第3話
僕はそこで短期バイトとして働いた。
知り合いに頼まれたので仕方なく引き受けたのだが、それは僕の心の奥で忘れられない体験となった。
そこはちょっと不思議な喫茶店だった。
今ならそう紹介するが、初めてそこを訪れた時、僕はそこがお店とはとても思えなかった。
こんなところにお客さんなんて来るのだろうか。
そう思うほどの立地条件に目立つ看板があるわけでもなくて、何を提供しているのかも分からなかった。
ここでいったい何をすれば良いのだろうか。
何も始まらない前から不安だけが膨らんで行くのを感じていた。
「2週間だけ喫茶店を開くことにしたの。」
初めての挨拶でオーナーはそう言った。
「こんなところでお客さんなんて来ますか。」
僕は正直に感想をのべた。
「大丈夫、完全予約制で既に満員御礼だから。それでバイト君をお願いしたわけ。」
「そうですか。」
この時点で、僕は自分の常識ではもう判断できないのだと諦めた。
「それでは仕事を教えてください。」
仕事は難しい事ではなかった。
ドリンクのオーダーをとってお出しする。
教えてもらったのはそれだけだった。
お客さんは一日一組。
一人の場合もあれば、カップルだったりグループだったり。
彼らはそこに来てオーナーとおしゃべりをして帰っていった。
ドリンクのオーダーといってもメニューがあるわけではないので、そこにあればそこにあるものを出したが、なければ近所のお店に走った。
ないと言ってオーダーを変更してもらっても良かったのだが、オーナーからは必要があれば自由にして良いと言われていたし、何となくそうしてあげられたらと思ったのだ。
「ありがとう、わざわざ買ってきてくれたの。これ大好きだったんだ。嬉しい。」
そう言って喜んでもらえた時、そうして良かったと思えた。
正直、自分がそういう人間とは思っていなかった。
人と関わるのが面倒で、何をするのもかったるいけど仕方ないのでやる。
人生なんてそんなものだと思っていた。
ある時オーナーに聞いてみた。
「どうしてこんな喫茶店をしようと思ったんですか。全く利益は出てないですよね。」
「利益ね。金銭的にはそうかも知れないけれど、私はあの人達と直接お話がしたかった。そのために考えたのが喫茶店という形だっただけで、私の目的は十分に達成できたと思っている。」
「趣味だから、それでいいということですか。」
「趣味ではないかな。」
そう言うとオーナーは少し考えてから答えた。
「私はね、これが自分の仕事だと思っているから。」
「ますますよく分かりません。」
「そうだね。うまく説明出来てないね。」
そう言ってオーナーは笑った。
2週間は思っていたよりも早く終わってしまった。
「ありがとうね。すごく助かった。」
そう言ってオーナーにバイト代を手渡された。
「赤字ですね。」
「私にとっては価値があったから。」
そう言われて、何だか悪い気はしなかった。
今思い出してもすごく不思議な体験だった。
それでもまたいつもの日常を過ごすうちに、僕の中であのバイトの事はただの過去の記憶となっていた。
つい最近、どこかで見かけた一枚の絵が忘れられなかった。
その絵を観た時に何故かあのバイトの事を思い出した。
そうだ、この絵はあの時オーナーが描いていた絵だ。
僕がバイトを始めて数日たった頃、その日のお客さんが遅くなり僕はオーナーがアトリエと呼んでいた部屋に入ってみた。
大きなキャンバスには描きかけの油絵がイーゼルに置かれていて、その前で丁寧に筆を運ぶオーナーの顔は真剣だった。
「オーナーは画家ですか。」
「違うよ。絵は趣味で描いているの。」
「それだけ上手くても稼げるものではないのですか。」
「そうだね。稼ぐために必要なのは上手いか下手かだけではないし、私は描きたいものを描いているだけで満足だから。」
「何だかもったいないですね。」
「どうして。」
「絵についてはよく分からないですけど、その絵を見てちょっと感動しました。」
すると、オーナーは驚いたような顔をして言った。
「そう。ありがとう。」
あの絵はあの時にオーナーの描いていた絵なのだろうか。
それともオーナーがこの絵を模写していただけなのか。
様々な疑問が頭をよぎり、僕は思った。
今度、調べてみよう。
刹那 chatora @urumiiro
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