最終話

「ケイ、ここまですることないじゃないか」

「…………」

「彼女、死んじゃったぞ」


 風が止んでいた。

 直樹の見た母親も桜吹雪も何もない。

 校舎の屋上にはケイとカイトの二人がいるばかり。

 ただ、張り巡らされていた金網の一部が今は抜けていた。

 直樹と一緒に落ちたのだ。


「裏切りは許さない」


 ケイがぽつりと言った。

 その声は淡々としていて抑揚がなく、感情が一切感じられなかった。


「そりゃそうだろうけど、申し開きさせてやってもよかっただろうに」


 カイトはそう言いつつ、外れた金網の場所から下を覗き込んだ。


「彼女、笑ってる……」


 彼は憐れみをこめて言った。


「裏切りは決して許さない」


 ケイはもう一度そう言った。

 その言葉に、カイトは振り返った。


「彼女は裏切らないと誓ったんだ。誓ったのなら、それを最後まで守るべきなのだ」

「ケイ……」


「彼女のように実の父親に虐待を受けた者は大勢いる。それは確かに不幸なことだ。だが、すべての者が不幸になるわけではない。自分だけがどうしてと、そう思うこと自体が己を不幸に陥れるのだよ」


 ケイの喋り方が明らかに変わってきていた。


「だけど、裏切るように仕向けたのはおまえだぞ、俺に彼女を誘惑させたじゃないか」

「私に意見するつもりか?」

「…………」


 カイトは押し黙ってしまった。

 そんな彼を、目を細めつつ見つめていたケイは彼に近づいた。


「この世は常に誘惑に満ち満ちている。それに溺れてしまう者は、言うなれば生きていく価値はない。誰がそれを許そうとも、この私は決して許さない」

「ケイ……」


 ケイはカイトの傍らに立つと、おもむろに下を覗いた。

 大きな桜の木の傍に直樹はいびつな格好で横たわっていた。

 仰向けになっており、空に視線を固定したまま。

 だが、不思議な微笑を面に貼り付けていて、見た目にはとても幸せそうに見えた。

 すると、それを見ていたケイの表情が微かに変わった。


 彼女の制服のスカートがめくれあがっており、下着が丸見えになっていた。

 すると、ケイが手をかざしたとたんにそれが直った。

 それを傍らで見ていたカイトの表情が一瞬柔らかくなった。

 それに気づいたケイは、彼を振り返り言った。


「カイト…君は本当にやさしいね。私は不思議に思いますよ。氷の神という異名を持つ君が、どうしてそのようにやさしいのか」

「ケイ……いや、マリス…さま……俺…わ、わたしはそのような大それた者では…ございません」

「その名前はここでは使わないでくれないかな。私たちは夢幻の実の見せる夢の中の住人だよ。もちろん、この世界は現実の世界だけれどもね」

「申しわけございません」


 ケイはそう謝るカイトから視線を外した。

 憂いをたたえた瞳を桜の木に向ける。

 すると、その瞳が徐々に銀色へと変化してきだした。


 手を空間に差し出す。

 すると、何もない空間から何かが現れてきた。

 それは楽器のようだった。

 中国の胡弓のような形をしている。

 彼はそれを手に取り、同じく現れてきた弓でおもむろに奏で始めた。


 女がすすり泣くような音色。


 そう。

 それは直樹が聞いた、まさにその音色だった。

 彼は奏でる。


 音の神と言われたその男。

 別の世界の住人。

 彼の奏でる音色は人々を動かす。


 幸せは幸せへと。

 悲しみは悲しみへと。

 愛は愛へと。


 そして──


 死には死へと誘う。


 彼の奏でるその音色は、死する運命の人間に絶望を植付け、そして、死へと駆り立てる。

 魔性の音色。



  ここは永遠の楽園


  息苦しいほどの花びら舞う


  永遠の牢獄


  その人の墓標


  いつも囁いて


  少女の夢叶えさせて


  死するときにも


  生きるときにも


  その花びらを永久に吹雪かせてと


  それは彼女の切なる願い



 ケイは目を閉じ、奏で唄った。

 その彼の心の中では死んでいったその少女と、そして、もう一人の女性の姿が重なっていた。



 男になりたいと願った直樹。

 裏切りに泣き、己も裏切ったことで死んでいった。

 もう一人の女性も───


(私は貴女を許さない)


 彼の心に渦巻く憎しみ。

 それは誰にもわからない。

 彼と一番近しい存在であるカイトにさえもわからないこと。


 瞼の裏に見えるその姿。

 黄金色に輝く髪とキリリとしたブルーアイを輝かせるその人。

 彼の敬愛する主の想い人だった。

 かつて太陽の女神と称えられ、すべての者に愛されていたその人。


(私は貴女の裏切りを許さない)



 そのとき。


 ザアアアアア───


 再び強風が吹きつけた。

 それは緑溢れる桜の木から吹き付けていた。

 同時に。

 その桜の木が変化しだした。


 緑からピンク色へと。



  明日、春が来たら…



 ザアアアア───


 桜だった。

 桜の木は一面桜の花で埋め尽くされていた。

 満開の花が咲き乱れ、そして、次の瞬間。


 ザアアアア───


 その花びらが一斉に散り始めた。

 そこへ吹き付ける風。

 桜吹雪だ。


 直樹が見たいと願った桜吹雪。


 彼女の横たわる身体にあとからあとから降り積もる。

 誰かが彼女の顔を見たら、微笑んでいる彼女の目じりから涙が流れているのを見たかもしれない。


 桜吹雪の墓標。 


 それは死出の旅立ちへ赴く彼女へのはなむけとなったことだろう。


 そして春は終わりを告げた。

 彼女の春はもう来ない。

 永遠に。



        初出2003年4月27日

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明日、春が来たら 谷兼天慈 @nonavias

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