ペテルギウスの落涙
おがわはるか
第1話
「あら、オリオンさん。今日もお茶会かしら」
白衣の天使が僕を親しげに「オリオン」と呼ぶので、僕はつばの広い帽子をちょっとつまんで、洒落たお辞儀をしてみせた。
僕はこの病棟で、オリオンと呼ばれている。ここは精神病棟、心を病んだ人が休息に訪れる病棟だ。或いは、この世の楽園、終の住処を見つける場所。
プライヴァシーの観点からか、本名で呼ばれることは少ない。僕は前述の通りオリオン。
隣のベッドには、数学者だというおじいさんが、厳しい顔でいつも大学講義を反芻している。彼は軍隊にとられたときに少しばかりダメになってしまったみたいで、ここで見えない受講生相手に講義をしているんだろう。
たしかに教授にとっては、講義は本分だろうしね。
「ああ、中庭で、ちょっとね。学者らしく、ティーンエイジャーを集めて天文学の講義さ。村田さんもどう?」
「私は仕事だから、遠慮しておくわ。日が落ちると寒いから、ほどほどにね」
「それは残念」
村田女史に軽くかわされて、僕は軽く肩を落としてみせた。特に気にも留めずに、リノリウム貼りの床を、踵を鳴らして歩く。
ここの白衣の天使達は、日がな一日忙しそうに働いている。まあ、閉鎖病棟なのだからしかたない。僕のように攻撃性のない、病状の軽い患者は比較的自由に病棟の中を歩き回ることができる。
僕は、天体学者だ。天文学者でもある。ちょっと研究に根を詰めすぎて、鬱を発症してしまった。なので、長めの休暇を取ってここですこし休ませてもらっている。
だから、やはり比較的、症状の軽い患者ということになるだろう。
中庭は日当たりがいいので、日向ぼっこには最適だ。何よりかぐわしい薔薇が、一面に咲いている。
僕は、オモチャのような合成プラスティックのティーセットを持って、中庭につながるドアを開いた。
中庭には赤薔薇が咲き乱れていた。それは血のように赤い薔薇だった。
小さな、薔薇園の真ん中で、佇む少女と幼女。
少女は色の暗いセーラー服を着ている。黒い髪は、まゆのあたりで綺麗に切り揃えられ、それ以外はそのまますとんと後ろ髪が腰まで落ちている。
髪と同じ黒く長い睫毛が、頰に陰を落とす。
肌は透けるように白い。きっと、このお茶会以外では病室から出ないからだとあたりを踏んでいる。そしてその白く華奢な手首には、真新しい白い包帯が巻かれている。
――その少女と初めて出会った日のことなら、いつでも昨日のことのように思い出せる。
なんてことないように、少女は「私は、死にたがりのルカ」と僕に名乗ったのだ。
手首に、真新しい傷をこさえながら。――
「ルカ、御機嫌よう」
ティーセットを3つ分持って、僕は軽くお辞儀をした。
僕の見ていないところでは、透明になっていそうなほどに、透ける白い肌のルカは
「先生、御機嫌よう、今日の授業はなーに?」
その白い色とは裏腹の紅い唇で言った。
僕は、合成プラスティックのティーセットを、中庭の真ん中に設置されたベンチテーブルの上に置く。
「ぷらてぃっく!」
将来、ルカくらい美少女になりそうなメグは、それを玩具と判定したのか、両手をあげて「よこせ」と言わんばかりに言った。
「ごめんね、メグ。これはお茶のセットでおもちゃじゃないんだ。甘くて美味しいお茶を入れるから、そこに座ってくれるかい?お嬢様」
メグは、「ん!」と頷くとずっと一緒だというテディベアを抱いて、僕の示した席に座ってくれた。
懐から、魔法瓶に入った熱湯を出す。
「まあ」
ルカが驚いた声をあげた。
「大変だったでしょう、この病棟では、それは」
「そうだね、お湯はこの場で使って欲しいって言われたよ。」
お茶会の準備をするにあたって、今回これを手に入れるのが、一番難しかった。
精神病棟において、自傷行為は日常茶飯事だ。髭をあたるための剃刀すらも、看護師の監視のもとで使用される。そんな中で、紅茶を淹れる熱湯を持ち歩くことは不可能に等しいと思われた。
しかし、ぬるくなった紅茶が紅茶と言えるのだろうか?
「それだと美味しい紅茶とは、言えないと思うわ!」
「まったくその通り。僕は、看護師さんたちに紅茶を振る舞い、温度がいかに重要か高説を垂れたあとに、看護師さんたちが何も見ていない監視下で、これを入れることになった」
「見てなかったなら、しかたないわね」
ルカがふふっと吹き出した。天使のような微笑みだ。
「ああ、しかし見てはいた。僕は監視下にいたからね。彼女たちに落ち度はないのさ。あとはこれを平らげるだけ」
僕も笑みを浮かべながら、お皿の上に茶菓子を並べ、その間にストロベリー ティーを3つこしらえた。
「さあ、先生、授業をして頂戴!」
「ああ、もちろんだとも!」
そして私は、精神病棟の中という閉鎖的空間の中で、誰よりも自由に、銀河の外の授業をする。
はるか昔の幻影に、思いを馳せながらーー
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