ち上がった。突然の動きに、後ろでがたんと椅子が音をあげているが、振り返る余裕もない。
(だから、私が作戦の成否を確認しに行くのは当たり前のこと――)
自分に言い訳をすると、急いで部屋の扉を出た。
(それなのに)
王の部屋から追い立てられるように出てきたディーナの頬は、ひどく赤くて。
白い真珠色の肌が、柔らかな薄桃色に高潮して、瞳がこぼれるように揺れている。
少し苦しそうな息が、普段より紅く染まった唇から切なそうにもらされるのに気づいた瞬間、王の部屋の前に立つ衛兵から彼女を隠すように歩みよった。
「やっぱり不首尾ですか」
信じられないという顔でディーナは見上げてくるが、素早く肩を抱いて、体の横に隠してしまう。
「正直に言えば、成功率は三十パーセントもあればいい方だろうと思っていました」
「なっ――!」
イルディの言葉に思い切り睨みあげてくる。
(それはそうだろう。彼女にしてみれば、一大決心だったはずなのに、最初から失敗すると思われていたと知れば……)
それなのに、支えている体から伝わって来る体温は、熱をもったように暖かい。
服の布を通してなのに、まるでディーナの熱が伝わって来るかのようだ。
瞳を潤ませて、苦しそうに吐息をつきながら歩いている体は、きっと王に疑われないように自分も媚薬を食べたからなのだろう。
肩を抱いている上気した顔から目を離すことができない。
(なんて……)
その後は、心の中でさえ言葉にならなかった。
だからなのか。連れて行った彼女の部屋で、震える手でうまく解毒薬を飲み込むことができなくて困っているディーナに、薬を飲ませるにことよせて、引き寄せられるように口付けをしてしまったのは――――。
「え?」
大きく開いている青灰色の瞳に気がついて、自分も目を見張る。
(何をやった、私!?)
けれど何気ない素振りで唇を離した。冷えていく唇は名残惜しいが、意識を奪われている場合ではない。
だから、ディーナから目を離すと、ことさらゆっくりとグラスを机の上に戻す。
ことんと、奇妙なほど大きく音が響いた。
「大丈夫。すぐに解毒できますから」
(信じられない! 何をしでかした、私!?)
しかし、今イルディが突然した行為に、ディーナは口をぱくぱくとさせている。
「なっ……なっ……!」
「ああ、本当はもっと早く効果的に鎮める方法があるんですけどね。そちらは、いつか玉体が触れられる体なので、申し訳ありませんが」
冗談めかして、自分に自制をかける。
そして、にっこりと笑って見せる。
(笑え、誤魔化せ!)
「では、おやすみなさい。沈静作用もあるから、すぐに眠れますよ」
「え……、ちょ、ちょっと……」
言葉にならない単語をいくつか彼女の唇が呟いているが、振り返らずに扉を閉める。
(何をしているんだー!? 私は!?)
抜かった。今までにない仕事上の痛恨のミスだ。
今の今まで隠していた感情が心の蓋を破ってくるのを感じて、閉めた扉の後ろで熱くなってくる顔を、持ち上げた手で押さえた。
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