第8話――暗雲の中で

 その後、イマドキから電話があったのは深夜のことだった。カササギを送り届け、緊急手術が終わるのを待ち、ようやく病院を離れられたのがついさっきらしい。聞くと、自分の勤めるジャパリパーク中央病院から掛けてきてるようだった。

 警備室に一人詰めていたアラシロは、電話口から聞こえるイマドキの言葉に落胆の息を吐いた。


「……意識は戻ってないのか」

「今、集中治療室で二十四時間体制のサンドスター照射を受けてるわ。まずはこれで容態を安定させ、詳しい治療は後日行われるそうよ。フレンズの肉体を構成する主な要素はサンドスターだから、通常はこれである程度の回復を望めるんだけど、今回の場合は……」


 電話の向こうでイマドキがため息を吐くのがわかった。


「出血の原因がなんであれ、内臓に――少なくとも消化器官の全域に関しては確実に――重篤なダメージを受けてるのは間違いない。サンドスター照射で出血は止められるとはいえ、あそこまで進行しているとなると。いくらフレンズの治癒速度を持ってしたところで、先にカササギの体が限界を迎えるのは間違いないでしょうね……」


 そう言って、私のせいだ、と吐き捨てるようにイマドキが悪態をつく。普段のおとなしい彼女からは想像できないほど言葉はトゲトゲしく、ひどく荒れているようだった。

 実際、何ともないと判断した患者が一日を待たずして急激に容態を増悪させ、さらに回復の望みもないとなれば、その心中は穏やかではないだろう。アラシロ自身、救えたかもしれないカササギのことを思うと、ひどくやるせない気持ちになる。


「……少なくとも、きのうの時点でのカササギは元気そうだった」


 アラシロは天井を見上げる。ジプトーンの白い化粧ボードが、蛍光灯に照らされて青白く浮かんでいた。そこにたった一日前に見たカササギの様子を思い浮かべる。健康体とまではいかないものの、それでもアラシロの言ったことに笑ってみせる元気のあったカササギ。今日の昼間に見たカササギの凄惨な姿とは、どう頑張っても重ねることができなかった。


「しょせん素人目線でしかないが。あのカササギがたった一日で、あそこまで急変するとは思えないんだ」


 きのうと今日。たった一日のあいだに起こった激しい落差は、悲しさを通り越して困惑すら感じさせた。

 そうアラシロが言うと、受話器の向こうでイマドキが頷く気配があった。


「……私も同意見よ。簡単な触診と問診だけだったとはいえ、あの時点でカササギの容態はとても安定していたわ。少なくとも、それ以上の検査をする必要を感じさせなかった」


 言いながら、途中で一瞬、イマドキが遠ざかった。何かを取るため手を伸ばしたのだろう。そうして戻ってきたイマドキの声は、周囲を憚るかのように低かった。


「もしあれが例の伝染病であるのなら、あそこまで重症化した例は今までになかったわ。だから彼女の身に何が起こったのか調べてみたの」

「調べた? どうやって」

「私が救急車に乗り込んだのは処置のためだけじゃないの。――カササギの血液が採るためでもあったの」


 医者が同乗していたこともあり、救急隊員たちは他の作業をするためカササギから目を離しがちになっていた。イマドキはうまく彼らを誘導して意識をそらし、視線が外れた瞬間を見計らい、イマドキは腕の静脈から血液――末梢血――を採取したのだ。


「なんでまた、そんな危険なことを。見つかってガドウにバレたらどうするつもりだったんだ」


 アラシロは憮然と目を細めた。


「危険は承知よ。だけど、仕方なかったの。カササギの受け入れ先は、ガドウさんの懇意にしてる病院だったから。搬送されてしまえば、他の発症したフレンズ同様二度と接触することができなくなってしまうわ」


 それにね、とイマドキはどこか乾いた様子で笑う。


「カササギの家のドアを強制解除した時点で、私の情報は残ってしまったわ。遅かれ早かれ、バレるのは確実よ」


 アラシロはじっと受話器を見つめた。

 カササギの家に押し入るため、イマドキはIDカードを使用した。音声と指紋による認証を行っていたから、おそらくあの時点で記録されてしまったのだろう。


「それで、どうだったんだ。何か分かったのか」

「たった今、うちの血液分析機が解析を終えたわ。本来なら本土の検査所に検体を送ってきちんと検査してもらいたいけど、またどこで妨害が入るかわからないから……。残念ながら、今回も細菌およびウイルスの痕跡は発見できなかった。伝染病予防法に記載されてる感染症十種、ともにすべて陰性。時間の掛かる培養検査や目視分析はまだだけど、感触から察するに、おそらく結果は同じでしょうね」

「そうか。くそっ、完全に五里霧中というわけか」

「――完全に、というわけでもないかもしれない」


 気になることがあったの、とイマドキがさらに声を低める。


「血中成分が軒並み減少しているの。特に免疫担当細胞は異常なまでに減ってるわ」

「免疫担当……細胞……?」

「リンパ球や好中球。ようは白血球のことよ」

「ああ、それなら分かる。体の中に入ったバイ菌をやっつけるっていう、あれだろ。――それが減ってるだって?」

「そう。白血球に類する五種類の免疫細胞。それが尋常じゃない減り方をしているわ。半年前の健康診断のデータと比べても、異常な数値よ」


 イマドキが説明を続ける。いわく、赤血球や白血球など、血液に含まれる主要な成分がすべて減少しているという。


「主要成分が減ると、それを補うために血管外から組織液が入り込んでくる。減った血液量を正常に保とうする体の防護反応ね。だけど、それで増えるのはあくまで血液の量だけだから。血は徐々に薄くなり酸素や栄養素の運搬能力は次第に落ちていく。

顔色は悪くなり、倦怠感を覚えるようになり、意識も混濁する。――貧血の原因はこれだったのよ」

「ということは、伝染病の正体は貧血だったのか」

「貧血であんな症状は出ないわ。そもそも、貧血は何らかの不具合によって結果的に起こるものよ」

「それもそうか。なら?」


 電話の向こうでイマドキが唸った。


「貧血にも種類があるんだけど、この場合……。血液の成分がすべて減少するAA〈再生不良性貧血〉の可能性が濃厚かしら。血液の中に含まれる血球には寿命があって、死んだ血球と入れ替わるように骨髄で新しい血球が生産されるんだけど、そこに何らかの異常が発生して、血球の生産スピードに追い付かなくなるの」

「原因はなんなんだ」

「AAの発生原因の大半は原因不明の自己免疫疾患よ。それ以外となると、薬剤や化学物質が主な――といっても全体の一割程度だけど――原因よ。あとはいくつかのウイルスが悪さをしてる可能性があるけど……。それなら最初のウイルス検査で何かしらの陽性反応が出てるはずよ」

「既存のウイルス検査では引っかからないようなウイルスってことは? たとえば突然変異や新種みたいなのがいて、それが貧血と吐血の原因になった、みたいな」

「変異種なら変異元となったウイルスが検査で引っかかると思うわ。新種というのは……。あり得ない話ではないけど、なくはないでしょうね。血液検査ではいう陰性とは、血液の中にウイルスを発見できなかったというだけのことだから。血液以外に潜んでる可能性はあるかもしれない」

「……つまり、どこかしらからそのウイルスが体内に侵入して、どこかに潜んで悪さをしていると?」

「――そうね。……ジャパリパークは特異な環境よ。化石や無機物がフレンズ化が起こるように、私たちの想像もつかない形で発生したウイルスに汚染された動物が発生したのかもしれない。それに噛まれたり刺されたりして接触している可能性はあるわ」


 イマドキは続ける。


「最初は当たり障りのないウイルスだったそれが、感染した動物の体内で突然変異を起こして、フレンズのみに感染する遺伝子的影響を受けた。ジャパリパークで生きる動物は多かれ少なかれサンドスターの影響を受けてるわ。サンドスターの影響を受けて新種同然となったウイルスが、同じくサンドスターの密接に関わるフレンズのみに発症するウイルスとなる――」


 かつてアメリカで発生したヤンキー・モターバ・ウイルスがそれである。エボラウイルスの近縁種であるモターバ・ウイルスが喘息患者に感染後、突然変異を起こした結果、空気感染能力を得たことがある。という。


「――だけど、今まで診てきた患者は誰もそれらしいことは言わなかったわ。カササギの体にも傷らしきものは見あたらなかったから、ダニや蚊、蜘蛛みたいな小さな生き物が媒介動物となってるのかもしれないけど、患者の出方を見るに可能性は低いわ」

「だろうな。それなら患者はもっと局所的に大勢出てるはずだもんな」

「その通りよ。患者はパーク中央部全体で散発的に発生してる。だからおそらく土壌汚染や水質汚染という説もないものと考えていいでしょうね」

「つまり――」


 ぽつり、アラシロは言った。


「肝心の感染方法も原因も分からなず仕舞いってことか……」

「……そういうことになるわね。因果関係も分からず病気の正体も特定できてない。――パーク外から持ち込まれた食物によるアレルギー説を否定する確実な根拠には到底至らないでしょうね」

「くそったれめ」


 アラシロが拳をデスクに叩きつけた。デスクに備え付けのディスプレイに映った監視カメラの映像が乱れ、一瞬黒くなった。ふと、アラシロはフウチョウの言っていたことを思い出す。


「なあ。媒介動物がいるって説なんだが、フレンズが媒介してるとしたらどうだ」


 昼間、カタカケフウチョウから聞いた話をイマドキに説明する。カササギの家の二階の窓から、逃げる人影を見たという。


「フレンズが媒介してる可能性……。あり得ない話ではないけれど。でも、そうなるとなぜそのフレンズは平気なのかって話になってしまうわ」

「潜伏期間があるんじゃないか。インフルエンザみたいに、症状はないけどウイルスを移してしまうみたいな」

「カササギは発症の直前まで店で働いていたのよ。配達も行っていたって話だから、潜伏期間があるならカササギの周辺からもっと患者が出てるはずよ」

「それもそうか……」

「……だけど、カササギと直前まで会っていたフレンズがいるというのは気になるわね。正体が分かれば、なにか話を聞き出せるかもしれない。次はそこを重点的に攻めてみるべきかもね」

「そうだな」


 それじゃあまた明日。そう言って、二人は電話を終えた。

 受話器を置いたイマドキは、もう一度検査用紙を手に取った。カササギの血液が示す異常な数値。発端となる原因は不明だが、それは造血細胞を攻撃する。骨髄の血液製造能力を破壊し、体を内部から破壊する。ようやく掴みかけた疫病の一端は、あまりにも恐ろしい悪夢へと続いているようだった。


「本当に、ウイルスが原因なのかしら……」


 検査用紙を片手に、イマドキは立ち上がる。処置室の一角をパーテーションで区切って作られた事務机に向かうと、あらかじめ持ってきていた医学書を開いた。メモ用紙を挟んでキープしていたページの内容と検査用紙とを見比べる。


「感染者の造血細胞を攻撃し、血液の血液としての能力を奪うウイルスは、パルボウイルス、エプスタイン-バーウイルス、サイトメガロウイルスが主だったものとされている……。中でもパルボウイルスはいわゆるリンゴ病と言われ、両頬に現れる紅斑が特徴とされている。本来両頬に現れるはずの紅斑が、ウイルス変異によって全身に現れるようになったとすれば、カササギや他の発症者にあった体の紅斑の説明はつけられる。……だけど、そうだとしてもやはりウイルスマーカーが陰性を示した理由がよくわからない……」


 培養を行っていないため、ウイルスを特定できないことはあり得るかも知れない。だが、まったく発見できないことはさすがにない。本当に新種のウイルスがいて、既存のウイルス検査をくぐりぬけてしまう可能性もなくはないであろうが、それこそ可能性の話になってしまう。パーク破壊をもくろむ宇宙人が作った生物兵器による破壊工作という荒唐無稽なストーリーだって、可能性の上では似たり寄ったりだろう。

 アラシロにはああ言ったが、イマドキ自身はウイルス説をほとんど支持していなかった。


(だけどウイルスではないとすると、伝染している理由に説明をつけることができない)


 発症者の分布から見ても、病気は明らかに伝染している。


 それはフレンズにのみ感染する――

  ――土壌汚染でも水質汚染でもない。

  ――薬剤や化学物質でもない。

  ――ウイルスの可能性は限りなく低い。

  ――腸管や消化器官からの大量出血の謎。



――となると、やはり……。

 一つの可能性に思い至りかけたそのときだった。廊下側のドアのすりガラスに、さっと光が当たるのが見えた。慌てて検査用紙や医学書を鞄に隠したそのとき、処置室のドアが開いた。


「誰かいるのかい?」


 ひょっこりと顔をのぞかせた年配の男は、イマドキの姿を認めて困ったように顔をしかめる。恰幅のいい年配のこの男は、イマドキの同僚のウラタニだ。夜勤の見回り中だったらしく、ハンドライトを片手に処置室に入ってくる。


「イマドキさん? どうしてここに? たしか非番だったはずでは」

「すみません。昼間に残したままにしてしまった仕事が気になったので、こっそり片付けていたんです」

「そうか……。いやあ、びっくりした。いないはずの部屋に電気がついてるもんだから、一体誰がいるのかと」


 そう言って、心底ホッとしたように笑う。人の良さそうな顔のシワをさらにくしゃりとさせるウラタニは、実際イマドキの頼れる先輩だった。パーク常にの様子に気を掛けてくれ、何かあればすぐに矢面に立って人一倍頑張ってくれる。


「無断で時間外勤務は良くないな。警備員に見つかったら怒られるぞ」

「すいません」


 謝りながら、イマドキは検査用紙と医学書を入れた鞄を肩に担いで立ち上がる。

 手早く荷物をまとめて立ち上がったイマドキに、ウラタニは首をかしげる。


「なんだ。仕事はもういいのかい」

「え、ええ、まあ……はい。一応、キリはついたので」


 残りは後日済ませます、とウラタニを横切ってドアを出た。出口に向かって廊下を歩きかけたそのとき、後ろからウラタニに呼び止められた。


「……もしかして、あの病気の件か」


 イマドキは足を止める。


「もし自分に手伝えることがあるなら、なにか……」

「ありがとうございます。でも本当に、何でもないですから」


 振り返り、小さく頭を下げる。釈然としない顔のウラタニを置き去りにして、イマドキは病院をあとにした。

 例の病気について、医療課は手を引くことを決めたのだ。イマドキが何をしているのかをウラタニに話せば、きっと彼は無視できなくなる。何が起こるか分からない危険に、彼を巻き込むわけにはいかない。




――――




 電話を終えた直後。アラシロは長々と話をしていたせいで凝り固まった耳を揉みほぐしながら、途方に暮れる思いで天井を見上げた。


(大変なことに巻き込まれたな……)


 最初は、統括飼育長のガドウとかいう横柄な男に難癖をつけられただけだと思っていた。だがフタを開けて見てみれば、謎の伝染病を中心とする陰謀や隠蔽という、底の見えないパークの暗部があった。表面上ではなに一つ穢れのないように見えるジャパリパーク。巨大動物園を動かす巨大な組織。果たして、この暗黒はどこまで広がっているのだろうか。

 そして――。

 アラシロは顔を覆う。薄ぼんやりとした記憶の中に、力無く笑うカササギの姿が、血の海に沈んだカササギの姿と交互に浮かび上がる。言葉を交わしたときに見た笑顔と、血にまみれて無惨に死んでいく青白い顔。それがどちらもカササギであると、いまだに信じられなかった。


(真実を明らかにしなければ、惨禍はいつまでも拡大していくだろう)


 そしてカササギのように、犠牲となったフレンズが命を落としていくのだ。死んだ者はまだいないという話だが、今後も同じとは限らない。すでに感染した患者たちや、これから感染するかもしれないパーク中のフレンズたちのことを考えると、自分の無力が恨めしくなる。

 セントラルテック株式会社は、名目上はジャパリパーク運営本部の警備部門に位置している。が、内実はただの別会社。本土にあったアルコムとかいう会社が買収されて完全子会社化した、膨大な数のグループ会社の、末端の一つでしかないのだった。その末端の会社の、ただの一介の警備員である自分にできることはないに等しいだろう。イマドキのように医療知識もなければ、調査を行う立場もない。腕っぷしには自信はあるが、それでどうにかなる事態はとっくに越えている。ほんとうに、無力だった。

 そんな無力な自分が、どうしてこんな陰謀に巻き込まれたのか。何度も抱いていた感情を弄んでいたそのとき、ふいにアラシロの脳裏にある疑念がよぎった。


「……なぜ、私たちだったんだ……」


 アラシロはこめかみを押さえる。

 中央港で業務を行う警備会社の不手際により、外部から持ち込まれた飲食物による食物アレルギー説。最初にこれを聞いたとき、してやられたと思った。これほど証明が難しく、かつ、責任を一つに押し付ける方法をよく思い付いたな、と。

 だが、そもそも病気を隠すのが目的なら、何も食物アレルギー説を推す必要はないのだ。むしろ、こうして医療課が気がついてしまったように、食物アレルギー説は医療知識のある者が調べれば、間違ってることなんてすぐに分かることなのだ。

 なのに、ガドウはこの説を押し通すため、検査結果の改ざんや病院に放火して証拠の破壊までしている。食物アレルギー説を押し通す準備を着々と進めてるのだろう。これは逆に、こうまでしなければ嘘だとバレてしまうような、非常に脆弱で不安定な説だという証明ではないだろうか。


(そんな不確かな説のために、なぜ……?)


 わざわざこの説にこだわる必要はどこにもない。

 もっとそれらしい病気を適当にでっちあげてしまえばいいだけのこと。イマドキの反応をみるに、他に最適な病気はいくらでもあっただろうに。


(だが、ガドウはそれをしなかった)


「――どうして食物アレルギーなんかにこだわるんだ」


 誰にともなく呟いた言葉は、無人の室内に反響して自分の耳へ帰ってくる。解を求めたわけではない問いが、機械のあるかなしかの駆動音に紛れて霧散していく。

 アラシロは、見えないそれを追いかけるように視線を上げた。電話の近くに張り付けたシールに気がついたのは、だから完全な偶然だった。〈セントラルテック株式会社 中央港警備室 ○○です〉。むかし、そそっかしい新人が電話口で言い間違えることがないよう、張り付けたものだ。年季が入って薄汚れたそれが目に入った瞬間。アラシロはハッと目を見開いた。


「――私たちが目的だったのか!?」


 食物アレルギー説を唱えた結果として中央港が巻き込まれたのではなく、そもそも中央港を巻き込むがために食物アレルギー説をでっちあげたのだとしたら……。

 では、今度はなぜ中央港なのか。思いかけて、アラシロは思い出した。セントラルテック株式会社が業務委託を受ける前、ここはジャパリパーク運営本部によって運営されていたのだ。まだ、パークがオープンする前の話だ。


(そのとき、何らかの形でガドウが関わっていたとしたら?)


 思うが早いか、アラシロは立ち上がると警備室に備え付けのパソコンを立ち上げる。手がかりも皆無に等しい今、得られる情報は何でも欲しい。業務記録を保存してるフォルダを開いて、限界まで記録を遡る。一番古い記録は十数年前のものだった。中央港がジャパリパーク運営組織から民間警備会社に業務委託された日のものだ。アラシロは舌打ちする。


(電子データ上ではこれが限界か)


 そもより前の記録となると、やはり《あそこ》か――。

 そのとき、警備室のドアが開いた。仮眠から目覚めた同僚が交代のためにやってきたのだ。あくび混じりに入って来た同僚は、アラシロの姿を見るなり口を引き結ぶ。


「交代ですよ。……例のフレンズ、どうなりましたか」


 カササギの件は中央港に戻り次第同僚に伝えていた。アラシロは首を横にふった。


「今、電話で聞いたんだが、どうもダメらしい」

「そうですか……」


 ガックリと声を落として、同僚は近くのイスに腰を下ろす。はあ、とため息を吐いて、それが思いのほか大きなため息になってしまったらしく、恥じるように肩をすくめた。


「ああ、すいません……。ほら、フレンズって奇跡みたいな存在でしょう。だから今度も絶対に元気になると思ってたんで、なんかショックで」

「フレンズと言えど人間だからな。病気にも掛かるし、事故にも合う。そうそう奇跡なんて起こらないのかも」

「たしかにそういうことなのかも。でもまあ、つらいなぁ……」

「だな。――そういえば、昼間は休憩時間を奪っちゃってすまんな。代わりに、私の仮眠時間をやるから。昼間の分も寝てこい」


 目元を押さえていた同僚は、驚いたように顔を上げた。


「いいんですか? でも、悪いですよ」

「いいんだ。実を言うと、ちょっと調べものをしたくてな」


 調べもの? と首をかしげる同僚の肩を軽く叩いて、アラシロは警備室を出ていった。十分も掛からず戻ってきたとき、アラシロは分厚いバインダーを山盛りにした台車を伴っていた。


「なんですそれ。ええっと、中央港記録綴……日付は西暦二○……って、相当前の記録じゃないですか」


 バインダーの表紙を見て呆れたようにする同僚に、アラシロは笑う。


「そう。ちょっと過去の記録を調べる必要があってな。見ての通り時間が掛かるから、その間寝ててくれ」

「それなら自分も手伝いますよ。それでもし早く終われば、隊長の仮眠時間を確保できるかもしれないですし」


 それは、とアラシロは目を細める。気遣いはありがたい。が、ことがことだけに、まだ秘密にしておくべきだろう。


「……だめだ。寝ろ。これは命令だ」

「どうして」

「だってほら、わかるだろう――」


 アラシロは自分の体を掻き抱くようにする。


「狭い室内に男女が二人きり……もしも間違いが起きたら、わたしは、どうしたら……」

「や、隊長とは間違っても間違いなんて起きないんで大丈夫っすよ」

「こいつは――」


 あっけらかんとした同僚に、精一杯の女らしさを無視されたアラシロが真っ赤になって殴る真似をする。同僚は笑いながら拳を避けると、へらへらと笑いながら謝る。


「すんません。そうですね、わかりました。それじゃ、お言葉に甘えてもうちょっと寝させてもらいます」

「そうしてもらえると助かる」


 警備室から出ていく背中を見送っていると、同僚はふいに立ち止まり、振り返る。


「あの。何してるか知らないですけど、無理はしないくださいね」

「まかせろ」


 再び一人になったアラシロは、膨大な記録の山を突き崩しに掛かった。

 それは想像以上に骨の折れる作業だった。単純に量が多い以上に、フォーマットも何もかもが違う報告書を読み進めるのは時間が掛かった。もとは職員向けの資料だということもあり、略称や専門用語が出るたびにいちいち調べる必要もあった。

 そうして、朝も近くなったころだった。二回目の仮眠から同僚が目覚める頃、アラシロは一つの書類に行き着いた。


「見つけた――」


 いつの間にか、ディスプレイに映る監視カメラの映像には日差しが入り込んでいた。

 アラシロは書類を引きちぎると、どっかりと椅子に腰を落とした。


 それは、かつて中央港が資材搬出入のみに使用されていたころの報告書だった。フレンズの知能テストの一環として、一部の業務を飼育課監修の元、一定水準以上のアニマルガールに行わせる。その業務内容についてが、簡潔にまとめられている。

 長いこと保管庫の暗室に置かれていたせいか、薄まったインクでひどく読みづらい。

 内容こそ読み取ることはできなかったが、それでも紙の下のほうに書かれた、書面の作成者の署名と認印だけは、はっきりと読み取ることができた。


 ――それは主任だったころの、ガドウの名だった。


 何時間も掛けてようやく見つけ出した一枚の紙切れ。

 何十年も前の出来事は、果たして何を意味するのか。

 そして、ガドウの目的とは――

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