第2話 死にたがりのルカ

 それは、冬の寒い日だった。僕がこの精神病院に、入院したての頃だ。

「今日は、星が見れそうにないな」と言いながら外を見ると、その黒髪の少女は、雨の中で薔薇園に立っていた。

 僕の3Fの病室からでもよく見える。薔薇の花は、雨を受けてしゃんと上を向いているのだけれど、少女は雨に濡れそぼったまま、俯いている。

 僕は居たたまれなくなって、私物のありったけのタオルを持って中庭に駆け出した。

 足元は、落ちた薔薇の花びらで真っ赤だった。

 タオルをかけてやりながら、僕は声をはりあげる。


「大丈夫かい、きみ!ねえ、誰かこの子に温かいものを、あげておくれよ、ねえ」


 僕の声は、雨にかき消されて、誰にも届かないみたいだった。

 僕のタオルは、赤く染まる。僕はぎょっとしてー初めて、その時に少女の顔を見た。

 濡れそぼった、色素の薄い、青ざめた。人形のような、美しい顔。


「私は、死にたがりのルカ。」


 ルカは、リストカットしたての、紅い傷口を見せびらかすように僕にかざした。

 床の一面の赤は、花びらだけでなくて、彼女の、体液も。


 僕は、その手を取って。傷跡に、口付けた。


「こんにちは、初めまして、お嬢さん。僕は、天文学者のオリオン…と、名乗っているよ」


 ルカは、さっきよりももっと、傷ついたような、それでいて安堵の表情をみせていた。

 そうして僕とルカは、何ものにも変えがたい、友情という絆で結ばれたのだった。


 なぜなら、ほかの入院患者はルカに話しかけすらしないのだ。

 大方恐ろしいのだろう。この美しさが?この清廉さが。自らの罪を暴き出しそうで。

 僕の「授業」に出てくれる生徒。僕は彼女の「先生」これ以上に、特別なことなどなにもないだろう。



「それで、オリオン、今日の授業のテーマはなぁに?」


 ルカは、清楚な面立ちで、冷たい印象とは裏腹に、時折甘ったるい喋り方で私に質問を投げかける。


「そうだね、今日のテーマは…星の死について、かな。」


 僕の答えにルカは目を丸くした。


「おほしさまも、いきてるの?」


 メグの問いに僕は「もちろんさ」と頷く。そして、鞄の中から一冊の本を取り出した。

 天体入門と書かれたその本は、僕が子供の時から大切にしている、天体についての入門書だった。


「ペテルギウスという星のことを知っているかい?」


 僕はその本の最初のページ、天体図をテーブルの上に開き二人を見る。


「メグ、よめない」


「私はもちろん知っているわ。オリオン座の一つがそうなのよ、ね、オリオン」


 ルカの細く白い指先が、一つの星を指す。冬の大三角形、オリオン座を構成する一つの星。それがペテルギウスだ。


「そう、中学生でも学ぶ範囲だね。なんと、このペテルギウスは、もうすぐ無くなると天体学者の中では言われているんだよ」


 ルカはただでさえ大きな瞳を、さらに大きくして僕を見上げた。僕はその瞳の中に、いつも広大な宇宙の幻想を見る。それは彼女の黒曜石の瞳が、まるで吸い込まれるような宇宙の輝きを見せているからだと思う。


「なくなってしまうの?それは、いつ?」


「あちた?あさって?」


 二人からの 矢継ぎ早な質問に、僕は意地悪な笑みを浮かべた。


「さあ、明日かもしれないし、100年後、1000年後かもしれないね」


 興奮して立ち上がっていたルカは、ぷうと頰を膨らませて、椅子に座りなおし紅茶を飲んだ。


「そんなの、全然もうすぐじゃないわ。オリオンが生きてるかどうかもわからないじゃない」


「星の命は長いからね、100年といえど、一瞬なのさ。…例えば、地を這うアリは1年で死んでしまうかもしれない。それが僕たちにとって一瞬であるように、ね。」


「……人によって、時間の流れが違うのね。オリオン」


「ああ、詩的な表現だ。君を尊敬するよ、ルカ。」


 私は心底ルカを賞嘆した。私は今まで、同じ生き物同士であれば時間の概念は同じと思っていたが…おそらく私の感じている10分と、このメグの感じている10分が、同じなはずがないのだ。けれど、そこから先に出てきた言葉は、僕には文学的すぎて理解の範疇を超えていた。


「私の一生は、あなたの何年分になるのかしら…」


 ルカの瞳から、先ほどの少女のような笑みは消え…なんだか一瞬、とても悲しそうな瞳でこちらを見ているような気がした。


「ルカ?」


 僕の問いには、ルカは何も答えず自分の言葉を紡ぐ。


「星が…なくなると、どうなるの?」


 ルカの黒曜石のような瞳がきらきらと輝いている。僕はそれがやっぱり宇宙に煌めく星のようにも見えた。


「それは超新星爆発といってね。どれくらいの爆発かは判らないけれど、ひょっとしたら暫くは夜が無くなるかもしれないね」


 想像する。太陽の20倍もあるペテルギウスが最期の輝きを見せるとき。僕らは夜中でも空を見上げて二つめの太陽を仰ぐのかもしれない。

 ルカも同じような想像をしたのだろうか。熱を帯びたうっとりとした瞳で、空を見上げて囁くように

「それは…素敵ね…」と言った。


「ねえ、ずっとおひるになるの?」


 メグがきらきらした瞳で僕の服の裾を掴む。僕はその頭を撫でてにっこりと笑った。幼児特有の線の細い髪が指の間をすりぬけていく。僕はその感触に、そう遠くはないはずの過去の自分の幻影を見ている気がした。


「いいや、夜がなくなるわけではないけれど。少なくとも昼のように明るい、そう白夜のような状態になるかもしれないね」


 僕は幻視する。想像する。超新星爆発の光で、夜がなくなったこの病棟の、この中庭の、このバラ園で。ルカとメグと、朝日が昇るまでお茶会をする自分を。


「朝までお茶会がしたいわ、オリオン先生。その時がきたら、きっとよ」


「ああ、もちろんその時がきたら、きっと」


「のどかわいたぁ」


「すまないね、メグ。それでは、その時のために誓いの盃を交わそう。乾杯!」


「「カンパーイ!」」


 それは思うに、幸せな昼過ぎだった。そして私はこの昼休みのこの瞬間が、限りなく一生続くのだと、思い込んでいたのだ。

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ペテルギウスの落涙 おがわはるか @halka69

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