Crimson trumpet

月宮翅音

Crimson trumpet

 暗い夜道を、一人の若い女性が歩いている。

 意志の強そうな眼差し。きつく結ばれた唇。そして、背中にはトランペットのケース。

 そう、彼女は、今期待の若手トランペット奏者である。

 彼女は、わずか十七歳の若さでプロのトランペット奏者として生計を立てている。ついこの間も、世界的なソロコンテストで入賞したばかりである。

 今日はそのお祝いがあり、今はその帰り道というわけだ。

 しかし、彼女は少し不機嫌そうに見える。どうも、「入賞」という結果が気にくわないらしい。


 交差点に差し掛かり、彼女は少し迷った様子を見せた後、自宅とは別の方向へ歩き出した。珍しく、寄り道をすることにしたようだ。

 彼女は、トランペット以外のことにはほとんど関心がなかったので、家の近くに何があるかなんて全くもって知らなかったし、興味もなかった。しかし今夜は、なんとなく無意味なことをしたい気分だったのであろう。


 しばらくすると、彼女の目の前に商店街のアーケードが現れた。彼女は少し立ち止まって中を見つめてから、その商店街に入っていった。

 商店街のシャッターは全て閉まっていて、派手な色の落書きや、「閉店しました」という貼り紙が並んでいる。道端には、壊れた自転車や安っぽい酒の空き瓶。壁に貼られたポスターは、何年も前のものだ。

 そんな寂れた商店街の中で、一箇所だけ、煌々とした明かりが漏れている場所があった。彼女の足は、自然とそこへ向かっていた。


 そこは、小さな管楽器店だった。

 その店の看板には、トランペットと音符のイラストが描かれていた跡がうっすらと見えていたが、店名はほとんど消えてしまっている。

 彼女はそっとドアを押して中へ入り、店内を見渡した。



 彼女の視線は、ある一点に釘付けになった。



 店の奥側にあるカウンターの上の、開かれたケースの中。

 どこまでも深く、赤い。まるで、血のように赤い。しかし、情熱や温かみは全く感じられず、ただひたすらに妖しく、冷たい。美しく、どこまでも暗い輝き……

 それは、一台のトランペットだった。


 彼女は、そのトランペットに引き寄せられるように近づいていった。

 カウンターの前に立った彼女は、震える指で楽器ケースの縁をなぞった。その手を内側に滑らせ、楽器ケースの内側に張られている、黒く艶のある布にそっと触れる。

 そして、彼女の真っ白な指先は、その真っ赤なトランペットに触れた。

 冷たい。どこまでも冷たい。体温が全て奪われてしまいそうな、心まで冷やされてしまいそうな、不気味な程の冷たさ。

 一度その冷たさに触れてしまったら。一度でもその美しさに出会ってしまったら。

 もう、後戻りはできない。

 彼女の心の全ては、このトランペットに奪われてしまった。


 彼女は、店の奥の方を覗き込んだ。そこには誰もいなかった。店内を隅々まで見渡しても、誰もいない。店の外を見ても、誰もいない。

 彼女は、楽器ケースの蓋を閉じ、金具を留めた。そして、そっと持ち手に手を掛けた。



 彼女は、そのトランペットを盗んだ。




 彼女は歩きながら、何度も後ろを振り返った。まるで何者かに追われているように。自分の影からも逃げるかのように。深夜の住宅街に人はほとんどいなかったが、彼女は、何度も何度も振り返った。

 何かの音がする度彼女は震え上がり、物陰に隠れた。野良猫の鳴き声すら、今の彼女にとっては恐怖であった。

 彼女が歩くスピードは次第に速くなっていった。トランペットを二つも持っているとは到底思えない程の速さである。

 とうとう彼女は、左手に持っていた楽器ケースを胸に抱え、走り出した。

 夜の街に響く、彼女の足音。荒い呼吸。早鐘を打つ心臓。背中で跳ねる楽器ケースと、抱えている楽器ケースの中で、楽器が僅かに動く音。

 彼女は、楽器ケースをより一層きつく抱きしめた。


 家にたどり着いた彼女は、震える手で鍵を開けた。ドアを開けて中へ滑り込み、直ぐに鍵を閉める。

 彼女は、その場にへたり込んだ。乱れる息を整えながらも、楽器ケースを強く抱きしめ、離さなかった。

 しばらくして、彼女は静かに立ち上がり、鍵が閉まっているか確認した。

 彼女は靴を脱ぎ、部屋に入った。

 二つの楽器ケースを床に置いた彼女は、カーテンを閉め、電気をつけた。

 彼女は床に座り、楽器ケースをじっと見つめた。

 彼女は、盗んだトランペットの黒い楽器ケースに手を伸ばした。彼女の手は、僅かに震えていた。

 ケースの表面をなぞり、金具に手を掛けた。金具を外すと、カチャリという音が静かな家に響き渡る。

 彼女は、楽器ケースを開けた。

 どこまでも深く、赤い。まるで、血のように赤い。しかし、情熱や温かみは全く感じられず、ただひたすらに妖しく、冷たい。美しく、どこまでも暗い輝き……

 そのトランペットは、相変わらず、恐ろしい程の魅力を放っていた。

 彼女は、このトランペットを吹きたくてたまらなくなった。

 今は深夜だということも、自宅の防音工事がまだ済んでいないということも、もうどうでもよかった。ただ、この楽器を吹きたいという強い感情に突き動かされていた。

 彼女はここで初めて、この楽器ケースにマウスピースが入っていないことに気がついた。それどころか、マウスピースを入れる穴すら無い。他の物を入れる隙間も一切無い。

 彼女は、自分のトランペットのケースを開けた。

 彼女のトランペットは、眩しいほどの銀色に輝いていた。しかし、彼女はマウスピースを取り出すと直ぐに、自分の楽器ケースを閉めてしまった。

 彼女はマウスピースを唇に当て、息を吹き込んだ。

 マウスピースの、少し濁った音がした。最初は少し控え目だった音が、だんだん大きくなっていく。

 彼女は、早くこのトランペットを吹きたくてたまらなかった。

 彼女は、マウスピースをはめて立ち上がり、トランペットを構えた。

 唇を軽く舐め、マウスピースを当てる。そして、大きく息を吸い込む。



 彼女は、トランペットを吹いた。



 冷たい音。どこまでも冷たい音。そして、何よりも美しい音。彼女が今までに吹いたトランペットの音とは比べ物にならない程の、暗く豊かで、妖しい響き。

 彼女は、この音の虜になった。

 彼女の表情から、焦りや不安が消えた。彼女は、このトランペットに夢中になっていた。


——観客も、審査員も、いらない。もう、この音だけでいい。他の物は、いらない。……ああ、身体が軽い。この音はなぜ、こんなにも美しいのだろう……


 彼女の頰から、色が消えた。

 彼女の唇から、色が消えた。

 トランペットは、より一層赤く、暗く輝いていた。



 夜の空に、トランペットの音が鳴り響く……




 何処からともなく現れた男が、冷たくなった彼女の手からトランペットを抜き取った。

 マウスピースは、丁寧に彼女の楽器ケースに戻した。

 男は、トランペットを黒い楽器ケースに仕舞った。

Crimson trumpet紅のトランペットよ、満足したか?」



——数日後。


トランペット奏者の佐伯美紗さえきみささんが自宅で亡くなっているのが発見された。死因は出血性ショックとみられる。唇には、マウスピース(トランペットなどの楽器の吹き口の部分)の跡とみられる円形の傷があったが、それ以外に目立った外傷はない。

(〇月〇日〇〇新聞朝刊より)

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