第7話――落ちた翼

 時計の針は十二時を少し回ったところだった。

 イマドキはカササギの家の前で途方に暮れていた。

 午前中の仕事を手早く済ませ、残った雑務を次の勤務にこなすからと上司や同僚を宥め透かし、ようやく職場を抜け出してやってきたはいいものの、インターホンを鳴らしても当のカササギが出てきてくれないのだ。


「カササギさーん。いないんですか」


 試しにと庭に沿って家の回りを歩きながら、呼び掛ける。きのうと同じく、一階はどこもかしこも雨戸がぴったりと閉められている。違うことといえば二階の窓――たしか寝室のはずだ――が開けられていることぐらいだが、そんなところに人間であるイマドキが行けるはずなかった。


「出掛けられちゃったのかしら」


 開いたままになった窓を見上げながら、イマドキは唸った。端末のデータによれば、カササギは家にいることになっている。だが、それはあくまで玄関から出入りした者がいないというだけのこと。あの窓のように、玄関以外のどこかから出入りされてしまえば、端末に記録なんて残らない。

 きのうの感触では、カササギは健康体とは言えないものの、快方に向かっているのは確実であった。朝、目が覚めて、すっかり軽くなった体に喜んだカササギが思わず窓から外へ出掛けてしまったというストーリーは大いにありうる話だ。

(せめて、明日も来ると伝えておけばよかった)

 そう言っておけば、今の自分のように不必要に訪ねてしまうこともなかっただろうに。

 そう、声に出して笑ってみたものの、闇雲に元気な声は、我ながらひどく浮わついて聞こえた。――嫌な予感がする。

 カササギがいないと分かったのなら、いつまでもこんなところで油を売る必要はない。やり残してきた仕事も気になるし、何より例の伝染病について、まだまだ調べたいことは山ほどある。限られた時間の中、無駄な余裕は残されていないのだ。

 にも関わらず、いつまでもカササギの家を離れることができないのは、心の奥に潜む不安感をぬぐえないからだろうか。

 せめてもう少しだけ待ってみよう。イマドキが玄関前に戻ってきたときだった。空の彼方に小さな鳥影が見えた。相当な速さで飛翔しているのだろう。一瞬カササギが帰って来たのかと思ったが、よくよく見ればそれは人を抱えたフレンズであった。遊んでいるのか、と思った矢先。影は高度を落とし始める。眼前に迫ってくる姿に、イマドキはようやくその正体に気づいた。


「……アラシロ? カタカケフウチョウ!?」


 イマドキは思わず腰を浮かせかける。フレンズの中でも彼女たちは小柄な部類に入る。女とはいえ上背のあるアラシロを抱えて飛ぶなど、いくらなんでも無茶だ。思うが早いか、ほとんど墜落に近い角度で落ちてきた二人は、文字通りぶつかるようにしてイマドキの前に着陸した。砂塵を巻き上げて転がる二人。最初に体を起こしたのはアラシロだった。仰向けのまま荒く息をするカタカケフウチョウがとりあえず無事であることを確認するや、助けに走ったイマドキの肩を掴んで揺する。


「イマドキ! カササギは……」


 勢い込んだアラシロに、イマドキは困惑しつつも首を振る。見ると、アラシロは制服姿だった。


「わ、分からないわ。どうも家にいないみたいなの」


 それより二人とも、どうしてここに、と言いかけて、イマドキはハッとなってカササギの家を振り返った。――まさか。

 イマドキは玄関へ取って返す。ドアの一部分に自分のIDカードを押し当てること数拍。空中に投影されたディスプレイ状の読み出しに手のひらを押し付ける。『ご用件を』コンピュータの告げる無機質な合成音声が促すのに、イマドキは音声コマンドを入力していく。


「緊急事態。ロックを解除。執行者は今時知恵!」

『今時知恵の掌紋を確認。要請を受理。強制解除を実行します』


 読み出しが赤く点滅し、カタリと錠の外れる音がした。次の瞬間、非常ベルのようなけたたましい大音量が家中から鳴り響いた。驚いたアラシロを置き去りに、イマドキは玄関を引き開ける。昨日もそうだったように、電気は点いていなかった。雨戸の引かれた暗い屋内に光が流れ込み、そして――。


 ――そして廊下に横たわる、血まみれのカササギの姿を照らし出した。



――――



「救急車を!」


 ただならぬ事態に面食らって立ちすくむアラシロに比べて、イマドキの行動は素早かった。アラシロの手に叩きつけるように携帯電話を押し付けると、真っ先に玄関に飛び込んだ。投げ出されたカササギの四肢を掴み、うつ伏せだった体を巧みに仰向かせる。口から赤黒い血のかたまりがごぽりとこぼれ落ちる。

 率直に言って、酷い有り様だった。ここに至るまでに吐き戻された嘔吐物が血と混ざりあい、白いブラウスは一面真っ赤に染まっていた。土気色に変じた肌は健康な色味を欠き、転がされるがままになった手足はぐらぐらと揺すられるがままになっている。


「何してんの!?」


 携帯電話を手にしたまま硬直するアラシロを、イマドキは振り返る。その間にも、カササギに処置を施す手を止めることはない。


「ぼうっとしてないで、早く救急車を呼びなさい!」


 そこまで言われて、アラシロはようやく携帯電話を渡された意味に思い至った。慌てて液晶を操作して救急にダイヤルすると、通話に応じてくれたオペレーターの問いかけに聞かれるがまま現状を伝えていく。上擦る声を懸命に意思の力で押さえつけながら、ようやく電話を終える。


「……電話したぞ! すぐに来てくれるそうだ」


 住所を確認するために表に出ていたアラシロは、急いでイマドキのもとに駆け戻った。玄関から中を覗き込もうとし、ひどい血臭に思わず鼻を覆う。顔を打つ強い刺激臭は、まるで空間そのものがえてしまったかのようだ。


「アラシロ」


 間髪いれずにイマドキが手招きする。


「洗面所にAEDがあるはずなの。取りに行って」

「わ、わかった。洗面所だな?」


 言うが早いか、アラシロは玄関に踏み込んだ。洗面所は廊下の奥、先日カササギに通された居間のさらに奥にある。通り抜けながら、アラシロはカササギを見た。明るい廊下に横たわる血だらけのカササギ。意識のない顔に生気はなく、わずかに覗く目は焦点が合っていない。


 ――息をしていないのか。アラシロは思った。


 ――息ができないのだ。イマドキは舌打ちする。


 洗面所に向かうアラシロを見送り、イマドキはそう目算をつける。口腔からの吐血。その血の大半が黒色に変色していることから、消化器官からの出血であると判断できた。それが嘔吐物を伴い吐き戻され、気道閉塞を起こしている。

 イマドキは素早くカササギの体を側臥位よこむきに保持すると、背部を強く叩いた。上向いたカササギの口からごぽりと空気が漏れる。そこにわずかな希望を見いだした。何度も何度も賢明に叩きながら、イマドキは毒づいた。

 消化器官からの激しい出血による吐血、さらに下半身からの下血。ブラウスもスカートも、指で押せば糊のように粘液質な液体が染み出して床にしたたる。尋常でない出血量だ。

 通常、消化器官で出血が発生した場合、その色を見ることで出血部位を特定することができる。だがカササギの場合、具体的な位置を特定することができないほど血液色が入り交じっている。これはおそらく、消化器官全体にダメージを負っていると考えるべきだろうか。――専門医ではないイマドキでも、それが尋常な容態ではないことは容易に想像できた。

(一体なにがどうなってるの)

 きのうと今日、それもあれだけ容態の安定していたことを考えると、たった一日でここまでの重症化は異様だった。少なくともここまで悪化する前兆を、昨日の時点では発見することするできなかった。そんなことがあり得るのだろうか。


「イマドキ! あった。あったぞ!」


 アラシロがAEDを持って廊下を戻ってきた。我に返ったイマドキのそばに、アラシロが滑り込むように膝立ちになる。AEDの使用方法を矢継ぎ早に指示しているとき、手元のカササギが大きく咳き込んだ。


「カササギ!?」


 カササギが血の塊を吐き出しながら体を震わせて咳き込む。大きく上下する肩の下で喘鳴めいた呼吸が再開する。意識が戻ったことにとりあえず安堵しかけたそのとき、カササギの目が大きく見開かれた。

 果たして誰だか分かっているのか。飛び出さばかりに剥かれた目がギョロリと背中を支えてくれているイマドキを、次いで、AEDの除細動パッドを取り付けるためブラウスに手を掛けようとするアラシロを捉えた。


「……いで」


 震えるくちびるが、何かを言おうとする。なんだ、と問いかけようとしたアラシロのほうへ、カササギが手を伸ばす。ふらふらと、あてどなく宙をさまよう手を取ろうとしたときだった。カササギがアラシロの髪を掴んだ。


「――触らないで!」


 血泡を飛ばしてカササギが吠えた。か細い体から想像できないほどの力でアラシロの頭を振り回す。アラシロが苦悶の声を上げた。振りほどこうともがくが、フレンズの驚異的な膂力りょりょくにただの人間が立ち向かえるはずがなかった。


「触らないで! これはあの子と関係ない! これはあの子と関係ないんだからぁ!!」


 半狂乱なってカササギが腕を振る。アラシロの体が投げ出された。這うようにその場から離れるのを、カササギはなおも手を伸ばして追いすがろうとする。指に絡んだ引きちぎられた髪が、はらはらと落ちていく。


「どうして? どうしてまたあの子を傷つけようとするの? どうして? どうして? どうして――!!」


 顔を真っ赤にしてカササギが叫ぶ。怒りに燃える目。焦点の合っていない目は、ここではないどこか遠くを見ていた。

 暴れるカササギをイマドキが抱き起こす。遠くに救急車のサイレンが聞こえた。アラシロが外へ飛び出していく。もう少しだから、と励ますようにカササギの体を抱きしめる。


「大丈夫。大丈夫だから。落ち着いて」


 お願いだから、と何度も何度も頭を撫でていると、ふいにカササギが体を折って咳き込んだ。水音とともにあふれ出した黒い血が細い喉を染めあげる。カササギの尻を乗せた足に生暖かい感触が広がっていく。

 血の臭いが、一段と濃くなった。


「カササギ? カササギ! しっかりして! もうすぐ救急車が来るわ。もう大丈夫よ」


 励ましながら、イマドキはカササギのブラウスのボタンを外していく。救急隊が処置をする上で必要だと考えたからだ。

 そうして何個目のボタンを外して胸元を開いたイマドキは、目の前の光景に絶句した。


「なに……これ……」


 赤く染まった白い肌。しかしそれは、血によるものではなかった。子供のたちの悪い落書きのように、胸の中心から外側に向けて、肌そのものがいびつに赤く変色していたのだ。――紅斑こうはんだ。


「だめ……」


 言葉を失ったイマドキの手を、カササギが掴む。よく見ると、その両手のひらもまた、紅斑に覆われていた。


「だめ……、だめなの……私はここにいないと……」


 あの子の……帰る場所が……。ガクガクと体じゅうが痙攣する。言葉の途中で、カササギか白目を剥いた。血がにじむほど強く掴んでいた手から、ふっと力が消えた。




――――




「心停止。たった今! 急いで!」


 救急隊を伴って玄関に飛び込んだアラシロは、イマドキの叫びを悲痛な思いで聞いた。

 ストレッチャーに乗せられたカササギが救急車に運び込まれる。後部ドアを開けたまま、イマドキと隊員たちが救命処置を施している姿を、地所の端でアラシロは泣きじゃくるカタカケフウチョウを宥めながら見つめていた。

 時刻はまだ昼を少し過ぎた頃。燦々さんさんと降り注ぐ陽光は肌に痛い。むっとする大気にセミの声はやかましく、聞いているだけで汗が噴き出してくる。

 玄関の中で地獄のような光景を見たあとだけに、この、いつもと変わらない世界はひどく浮わついたものに見えて仕方がなかった。


「アラシロ……」

「どうした」


 カタカケフウチョウが袖口を引っ張ってくる。見ると、泣き腫らした目が不安げにこちらを見ていた。


「カササギは。カササギは、死んでしまうノカ……」

「大丈夫だ」

「じゃあどうして病院にツれていかないんだ。あんなに血が出て、早くしないとシんでしまう……。やっぱりカササギは、もう」


 顔じゅうを涙と鼻水だらけにしてしゃくりあげるカササギの頭を、アラシロは腹に抱き締めた。


「救急車ってのはな。病院が決まらないことには出発できないんだ」

「そうなのか?」

「ああ、そうだ。病院が決まり次第、救急車は出発できる。あいつにはイマドキ先生もついてるんだ。だから大丈夫、心配するな」


 大丈夫、大丈夫と、何度も繰り返してやると、カササギが両手をアラシロに回してぎゅっと抱き締めた。ぼろぼろになった顔を押し付けて、声をあげて泣き出した。

 腹に伝わるカササギのくぐもった泣き声を聞きながら、アラシロは翼のついた頭を撫でてやる。

 正直なところ、アラシロもカササギが助かるとは思えなかった。門外漢であるアラシロには推測しかできなかったが、フレンズとはいえあの出血だ。たった一日であれほどまで増悪したことを考えても、あまり希望は持てないのではないだろうか。

 そうして徐々に落ち着きを取り戻していくカタカケフウチョウを撫でながら、アラシロはカササギの住居を見上げる。開けっ放しになった二階の窓。半分だけ覗く室内の暗闇が、アラシロたちを見下ろしていた。

 ここに来るまでの道中、カタカケフウチョウはカササギを発見した経緯を何度も説明してくれた。いわく、今朝早くに自分達の飼育スタッフの目を盗んでカササギの家を訪れたとき、二階の窓から何者かが飛び去って行くのを目撃したらしい。どうしようか迷った末、昼近くになり、窓から家に入ったフウチョウたちは、一階の居間で血の海に沈むカササギを発見したのだった。

 人間のもとに連れていくため廊下まで引きずったところまではよかったが、そのとき意識を取り戻したカササギが暴れだし、それ以上進むことができなくなってしまったという。仕方なく、フウチョウたちだけが外へ出、助けを求めに行ったのだった。

(窓から逃げた人影……)

 そいつは果たして誰なのか。そして、カササギの容態悪化にどのように関係しているのか。

 そうして二階を見ていたからだろう。ふと視界の端で動くものを捉えた。救急車から離れたところにいた救急隊員が一人、玄関に入って行こうとする。その動作になんとなく不審なものを感じたアラシロは、カタカケフウチョウをその場に残して玄関に向かった。

 廊下に残るおびただしい血の痕。カササギの倒れていたところはもちろん、そこから居間のあるところまで、引きずられ、掠れた血痕がはっきりと染み込んでいた。その居間の奥で、何かを探す物音が聞こえる。

 アラシロはあえて口で息をするようにしながら、廊下に足を乗せる。仕事柄、気配を殺すのは得意だ。足裏全体に力を乗せて静かに進むと、そっと居間の中をのぞき込んだ。雨戸の閉まった真っ暗な室内で、黒い輪郭がかがみ込んでいる。


「……何をしてるんです」


 アラシロが室内に躍り出た。救急隊員の男が見ていたのはカササギの布団だった。タール状に変色した血が凝り固まり、いびつに盛り上がったシーツは壮絶で、思わず目を背けたくなる。

 男はびくりと立ち上がって振り返る。振り返った瞬間、男の片手がさりげなくポケットにしまわれたのを、アラシロははっきり見ていた。


「それは」


 声を低めて尋ねると、男は何でもないという風に苦笑してみせた。


「治療に必用なものです」

「治療に」


 ええ、と男は言った。


「アニマルガールの既往歴や身体的特徴などをまとめた記録用紙です。病院で治療する際に必用なので、回収しにきたんです」


 それでは、仕事があるので、と男は言い残し、部屋を出ていこうとする。そばをすり抜けようとした男の肩を、アラシロは掴んで引き留めた。男の説明に、何となく釈然としないものを感じたからだ。


「見せてもらってもいいですかね」


 男の顔にさっと嫌悪の色が浮かぶ。が、すぐに真顔に戻ると、頬にひきつった笑みをこさえる。


「すいませんが個人情報ですので」

「フレンズに個人情報があるんですか」

「……アニマルガールではなく、担当してる飼育員のです。あの、もういいですかね?」


 仕事があるんで、と男が言いかけたそのときどった。玄関のほうから、カササギの名前を呼ぶ女の金切り声が聞こえてきた。思わず手が緩んだその隙を狙い、男はアラシロの手を引き剥がして外へ出て行った。追いかけようと玄関を飛び出したアラシロは、救急車の中で泣き叫ぶフレンズの姿を見た。


「カササギ!? 返事をしてってば! ねえ!」


 薄茶の髪を顔に張り付かせて叫ぶニホンオオカミが、カササギの体に手を伸ばそうとするのをそばの隊員が押し止めている。喫茶店の制服である赤いネクタイにエプロンを着けた彼女は、間違いなく昨日会ったニホンオオカミだった。


「どうしてここにニホンオオカミが」

「カンザシフウチョウが呼んだのよ」


 イマドキが後部ドアから降りながら家の陰を示す。見ると、まわりの目から隠れるようにしてカタカケフウチョウとカンザシフウチョウが抱き合って震えていた。


「一人姿を見ないと思ったら。二人にカササギの家を見張るように頼んでたの、ニホンオオカミだったみたいね」

「それよりイマドキ。カササギの容態は」


 蘇生したわ、とイマドキは短く答えた。救急車内に寝かされたカササギ。服も体も相変わらずひどい状態だったが、その胸は静かに上下していた。酸素マスクが白く曇っているのを見て、アラシロはほっと息を吐いた。


「いま、搬送先が決まったところなの。私は車内で引き続き処置をするわ。あなたは――」

「ここに残る。あいつらの飼育担当を待たないといけないから」


 フウチョウたちの飼育担当にはすでに連絡してあった。もう到着するころだろう。


「そっちが落ち着いたら連絡をよこしてくれ」


 うなずいたイマドキが救急車の中に駆け戻る。祈るように両手を握りこんだニホンオオカミの隣に腰かけると、他の救急隊員に矢継ぎ早に指示を飛ばしていく。

 サイレンを鳴らして走り去っていく救急車。

 小さくなっていく影を、アラシロは祈る気持ちで見送った。



――――



 見えなくなっていく救急車。去っていく親友の姿――。

 通りの角に身を潜めたハシブトガラスは、ただただ震えながら見つめていた。

 私のせいだ、と思う。

 せめて私が一緒だったら。せめて少しでも早くカササギの異変に気づくことができたら。きっと、状況はいまよりマシだったに違いない

 昨日、カササギと夜が更けるまでお話をしていた。眠たくなったと言うと、いつも通り二階の寝室を使うよう言ってくれた。体調の悪いカササギを一人にしておいてもいいのか、どうしようか困っていると、それを察してくれたカササギが、大丈夫、と微笑んだ。


「私にはハシブトガラスちゃんのくれた宝物があるから……。心配しなくて大丈夫だよ……」


 胸元で抱いた不思議な光る石を揺らしながら、カササギはニコニコと微笑む。揺らされるたび、石はまるでその奥に青空があるみたいに瞬いた。

 そう。カササギは大丈夫たと言ってくれた。だから私は大丈夫だと思ったのだ。

 カササギの言うことを聞くいい子でいれば、悪いことは決して起こらないに違いないのだから。

 私は昔みたいに悪い子ではなくなった。

 悪い子のところには良くないことがやってくる。だから、いい子にしていれば、良くないことのほうが避けてくれるはずなのだ。

 そうに決まっている。――そうでなくてはダメなのに。なのに……


「なのに……なんでなのぉ……」


 嗚咽が喉をえぐる。手も膝もおこりのように震えて止めることができない。

 早朝、カササギのうめき声で目が覚めたハシブトガラスは、居間に入って我が目を疑った。

 布団の上で体を折り曲げて嘔吐していたのだ。暗い部屋のなか、一瞬それが夜に食べたものを吐いてるだけなのだと思った。しかし、よく見るとそれは血だった。どす黒く変色した血が、びちゃびちゃと白いシーツを染め上げていく。


「カササギ! どうしたのっ。大丈夫、ねえ」


 慌てて背中をさするハシブトガラスに、カササギは何に対してか首を振る。


「誰かを呼んでこないと」

「だ、だめ……」


 立ち上がろうとしたハシブトガラスを引き留めたのは、なんとカササギだった。


「だめだよ……。そんなことしたら、あなたが、ここにいたって、バレちゃう」


 お腹を押さえ、引き絞るようにカササギは言った。


「大丈夫、本当に、大丈夫だから……」


 言い終えるより先に、カササギはまた血を吐いた。黒い血が畳にぶつかり、乾いた音をたてて飛沫く。吐くときに投げ出したのだろう。畳の上に転がった青い石に点々と血が飛んだ。


「大丈夫なんかじゃない。誰かを呼んでくるから、それまで耐えてて!」


 引き留めようとするカササギの手を励ますように叩いて、ハシブトガラスは家を飛び出した。

 だが、そうして助けを呼びに行ったハシブトガラスは、そこで誰に助けを求めればいいのか分からなくなった。

 人間は怖くて絶対に頼れない。だが、フレンズに声を掛けるのも同じく怖かった。カササギの病気に気づけなかったことを責められたら、自分がカササギを病気にしたと思われたら、勝手なことをしてカササギに嫌われたら、もし家に戻ったときカササギが死んでいたら。悪い考えが頭のなかをぐるぐる埋め尽くし、何もできなかった。

 そうして、時間ばかりが過ぎていった。暗かった空は明るくなり、山の陰にあった太陽は真上まで来てしまった。

 どうしよう、どうしよう、と泣きながら空ばかりを無目的に飛び回っているときだった。カササギの家のほうへ向かう救急車を見たのは――。


   (私の……せいだ……)

 もっと私が勇気を持っていたら。


  (悪いことをした)

 私が何もしなかったからカササギは大変なことになったのだ。


      (怒られる……)

 ――だから、怒られる。


 そう思った瞬間、締め付けられるような恐怖に息が詰まる。思わずその場に胃のなかのものを吐瀉した。足元がふらつく。

 悪いことをしてしまった……。怒られる……。悪い子を罰しに、人間が来る……。

 ハシブトガラスたまらず、その場を逃げ出した。


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