6

「こんばんわ、子猫ちゃん」

 先週に約束した時間通りにヒバリがバルコニーに出ると、前回と同じ枝に腰掛けたエドワルドが微笑んでいた。

「おっ……オズモンド様」

 本当に来てくれた……――日が経つにつれて、あの夜の出来事はもしやただの夢だったのではないかと半信半疑になっていたヒバリの声は、瑠璃色の瞳を前にして上擦った。

 初心な彼女の反応に、彼は意地悪く微笑んでみせる。

「どうされました? まさかご自分からお誘いあそばされたのにも関わらず、忘れておいでであったのではあるまいな?」

 彼の瑠璃色に宿る悪戯っぽい輝きを目にして、ヒバリの頬は一瞬にして燃え上がった。 

「わっ、忘れるわけないじゃないですか! 驚いてるんですよ……まさか本当に来て下さるとは思ってなかったので……」

 ヒバリが両手を顔の横で落ち着き無くパタパタさせる様子を面白がり、エドワルドは更に追い込む様に「本当ですか?」とか、「グラスレッド嬢は、俺が約束を違える男だと?」だとか言って散々からかって、その反応を楽しんだ。

 やがて気が済んだのか、彼は口調を変えて兄の様に優しく問う。

「……それで、どうでした? 一週間経ちましたが、慣れましたか?」

「慣れるなんてもんじゃありませんよ。毎日新しい事ばっかりで、追いついていくのもやっとです」

 ふう、と困り顔で嘆息する女王候補を、エドワルドはじっと見つめる。

 見つめられている事に気づいたヒバリは、ドキドキと胸を高鳴らせながらも「弱気な事ばかり言ってちゃだめですよね」と、笑って取り繕った。

「女王様から直々にお言葉をいただいたんですから、ちゃんと期待に応えないと」

 小さく拳を握る少女の様子に、エドワルドはふっと微笑む。

「そうやって気を張り詰めてないで、何か困った事があったら、いつでも俺たちに言って下さいよ? 助けになりますから」

「ありがとうございます」とヒバリが笑って返すと、部屋の中からわずかに物音がした。続いて、呼びかける声。

「……ヒバリ様?」

 そう大きな声で話してはいなかったと思うが、どうやら声を聞きつけたユフィーが目を覚ましたらしい。きちんと閉じた大窓の中、カーテンの奥に侍女の影が現れた。

 この時間に、しかもバルコニーから女性を訪れるなんてことは、騎士にとってはあるまじき行為なのだろう。いつかの昼間に、ここからリヒト・カタルーシアが顔を見せただけでもあの激昂ぶりだったのだ。こんな深夜に見つかったらどうなるかなんて、想像するだに恐ろしい。

 ヒバリは声をひそめる。

「オズモンド様、もう行って下さい」

「――すまない、子猫ちゃん」

 判断は正解の様だった。エドワルドは眉尻を下げると、素早く枝から飛び降りた。

 音少なく着地をして、こちらを見上げる彼を見下ろす。正直な所を言えば、もう少し話していたかったが……仕方ない。

 ヒバリは手すりに手をかけて、その身を乗り出し、笑顔を作った。

「私のわがままに付き合ってくれて、ありがとうございました。次は、お日様の下で、お話しましょうね……!」

 一週間前に彼を引き留めた時のように、心臓は高鳴っている。恥ずかしくて、くすぐったくて、頬が熱い。近くで顔を見られなくて、本当に良かった。きっと、酷い顔をしている。

 彼女を見上げるエドワルドはその言葉に微笑み返し、声を出さずに腕を上げて答えた。そんな単純な動作が、こんなにも嬉しい。

 去って行く彼の後ろ姿を見送ってから、ヒバリはガラス扉を開いて、部屋に入る。寝間着姿に羽織り物をしたユフィーは、バルコニーから姿を見せた主人に唖然とした。

「そちらにいらっしゃったのですね。話し声が聞こえた気がしましたが……?」

 やはり聞こえていたのか……エドワルドの存在を悟られない様に、なるべく笑顔を作ってヒバリは答える。

「ごめんね、ユフィー、起こしちゃった? 眠れないから、ちょっとバルコニーで子守歌を歌ってたの」

 ――どうか、いつも通りに見えていますように……。

「ご自分で、ですか?」

「そうよ、自分にね」

 続けて尋ねるユフィーに、鼓動を抑えてヒバリは首肯する。笑顔を作って人に嘘を吐いたのは、これが初めてだ。ドクドクと胸が脈打つ。

 ――ユフィーには全部お見通しだったら、どうしよう。もしオズモンド様が、女王様からお咎めでも受ける様な事になれば……。

 しかし、ユフィーはヒバリの嘘を疑いもせず、ほっと息を吐いた。

「もう。子守歌なんて、いくらでも歌って差し上げますのに。……で、眠れそうですか? ホットミルクでもお淹れいたしましょうか?」

「あ……ありがとう。貰おうかな」

 ユフィーは頭を下げて了解すると、部屋にわずかな明かりを入れて、「すぐ戻りますので、お待ちください」と言い置いて、厨に向かった。部屋に一人になったヒバリは、ほう、と息を吐く。今度は罪悪感が胸を打った。

「ユフィー……ごめんなさい……」

 独り呟いた言葉は、部屋の静寂に消えていった。


 ☆


 女王候補と呼ばれる様になって九日目。

 昨晩は心臓に悪い夜であったにも関わらず、ヒバリはいつも通りの時間に朝を迎える事が出来た。

 それというのも、日々きっちりとその時間にカーテンを開けて、日の光で起こしてくれる有能な侍女のお陰である。ヒバリが寝入るまで彼女も起きていたというのに、全くありがたくて頭が上がらない。

 慣れ始めてきた朝の用意を済ませて、いつも通りにユフィーを連れて部屋を出、ディオの部屋の扉を叩いた。

「ディオ、用意できた?」

 今日の午前も護身術教育なので、彼女の侍女は用意に手を抜かないだろう。

 先日、荒れた肌で憧れの彼の前に出る事なんて許さない、と声を荒げた彼女を思い出す。第一騎士団長に恋をしているそんな彼女の姿を見る度に、母の言っていた言葉は本当だったんだな、としみじみ思う。恋する女の子はこの世で一番可愛いものの一つよ、と、よく言っていたっけ。

 すると、釣られて昨日の記憶までもがヒバリの脳裏をさっと過った。

 あまりに短いものとなってしまった逢瀬。瑠璃色の瞳、あの微笑み。最後に彼に言った言葉。

 何だか顔が熱くなってきて、ぶんぶんと頭を振る。突然の主人の奇行にユフィーが「どうなさいました?」と目を丸くしたが、ヒバリは未だ冷めない熱を手で隠して答えた。

「な、何でも無い!」

 これは違うんだから、とヒバリが自分の心に言い聞かせていると、やっとディオの部屋の扉が開いた。

 顔を上げたヒバリは、出てきた親友の顔に違和感を覚える。

「おはよぉ、ヒバリぃ……」

 そう挨拶してくれた彼女の顔にはいつもの覇気が無く、快活さを欠いたその声も、どことなくぼうっとしていた。

「……大丈夫? ディオ……」

 尋ねるが、当の彼女は「んぅ、何が?」と不思議そうな声を出す。続いて部屋から出てきたスコールが、付きあってられない、とため息を吐いた。

「酷い顔だし、体調が悪いのだったら行かせられない、と言ったのだけれど……」

「だって、いつも通りだよぉ」

 そう反論するディオの声には、いつも通りと言える程の張りは無い。ヒバリとユフィーが気遣わしげに彼女を見ても、ディオは「大丈夫、大丈夫」と軽く言うだけだった。


 朝食を済ませると、ディオの顔も少し血の色が差した様に見えた。二人の女王候補は馬車で送られて、郊外の演習地を訪れる。

 廠舎で訓練用の防具を着込み、侍女達と別れて外に出る。講師の二人は、演習場で彼女達を待っていた。マイクロフト・フランチェスカが口を開く。

「来たか。グラスレッドにグランディエ。……では、始めよう」

「よろしくお願いします!」

 二人の女王候補は、声を合わせて頭を下げる。今朝以来何事もないディオの様子に、ヒバリは安心していた。

 二人揃って基礎体力を作る柔軟、走り込みを十分行って体が熱を持ち始めた所で、いつもの模擬剣を渡される。

 基本の素振り練習は、ヒバリはまだマイクロフトの介添え付きで行っている。ディオの方は、一通りが終わるとレイドック・ヒューゴから実践の形で防御を学んでいた。

 今日もディオは、介添えが無くてはいけない自分とは対照的に、一人でしっかりと模擬剣を構えている。隣に立つその姿を視界に捉え、ヒバリはここのところ感じている恥ずかしさを、また覚えた。

 マイクロフトはヒバリの背後で、赤子が転ばない様に後ろをついていく父親みたいに、彼女が振る剣に手を添えてくれている。もう一人の講師――レイドックは少し離れて、ディオの振る切っ先を騎士の目で見ていた。

 その距離感の違いが、ヒバリに親友との力量の違いをまざまざと感じさせる。止めようと思っても、どうしても自分と隣の彼女とを比べてしまう。

 そんな事に意味など無いのに、とは頭の片隅で分かっていつつも、心はそうたやすく止められるものではない。

 ふと、背後に騎士団長の呼吸を感じて、はっとする。今は学びの時だ。物思いは後にしなければ。ヒバリはマイクロフトに助けて貰いながら、ゆっくりと振る剣をしっかり握り直した。

 次の瞬間、それは突然に起こった。隣で剣を振っていたディオの姿が揺らいだのだ。それとほとんど同時に、ヒバリを支える力が背後から消える。

「ぅわっ!」

 少し耐えたが、結果的にヒバリの切っ先は地面を叩いた。後ろにいた彼を振り向こうとする前に、何が起きたのかを理解する。

 隣では、ディオの力なく折れた体を、マイクロフトが背後から抱えていた。その光景にヒバリの手から剣が滑り落ちて、地面でガランと音を立てる。

「ディオ!」

 ほとんど悲鳴の様な声で親友を呼ぶが、返事は無い。マイクロフトが切迫した声で、腕の中の少女に問う。

「どうした、グランディエ。しっかりしろ」

 言いながら、力の入らない様子の彼女に代わって、体勢を変える。それでも彼女の手は緩く握られたままだ。次の瞬間には、その手から模擬剣が消えて、レイドックの手に収まった。

 マイクロフトがディオの額に手を添えて、顔を上げさせる。彼女は激しい運動をした後の様に浅い息を繰り返しており、こちらの呼びかけに答えようとする声は朦朧としていた。「熱が高いな」と彼が端的に言う。

「私は侍女と話してくる。グラスレッドは、素振りを続けていろ。……ヒューゴ、介添えしてやれ」

 両手を使ってディオの肩と膝裏を抱え上げて横抱きにしながら、マイクロフトはそう指示をすると、足早に廠舎を目指した。

 第一騎士団長の腕の中で苦しそうな顔をするディオを見送る事しか、ヒバリに出来ることは無い。

 そして、彼の指示に従う事。突然の事に頭が追いつかないが、ぐっと切り替えてレイドック・ヒューゴに目を移す。彼の顔は、面倒くさそうに歪んでいた。


 駆け足のマイクロフトが廠舎に近づくと、ディオの目が薄く開いた。焦点が合っていない瞳がかろうじて、すぐ近くにある彼の顔を見つける。息が熱い。

「……ふら、ん、ちぇすかさま……ご、めんなさ……」

「黙れ」

 彼はそう短く答えて、視線を返さなかった。

 ――ああ、幻滅されたかな……。

 そう感じたのを最後に、ディオの意識は遠のいていった。


 ☆


「侍女はいるか。来てくれ」

 廠舎に入った彼が声を上げると、二階へ続く階段からスコールが姿を現した。入り口に立つマイクロフトの姿を認めて、声を上げる。

「フランチェスカ様……!?」

 しかし、憧れの殿方が自分を呼んだ喜びは、彼の腕に抱かれている主人の姿を見て、一瞬にして弾け飛んだ。

 ディオの顔は苦しそうに歪んでおり、それが戯れなどではない事は、遠目からも明らかだった。すぐに駆けつけて、様子を見てやらなくてはいけない。

 しかし、マイクロフト・フランチェスカに憧れを抱き続けた彼女の思いは、そこから動くことを許してくれない。足がその場に縫い付けられてしまったかの様だった。

 憧れ続けたその腕の中に、自分では無い女が抱かれているという事実が、彼女の膝を震わせる。

 マイクロフトはディオを抱えたまま階段まで歩を進め、その苦しむ顔をスコールに見せる。少女の内に、恐怖にも似た感情が湧き上がった。――やめて、その姿で近づかないで。

 しかし、彼女の気など知る由も無く、彼は如何なる時も崩さないその朴直な顔を熱に浮かされるディオに向けながら、スコールに言った。

「突然倒れたのだ。熱が高い。ベッドの用意は」

 声が出なかった。何をしなければいけないかは分かっているのに。自分の役目など重々承知しているのに。

 心臓がバクバクと五月蠅くて、熱に苦しむ主人の顔を、憧れの彼の腕の中に抱かれるその顔を見下ろす事しか出来ない。

 衝撃から立ち戻れないスコールの背後に、二階から降りてきたユフィーが現れて、すぐに事情を察した。

「こちらです」と、寝台が用意してある場所に彼を案内する。

 彼が寝台にディオを横たえる優しい手付きにさえ、スコールの心の奥底が「嫌だ」と叫んでいた。

 そんな彼女をマイクロフトは振り向き、指示を出す。

「馬車を呼ぶ。すぐに離宮へ戻って休ませ、第九騎士団の者に連絡を取れ。――いや、馬車よりあの者を使う方が早いか。少し待て」

 そうして言うだけ言って、自分の考えを実行する為に、彼は再び足早に廠舎を出て行った。その背中を見送って、スコールは固めた握り拳を、自らの腿に打ち付ける。

 腸が煮えくりかえるというものじゃない。油断していると、涙が零れてしまいそうだった。

 熱に苦しむこの女に感じる怒りもあるが、同時に、病人に向けてこのような汚い感情を持つ自分がいることが、心底情けない。

 何度も何度も、腿に拳を打ち付ける。揺れる心を、そっと肩に触れて支えてくれたのは、ユフィーの声だった。

「しっかりして、スコール。あなたの気持ちは分かるけど、今はグランディエ様のために、気を確かに持たないと」

 震える声で、何とか答える。溢れそうな涙は、唇を噛む事で何とか堪えた。

「…………わかってるわよ……」


 ☆


 ディオを横抱きにした第二騎士団長、レイドック・ヒューゴに連れ添って、スコールは彼の空間魔法で離宮の前に戻ってきた。

 彼の腕を取って瞬きをする間に、演習地の廠舎から離宮の前までの道のりは終わっていた。本当に、不思議な魔法だ。

 彼の腕の中のディオの息が、先ほどよりも浅い。熱が上がっているのだろうか。レイドックは侍女を引き連れ、離宮の扉を潜りながら言う。

「第九騎士団に連絡を取れ。部屋は上で良いか?」

 それに答えるスコールの声は、自分でも驚くくらい引き締まっていた。今は、自分がするべき事をするしか無い。

 ――そうよ。この女が目を覚ましたら、全部、ぶつけてやるんだから。

「はい、左翼に上がって、奥の扉です。お願い致します」

 先ほどレイドックを待ちながら、ユフィーと一緒に行動手順を確認している内、頭が冷えてきた。そして続々と胸に飛来したのは、夜遅くまで勉学に励む女王候補達の姿だった。彼女達が頑張りを見せていたという事実は、認めなければならない。

 ――だからといって、そんなものじゃ同情の材料にはならないわよ。

 階段を上がっていくレイドックと別れたスコールは、主人が目を覚ましたら、体調管理の甘さをこってり絞ってやるんだ、と自らを奮い立たせる。そして第二騎士団長の言葉に従って、第九騎士団に連絡を取る為に、馭者を捜した。

 階段を上がりディオの寝室前に到着したレイドックは、躊躇もせずに扉を開けてずかずかと中に入る。頭の片隅で、これは堅物のフランチェスカには無理な役目だな、と思うと、ふっと笑いがこみ上げた。

 整えてあるベッドに、彼女の体を横たえる。腕の中に残った温度が、その体に籠もった熱が相当に高いのであろう事を感じさせた。

 二人きりになってしまった室内。まあ、その内、話を聞きつけたメイドが水やらなんやら持ってくるだろう。病人を一人きりにさせる訳にもいかず、そのまま彼は、ベッド脇に椅子を持ってきて腰掛ける。

 その時、椅子の脚が立てた音に、眠っていたディオの目が重たそうに開いた。

「……あ、え……? ふらんちぇすか様は……? ここ――ヒバリ……?」

 熱に浮かされ、芯の無い声で口走る彼女の様子には混乱が見える。しかし満足に働かないであろう頭で、何とか現状を把握しようとしていた。

 やがて、熱で潤んだ瞳がこちらを向いて、レイドックを認める。

「ふ、ぅ……ひゅー、ご、様……」

 朦朧とした声で呼ばれた彼は、いつもと変わらない静かな声で答えた。

「お前が気を失っている内に、離宮に戻ってきた。今、侍女を第九騎士団の元に遣わした。しばらくしたら、クラウディアかそれ以下の誰かが来るはずだ」

 静かに現状を説明する彼の話を、熱に浮かされるディオが理解できたのかは分からなかった。ややあって、彼女は火照った唇を開く。

「ふ、ぅ……ねこ、元気ですか……?」

 明後日の方向から飛んできた話題に、彼は目を丸くした。

 先日にレイドックが彼女からもらい受けた灰色の子猫は、連日騎士寮を元気に跳ね回っている。まだ数日しか経っていないというのに、もうすっかり寮の人気者となっており、メイドや騎士達の手から手へと、忙しそうな様子だ。それでも未だに一番に懐いているのはレイドックで、今朝は気付くと何故か枕元で丸くなって、眠りこけていた。

 その愛嬌のある姿を思い出す。成る程、元の飼い主に通ずるものがある。

「何を言うかと思えば……」

 思わず、その口元に笑みが零れた。

 レイドックの唇に浮かんだ微笑を見て、ディオは熱に浮かされたその顔で、へにゃりと笑った。

 そう時間を置かずして、第九騎士団長のノルディス・クラウディアがスコールに連れられて部屋に入る。

 入れ替わりに出て行くレイドックを見送って、スコールは深々と頭を下げる。頭上から降ってきた言葉に、彼女は唇を噛みしめた。

「礼ならあの堅物に言ってやれ。……全く、この私を馬車馬か何かの様に使いおって」

 彼の言う『堅物』が誰なのか、彼女にはすぐに分かった。

 ディオを廠舎に運んできたその彼は、『あの者を使う方が早い』と言っていた。倒れたディオにそれ以上の負担をかけないように最短の方法をとってくれたというのに、胸が痛い。

 ――その判断は、『騎士』としての貴方から出たの? それとも貴方の『心』から……?

 いつまでも頭を上げないスコールに、レイドックは続ける。

「……互いに振り回される身で辛かろうが、『女王候補』を頼んだぞ」

 言い終わると彼は踵を返して、離宮に背を向け歩き出す。予想外な言葉にスコールが頭を上げると、彼の姿はどこかへと消えた後だった。

 彼の言葉に少しだけ、侍女としての自分が報われた気がして、スコールはもう一度頭を下げた。


 ☆


「ディオ!」

 午前の教育が終わったヒバリは、昼食を無視してディオの部屋に上がり、親友の名を呼ばいながら部屋の扉を音高く開けた。

 ディオのベッドの天蓋は閉じており、その傍らの椅子に腰掛けたスコールがこちらを厳しく見る。

「静かにして。こんなのとはいえ、病人なんだから」

「……ごめんなさい」

 スコールの厳しい口調に口を噤んだヒバリを、後ろに追いついたユフィーが優しくフォローする。

「ご心配なのは、察してあまりあるんですけれどもね……」

 多分フォローだ。多分。

 足音を立てない様に、ヒバリは部屋の中に入る。何となく、声もひそひそとしてしまう。

「それで……スコールさん。ディオ、大丈夫なの……?」

 答えるスコールは、調子を合わせずにただ静かな声で答えた。

「すぐにクラウディア様が来て下さって、診ていただいたわ。ただの知恵熱ですって。いきなり詰め込もうと張り切りすぎて、自滅しちゃったんでしょ。人騒がせね」

 そう説明するスコールの口調からは、どこかとげとげしかった部分が消えている。目元には僅かな優しささえ滲んでいる様に見えた。あまりに様変わりした印象に、ユフィーは首を傾げる。

 ――しっかり侍女としての役目をこなせているのは良いことだけれど、離れていた時間に何があったのかしら?


 ディオが目覚める気配が無かったので、ヒバリは昼食を初めて一人きりで過ごした。向かいの席で親友が侍女に怒鳴られながら食事をしていないだけで、その時間が随分味気ないものに感じる。

 昼食の後、離宮で過ごせる僅かな休み時間を、彼女は庭園の散策をして過ごした。ユフィーは離宮の傍に佇み、その姿を見守ってくれている。

 少しだけ、一人で過ごしたい――そうお願いをすると、彼女は「私の目の届く範囲にいてくださいますか? 私はここから動きませんから」と、複雑な表情で微笑んだ。最大限、願いを聞き入れてくれるその心遣いにヒバリは感謝して、離宮前に広がる美しい庭を、彼女の視界から外れないようにぶらついている。

 今回、ディオが体調を崩したのは自分の責任だと、ヒバリは強く感じていた。

 二人で王都を散策したあの日から、離宮でも自習をする時間を増やした。原因はそれしか考えられない。だとしたら、ディオのペースを考えずに勉強時間を詰め込もうとしたヒバリの責任は、誰より重い。

 事情を知っている侍女達もそう思っている筈だが、それを一切口に出さないのが彼女には怖かった。その憂う瞳が、見事に刈り込まれた植え込みをただ呆然と見つめる。

 するとそこから突如、人の顔が飛び出た。

「ヒバリ、どうしたんだい!?」

「きゃあ!?」

 後ろにたたらを踏んで転んでしまうかと思ったが、意外にも衝撃は訪れなかった。目を開くと、植え込みから飛び出した第五騎士団長、ウィリアム・オルガの手が、背中を支えてくれていた。

「お、オルガ様……」

「いや、ごめん、ごめん。そんなに驚くと思わなくて……」

 茶の髪や肩に葉っぱをくっつけた彼は、申し訳なさそうに頭を掻いた。後ろの植え込みは、見るも無惨な姿に変えられている。ヒバリの視線を追ってそれを一瞥した彼は、わざとらしい調子で話題をすり替えた。

「と、ところで、君一人だけかい? ディオはどうしたの?」

 その質問に、ヒバリの心に垂れ込めていたものが、涙となって一気に押し寄せる。

「午前の教育の時に……突然倒れてしまって……わ、私のせいなんです……!」

 答える内に、せき止められない涙がこぼれ落ち、声が震える。ついにヒバリは顔を上げていられなくなり、両手に顔を埋めてしゃくり上げ始めた。突然の事に、ウィリアムは分かりやすく狼狽える。

「え、え、うわ! な、泣かないで! 話、話聞くからお、落ち着いて! ……エルディア嬢、違う! 誤解! 泣かせたりしてないから!」

 悪鬼の如き勢いで駆け寄ったユフィー・エルディアを、彼は何とか押しとどめた。


 ・

 ・

 ・


 泣き出してしまったヒバリの為に、芸術教育は開始の時間を遅らせることにして、ウィリアムは庭園の中心となる東屋で、ヒバリの話を聞いていた。

 芸術教育が情け深いシシームの担当で本当に良かった。彼は連絡を入れたウィリアムに多くは聞かずに、女王候補の遅刻を許した。

 しゃくり上げ続けるヒバリは、ゆっくりと自らの心境を吐露し始める。

 女王様と騎士様の期待に報いる為に、もっと頑張ると二人で決めたこと。しかし、そのためにディオに無理をさせて、彼女が体調を崩してしまった事。

 次から次へと溢れる彼女の涙に、ウィリアムは無言でハンカチを差し出した。受け取った優しさにかろうじて礼を言って、彼女は嘆いてそこに顔を埋める。

 ウィリアムは彼女たちとは教育の時間意外に顔を合わせる事は無く、体調を崩す程の努力をしてくれているのを、当の彼女達はおくびにも出さなかった。そしてそれを想像もしていなかった自分自身に、愕然とする。

 やっとの事で、素直な思いを口にした。

「そうか。大変だったね……」

 彼のその言葉を聞いたヒバリは、ハンカチから顔を上げる。その表情は、自分を責めるように歪んでいた。

「違うんです……私は全然……!」

 彼女はイヤイヤをするように、首を振る。言葉を探しながら、悔いる様な表情で続けた。

「私がディオの事を考えなかったから……。熱も、一時は凄く高くなってたって聞きました。ディオがいなくなったら私……ディオがいるから、頑張れるのに……いつも助けてくれるあの子に私は、なんて仕打ちを……」

「それは違うよ。ヒバリのせいじゃない」

 混乱を見せるヒバリの激情を押しとどめて、ウィリアムは彼女の肩に触れて、目を合わせる。

 誠実に凪ぐ彼の瞳を見て、ヒバリの感情は波の様に引いていった。はらはらと舞い落ちる涙が、花びらの様にウィリアムの目に映る。

「君は悪くない。そんな思いで頑張ってくれてた君達のどちらかが悪いなんて、そんなこと俺には思えないよ」

「でも……」と俯くヒバリに、ウィリアムは続ける。「それに――」

「倒れた自分のせいで君がそんな思いをしていると知ったら、ディオはどう思うかな」

「――!」

 言われて、息を飲む。

 そうだ。きっと彼女は、ヒバリが泣く理由になる自分を絶対に許さない。

 一緒だ、と思った。ヒバリも、ディオも。互いの心を守りたいのは。

「……」

 彼女が言葉を無くすと、突然に自分の体の感覚がウィリアムに帰ってきた様だった。ヒバリの肩に触れていた自分の手に今更ながらに気付くと、パッと放して照れくさそうに頭を掻いて目を泳がせる。

「あ、はは……。ごめん、馴れ馴れしく……分かったような口聞いちゃって……」

 しかし、ヒバリは最後に目元を乱暴に拭うと、立ち上がって日の光に足を踏み出しながら、彼に花咲く笑顔を見せた。

「……ありがとうございます、オルガ様! 私、もう行きます! 頑張って勉強して、今日学習した所をディオに教えてあげなくちゃ!」

 その笑顔に、ホッと息を吐く。同時に、強い子だな、と心から思った。

「よかった。元気になって。やっぱり君は、笑顔でいる方が素敵だよ」

「!? ……え、あ――あの……」

 心から言ったウィリアムの言葉に、ヒバリは顔を朱に染める。返す言葉をわたわたと探していると、自分の手に握られたままの彼のハンカチに気付いた。

「あ……ハンカチ、ごめんなさい。綺麗にして、今度お返しします」

 申し訳なさそうに眉根を寄せる彼女に、優しい子だな、とも思う。強くて、優しくて、たまに危なっかしい。例え彼が騎士ではなかったとしても、きっと、少しでもこの子の力になってあげたいと思っただろう。

「や、いいよ。……それより、また、何かあったら話を聞くから、いつでも呼んで」

 彼の言葉に、ヒバリは素直に礼を言って、宮殿の方向へ駆け出していった。

「ありがとうございます!」

 駆けていくその背中に、彼は柔らかく手を振った。

 

 ☆


 宮殿に戻ったマイクロフト・フランチェスカは、一番に第九騎士団、ノルディス・クラウディアの執務室に向かった。一足早く帰ってきた女王候補は、今頃芸術教育の真っ最中だろう。

 ノックをすると、いつもの安穏とした声が中から答えた。「はぁい」

 その場で名乗らず、マイクロフトはドアを開く。

「ノルディス。どうだった、グランディエの様子は」

 応接ソファに座って縫い物をしていたノルディスは、開いたドアから姿を見せたマイクロフトに意外そうな目を向けて手を止めた。途中の縫い物を目の前のテーブルに置いて、腰を上げる。身長の違いで目線は合わなくとも、座ったまま彼の言葉に答える事は出来ない。

「心因性の発熱でした――知恵熱みたいなものですね。ただ、熱は自然に下げるしかないので、少しの間、教育は休む事になりそうです。安静にしていれば大丈夫でしょう」

 熱冷ましの薬や魔法はいくらでもあるが、ディオは粒子光を操る魔術者である。心因性、という今回の要因を鑑みて、彼女の魔法力に悪影響を及ぼさない様に、今回は薬や魔法の処方をしなかった。

「そうか」

 生真面目な顔のまま、マイクロフトは頷いた。別に、彼女を心配したとか言うわけでは無いらしい。

 しかしノルディスにはマイクロフト自身がこの報告を今夜の会議まで待っていない事が、意外でならなかった。

 外部から来た女王候補というのは、それくらいに彼が気を遣う程の存在なのだろう。ノルディスがそう思っていると、朴直な第一騎士団長は、むしろ次の質問を口にしながら、眉を僅かに嫌そうに動かした。

「……で、陛下には?」

 気持ちは分かる。ノルディスはなるべく笑顔を心がけたが、自然、眉が寄ってしまうのを感じた。

「……そのお仕事は、マイクロフト様のですよ。報告した瞬間から、離宮にお見舞いに行くって、聞きません。今は、ロザリーや殿下が止めくれて事なきを得ていますが、万が一にも感染らないとは断言できない。陛下に病人の見舞いをさせないよう、徹底的に止めてくださいね」

 返ってきた予想通りの答えに、マイクロフトはこれ見よがしなため息を吐いた後、諦めるように頷いた。

「わかった……」

 


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花と星のコンチェルト おべん・チャラー @kouya823

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