5

 七日目、王宮に入るようになって早くも、あるいはやっと、一週間である。

 この一週間、初めての経験をたくさんした。新しい物事を覚えるというのはこんなにも体力を消耗するのだと、候補の二人は初めて知った。しかし同時に、体験する全てが新鮮で、驚きと楽しさに満ちあふれた生活である事もまた事実だった。

 宮殿に上がって初めて迎えた日の曜日の朝食は、突然に候補達の離宮を女王と王配が訪れた。

 公務の合間に暇を見つけたらしいが、早朝から訪問の連絡を受けた方は、上を下への大騒ぎであった。侍従達の尽力のおかげで、二人が到着する直前に何とか用意を調える事ができた女王候補達は、女王夫妻と恐れ多くも朝食を一緒にしている。

 ただでさえ上手くは無いテーブルマナー。ディオは食器が触れあう音からグラスを置く音まで、いかなる生活音も立てない様に慎重に慎重を重ねて食事を進めている。彼女が集中力を全稼働させている中、女王がスープを飲む手を置いて口を開いた。

「ヒバリ、ディオ。ここでの生活はどう?」

 問われたヒバリは、笑んで答える。

「夢の様な日々です。色々な事を教わるのも、大変ですけど、楽しいです」

 過不足のない天使のような返答。しかし、彼女の目元に若干の影が差しているのを、女王は見逃さない。

「そう? 何か困っている事があったら、遠慮無く言うのよ?」

「ありがとうございます」

 会釈を返したヒバリの貼り付くような微笑みには、女王が惚れ込んだ太陽の様な溌剌さは見当たらない。しかし、これ以上言った所で二人の少女達を恐縮させるだけだと分かっている女王は、困り顔のまま言葉を無くしてしまった。

 突然に女王候補という大任を課せられた彼女達が、慣れない生活に疲弊してしまうのは無理からぬ事だ。彼女達を抜擢した以上、その苦労に少しでも寄り添い、軽減するのがこちら側の責任だというのは、先日の夜にあった夫婦の会話の中でも意見の一致した所だった。

 女王アンジュが困り顔のまま、隣の王配ヴィルハイムを見ると、彼はコクリと水を飲んで、グラスを置いた。 

「今日――日の曜日は、アンジュが君達に与えた休日だ。しっかり休むも遊ぶも、毎週この日は一日自由に使って良いんだよ」

「……ありがとうございます」

 次に礼を言ったのはディオだった。二人の女王候補の肩に積もってしまった何かが、彼女たちの歯切れを悪くさせているように見える。

 チラと食堂の窓から覗く青空を見て、アンジュはポンと一回手を打った。

「そうだわ! 貴女達、社会科見学も兼ねて、少し王都に遊びに行くのはどう?」

 名案、という顔をする女王に、その伴侶も「おお、それはいい」と顔を綻ばせる。「君達、まだ王都を見て回ってはいないだろう?」

 思いも寄らぬ提案に目を白黒させつつ、女王候補は順々に答えた。

「え……は、はい」「はい……」

 唖然とする二人の回答を聞いた女王は、とんでもない、という顔をすぐに引っ込ませて、後ろに控えている自分の侍女を呼びつける。

「それは一大事だわ! ちょっと、馬車を用意して。二頭立てのやつよ。彼女たちがちゃんと息抜き出来るよう、中にお茶やお菓子も用意させて、そうだわ、綿雲の様なクッションを座席に用意してくれる? それと、荷運び用の馬車も必要ね。それから……」

 怒濤の如く流れ出る注文に、当の女王候補達が腰を浮かせて女王の方へ身を乗り出す。

「ちょ、女王様、女王様!?」「ままま、待って下さい! 私達、そんなのいりませんから!」

 ヴィルハイムは、三人の様子をおかしそうにくすくす笑っている。向かいの席でほとんど立ち上がっているヒバリを見上げて、一応の釈明をした。

「すまないね。どうも彼女は、君達の事となると親馬鹿なんだ」

 それはありがたいと思うが、さすがに二頭立ての馬車にお茶にお菓子はやりすぎだ。そう思っていると、侍女に細々と注文を付けていたアンジュがぐるりとこちらを振り向いて、「親馬鹿なものですか!」と眉を顰めた。

「可愛いこの子達と一緒に王都に遊びに出かけるんですもの! これだけじゃとても足りないわよ!」

 その一言に咳払いをしたのは、女王の侍女だった。見事なブロンドをきりりとまとめた

壮年の彼女は、詰問する調子で口を開いた。

「失礼ですが、陛下? 候補様達とご一緒に、都に下りる気では無いでしょうね?」

「当然。何か問題ある?」

 少女の様にツンと澄ました顔で言い返した女王だったが、侍女の返答には隙が無かった。

「ありますね。午後からのご公務はどうされるのですか。殿下に任せるばかりではいけません。陛下のサインが必要な書類もあるのです。まさか、聡明で偉大な女王陛下が、私どもにサインの偽造をしろとは言いますまいでしょうね?」

 侍女の言葉に反論を無くした女王アンジュは、その後程なくして、泣きながら宮殿に帰る事となったのだった。


 そんなやりとりもあって、候補の二人は連れ立って王都へと出かける事となった。

 女王夫婦が宮殿へと帰った後に、本当に王都に出かけてみようか迷う候補の二人を後押ししたのは、ヒバリ付き侍女・ユフィーである。

「いつも頑張ってらっしゃるんですから、たまには羽根を伸ばさないと」

 笑顔でそう言った彼女は、宮殿から初めてのお出かけをするヒバリの用意を張り切って手伝う。外出着として出したドレスは、主に一蹴された。

 結果、候補の二人はいつもとそう変わらない飾らない格好で、連れ立って宮殿と王都を隔てる正門を潜る。

 門の脇を固める騎士二人が、出て行く候補達に敬礼した。

「お気を付けていってらっしゃいませ」

「いってきます!」とヒバリとディオは声を揃える。女王から提案された時は戸惑ったものの、久しぶりの自由な『お出かけ』に胸はわくわくと高鳴っていた。

 少女達の背中が遠のいていくのを見送りながら、右の騎士が相棒に耳打ちした。

「……二人だけでいいのか? 護衛は?」

「辞退されたんだそうだ」

 左の騎士が珍しい物を見る視線で、遠のいていく二人の背中を見つめる。

「馬車も護衛もいらないって。自分たちも羽根を伸ばすんだから、侍女達も一日休んでくれと同行を拒否されたそうだ」

「はあ……。でも、何かあってからじゃ遅いだろう? どこに危険が潜んでいるか、わからんのだから」

「それもそうだが、二人はヴィゼアーダの出身だ。獣を相手に暮らしてた奴らだぞ。危機察知に関しちゃ、俺たちの出る幕はないだろうよ」

「……それもそうだな」

 そうして平和な国の門番は、二人そろってあくびをした。

 

 ☆


「見て、ディオ!」

 店先でヒバリが嬉しそうに指さしたのは、ガラス玉と貝殻でできたアンクレットだった。優しそうな老齢の店主が、どうぞお手にとって見て下さい、と勧めてくれたので、ヒバリはそれをそっと手に取って、しげしげと眺める。

 ディオも、ヒバリの手の中できらりと光るアクセサリーをのぞき込む。元々装飾類にさして興味の無いディオだったが、不思議と、そのアンクレットを身につけたヒバリの姿が容易に想像できた。

「可愛いね。ヒバリに似合いそうだ」

 ヒバリは、ええ? と照れ笑いをして、アンクレットを手首にかざし、自分の肌色と似合うかを試している。

 二人は貴族街を抜けて、平民街の商店の並ぶ通りまで出てきていた。

 大邸宅が並ぶ閑静な貴族街とは打って変わって、店も家もが所狭しと敷き詰められている様な平民街の町並みは、楽しい感じがして嫌いでは無い。だからといってその二つにそれ以上の差異は無く、二人は通り過ぎる家の屋根や、青い空や、すれ違う足早な人達や行き交う馬車の間をのんびりと散歩し、時々、目に見えた物について会話したりしながらここまで来た。

 商店通りには色々な店が並んでいて、宮殿では出されない様なホットドッグやピザパンなどの片手で食べられる気安い食べ物や、果物を使った棒付きのキャンディ、私室に用意されたものより遙かに安価らしいアクセサリー類や、この辺りを歩くには申し分ない格式の服や帽子までが売られている。色々と目移りしすぎて、全てを見るには一日ではとても足りない。

 ゆっくりと散歩気分で歩いてはいたのだが、太陽はすでに中天を過ぎている。軒を連ねている食べ物の店からは、作りたての良い香りが漂っていて、しっかりと朝食を食べてきた二人の腹の虫を鳴かせた。

 すると、通りの中程、十字路にさしかかった時、賑やかな人波に紛れて、若い女性達の黄色い声が耳に付いた。随分楽しそうな様子に、候補の二人はそちらへと顔を向ける。

 そろそろ見慣れた甲冑を身にまとった見目麗しい男性らが、こちらに進んできている。彼らの周りには、若い女性達が群がっていて、お目当ての騎士に向かって口々に囀っていた。

「オズモンド様、いつになったらデートして下さるの?」

「リュカ様、先日の演奏会、素晴らしかったですわ!」

「ポスチア様、お聞きしたい事が……」

 姦しく侍る女性達を意に介さず、マイクロフト・フランチェスカは真っ直ぐと前だけを見て確かな足取りで進んでいた。

 後ろを歩くレイドック・ヒューゴの端正な顔に浮かべた物憂げな表情は、近くに陣取る女性達の目を釘付けにしている。

 エドワルド・オズモンドは慣れた様子で、のらりくらりと女性達の猛攻を躱す。リヒト・カタルーシアは我関せずの表情で両手を頭に回して、てくてく歩いていた。

 ウィリアム・オルガは強引に話しかけようとしてくる女性達全員に、「任務中だから」と丁寧に無難な返事を返して歩く。アイゼル・ポスチアは何も言わずに、柔和な笑顔で彼女たちを躱し続ける。

 シシーム・リュカもウィリアムと同じ様なもので、生真面目な性格が災いしているのか、果敢に攻めてくる女性達に無下な対応をできずに、困り顔を浮かべている。

 その彼はジェレミア・マイルスに後ろから促されて歩き出し、つれない態度に不満顔をした女性達にむけて、ノルディス・クラウディアが無邪気な笑顔を振りまいた。

 それでもめげない女性達は、諦めずに騎士達に声をかけながら、彼らの歩みについていく。まるでその場に、何らかの引力が働いている様だった。

「おや」

 背の高いアイゼル・ポスチアが、街歩きをしている女王候補二人に気づいて、声をあげた。彼の声に、同じ背丈のマイクロフト・フランチェスカもこちらに気付いて、ノルディスなどは暢気な笑顔でこちらに「お~い」と手を振った。

 彼らを取り巻いていた女性等もアイゼルの様子に気づいて、こちらに目を向ける。途端にその顔色が、些か怪訝なものになっていった。

 そんな様子など露程も気にせず、マイクロフトは女王候補の方へ足を向ける。彼に続く様にしてその他の騎士団長達が、そして彼らの後を追いかける様に女性達が付いて来た。

「グラスレッド、グランディエ、こんな所でどうした」

 問われてヒバリは口を開くが、彼らの周りから離れようとしない女性達からの視線が刺さり、答えようとした端から言葉がこぼれ落ちてしまった。

 彼女らから注がれる視線は、まるでこちらを値踏みする様な、じとっとしたものに変わっている。

「あ……あのぉ……」

 同じ女性からこんな視線を受けた事など、今まで一度だってありはしない。思わず俯くと、ディオが彼女を庇うように僅かに前に出て返答した。

「せっかくの休日なので、街を散策してきなさいと、女王様が」

 途端に、取り巻きの女性達が驚きの声を上げた。一見何の変哲も無いの娘達の口から、女王様だなんていう恐れ多い言葉が出たのだ。彼女たちの嫉妬の表情に、非難の色が混じっていく。

 女性の一人が低い声で呟いた。

「騎士様に気安く声をかけて貰った上に、恐れ多くも女王様に直接言葉を賜ったというの……!? 何なのよ、あの子達!」

 その声を聞いてアイゼルが、いつもの調子で疑問に答える。ただし、毅然とした表情を混ぜて。

「彼女たちは次期女王となるべく、女王候補として、王宮に上がる者です。ヒバリ・グラスレッドとディオ・フィリア・グランディエ。どちらかは未来の女王様ですから、貴女達も名前くらいは覚えておいた方がいいですよ」

 女性達や通りかかった通行人が、一様にどよめいた。通行人の中には声をひそめて耳打ちし合う者の姿もある。

「確かに女王候補が宮殿に上がるとは聞いていたけど、まだほんの子供じゃないか?」

 騎士達を取り巻いていた女性の中からも、「信じられない!」とか「あんなに田舎くさいのに」とかいう、これ見よがしなひそひそ声が聞こえた。

 ディオはきっと眉をつり上げて、謂われの無い理不尽を睨む。発言者の女性は、鋭い狩人のまなざしに怯んで後退った。

 ヒバリは聞こえてくる言葉の全てを静かに受け取る。その一つ一つに耳を傾ける度、罪悪感に頭が沈んだ。

 女性達も道行く人も、何も間違った事は言っていない。彼女たちの外見ならば、自分よりずっと淑やかなレディと言えるのだろう。その知識やマナーは、きっとヒバリよりも当たり前に知っている事ばかりである筈だ。

 騎士達に自分から話しかけに行く積極性から見ても、社交界の花形にもなれるのではないだろうか。

 認められていないという事が、こんなにも怖い。

 彼女の手は思わず、いつも安心をくれる親友の袖を、軽くつまんでいた。自分の情けない、頼りない指先を、ディオはいつもの様にそっと包み込んでくれる――守ろうと、してくれる。

 途端、朗々たる声が響き渡った。

「女王候補への侮辱は、女王陛下への侮辱と心得よ!」

 鋭い声に、顔を上げる。堂々たる威厳を響かせていたのは、マイクロフト・フランチェスカだった。彼の声とその眼光に女性達は身を竦め、悪し様に密談をしていた通行人達はばつの悪そうな顔で、そそくさと去って行く。

「彼女たちを女王候補として王宮に上げる事を決めたのは、女王陛下ご自身である! その決定に異議を申し立てる者は、私に進言せよ。査問会を通した後、陛下に報告させてもらう!」

 マイクロフトの毅然とした言葉に、女性達の何人かが泣き顔を見せ始めた。その彼女達の顔を見て、ディオは拳を震わせる。――何故、アンタ達が泣きそうになっているのか。ここで泣いても良いのはヒバリだけだ。

 女性達が泣こうが、マイクロフトの剣幕は変わらなかった。そこにウィリアム・オルガが割って入る。

「ま、まあまあ……フランチェスカ様、彼女達はちょっとびっくりしただけですし……でも――」

 彼は女性達を向いて続けた。

「ヒバリやディオの事、もっとよく知って欲しいな。彼女たちは、とっても頑張り屋なんだ。突然の宮殿での暮らしは分からない事だらけだけれど、それでも弱音を吐かずに女王陛下の期待に応えるために頑張っている。貴女達より歳は下だけど、悪い子じゃないよ」

 彼の落ち着いた言葉が女王候補の二人の胸に響いた様に、女性達にもまた、響いた様だった。彼女達の勢いはみるみる萎んで、ついに誰からも反論が出なくなる。

 その場がしん、と静まってしまうと、女性達の後ろから声が上がる。リヒト・カタルーシアが虫でも払う仕草を見せた。

「ま、そーゆー事だ。お前ら、人の事をとやかく言う前に、そろそろ解散しろ。俺たちは仕事中だ」

 彼の粗野な振る舞いに女性達は、まあ! と口を覆ったが、そこにエドワルドがすかさず入る。女性の扱いはお手の物、という様にいつものウインクを彼女らに向けた。

「俺たちの仕事は、そんなに面白いもんでもないからな。麗しいレディ達の時間を割く価値はないよ」

 言われて、女性達は名残惜しそうに三々五々、散っていく。中には去り際に候補の二人に向けて、あからさまな一瞥を投げつける者もいた。

 取り巻きがいなくなって騒ぎも収まり、通りは日常を取り戻した。店先で客引きに声を張り上げる店主の声や行き交う人の雑踏、話し声が戻ってくる。

 ヒバリとディオは、ほう、と息を吐く。思いも寄らぬ所で、高位騎士達の人気の高さを思い知った。

 エドワルドが頭を掻きながら最後に離れた女性達を見送って、やがて女王候補達に向き直って呟いた。

「やれやれ。女の嫉妬ほど、怖いものは無いな」

 そんな軽い言葉で片付けて良いのかどうかは、ヒバリには分からなかった。

 自分が女王候補を名乗る事で顔を曇らす人々がこんなにもいるとは、思っても見なかった。彼らの気持ちを思えば思う程、短い期間なりに培っていた自信が粉々に砕け散っていく様だ。

 それが表情に出ていたのか、ディオがどことなく気遣わしげな表情でこちらを見ていた。気持ちを嗅ぎ当てられない様に、慌てて騎士達に向けて礼の言葉を口にする。

「ありがとうございます、フランチェスカ様、オルガ様」

 ウィリアムが口を開きかけたが、マイクロフトの素っ気ない返事の方が速かった。

「問題ない。陛下の意思を尊重したのだ。君達をかばったのではない」

 彼の言葉に、再び場の空気が固まる。そう返されたのでは女王候補達には返す言葉が無く、騎士達は彼のいつも通りの佶屈さに呆れかえる。

 誰もが次の言葉を模索する中、ディオがリヒトの姿を見つけて苦し紛れに話しかけた。

「――そ、それにしてもカタルーシア様、久しぶりですね」

 その一言にこの沈黙を破る助けを見い出して、エドワルドが続く軽口を叩く。

「そうそう、お前、しばらく見なかったよな。宮殿に来てたのか」

 リヒトはそんなエドワルドをじとりと睨んだ。高位騎士達の中ではノルディスに次いで身長の低い彼が赤髪の騎士を睨み上げる図は、なんだか可愛らしいくさえある。

「馬鹿にすんなよ。お前らがこいつらの教育とかをしてる間に、その分の雑務をこなしてるのは誰だと思ってやがる」

「ちょっとした冗談だ」エドワルドがいつもの調子で返すと、アイゼルがくすくす笑った。

「しかし、リヒトも女王候補と一緒に勉強した方がいいのでは? 昨日の夜、君が代わりに書いてくれた今度の演習の予算明細に目を通しましたが、ことごとく計算が間違っていましたよ」

「……悪かったよ。帰ったら、直しておく」

 そう唇を尖らせたリヒトだったが、アイゼルは微笑を湛えてにべもなく言い放った。

「もう遅い。昨日、ちゃちゃっと直しておきました」

「じゃあ、俺に言う必要なくね!?」

「ありますよ。引き継いだものとは言え、仕事は仕事。中途半端な事をすると、後でみんなが困ることになります」

 リヒトが文句を垂れて、アイゼルは変わらない調子で返す。エドワルド、ジェレミアに次いで、ウィリアムやノルディスもリヒトに向けて野次を飛ばすのに加わった。

 騎士達が和気藹々と馴れ合う姿を見て、女王候補達は微笑んだ。そんな二人にシシームが、ゆったりとした声をかける。

「お二人共、慣れない宮殿暮らしにさぞお疲れでしょう」

 声をかけられた二人が恐縮しきって返そうとした「いいえ!」は、思いもよらなかったマイクロフトの優しい声音に奪われた。

「たまの休みだ。ゆっくり羽をのばせ」

 

 高位騎士達と別れた女王候補達は、商店でホットドッグを購入し、公園のベンチに座って食べた。

 何時間かぶりに口にした栄養は、本人達でさえ気付いていなかったじんわりとした疲労を自覚させる。二人は会話も無く、ただ黙々とホットドッグを頬張っていた。

 初めての王都。見る風景全てが珍しく、久々の自由な時間は二人の心を軽くしてくれた。

 しかし思い返せば、ヴィゼアーダでは体験したことの無い人波に疲労し、見知らぬ人から向けられた感情に、もやもやとしたものを覚えた一日だった。

 先に食べ終わったディオは、ベンチの背もたれに体を預けて、空を見上げる。今日二人が感じたものとは正反対の、呆れるくらいの青空が広がっていた。 

 何故、あの女性達があんな目でディオ達を見たのか、正直よく分からないままだった。

 でも、あの目はどこかで見たことあるような気がする。いつか……確か昔に……。

 しばしの間記憶を馳せて、ようやく思い当たる。十歳にも満たない頃の幼い記憶。

『アイツは村長の娘だから』

 初めて大人の狩りに付いていける事になった日に、今まで友人だと思っていた男の子がそう言った。それは野犬に襲われた女の子をディオが助け、尚且つその野犬をしっかりと仕留めた功績から、大人達が与えてくれた機会だったというのに。

 だから、あの男の子を黙らせるには、それくらいじゃ足りないと思ったのだ。

 がむしゃらに鍛錬して、兄にも稽古をつけてもらって、野山に混じって走り回って、動物の習性をひたすら観察して、そうして野犬五頭を一人で仕留められるようになって、ようやくその男の子は何も言わなくなった。

 だから、よく分からないままに女王候補という立場になったディオ達を、あの女性達が面白く思わないのも、そういう事なのだ。

 足りない。

 彼女たちを納得させる知識も経験も、今のままでは圧倒的に足りない。

「ヒバリ。算学を教えて欲しい。あと、国語も」

 おもむろに聞こえた静かな声に、ぼうっとしたままパンを食んでいたヒバリは目を上げた。目の前では、星の光を湛えた女王候補が、自分に向かって手を差し出している。世界に色彩が戻ってきたような、不思議な感覚。

 呆気にとられているヒバリに、ディオは言う。

「勉強して、立派に女王候補して……あいつら、黙らせてやろう!」

 彼女が言うのが誰なのか、少し考える。そして今日の女性達の顔に思い当たった時、ヒバリはフフッと微笑んだ。全く、乱暴な物言いは、一週間勉強した程度では変わらない。彼女の手を取り、ヒバリは答える。

「そうだね。……何より、騎士様達はお仕事で忙しいのに、私達だけ休んでるなんて、何だかずるいもん。私達のために色々頑張ってくれてるのに、このままじゃダメだよね」

 そう考えると、何だか急に元気が沸いてきた。二人で宮殿への道を辿りながら、ヒバリは親友の呆れ返る程の前向きさに、救われた思いがした。


 ☆


 宮殿に戻った二人は、まず普段学習で使う図書館に赴き、算学の自習を始めた。

 ヒバリは、ディオに教えながら復習する事で、より理解が深まっていく事に気付いた。学習というのは人から習うより、楽しみ方が他にもあるものなのか、と嬉しくなる。

 そうやって助け合いながら楽しそうに学ぶ彼女達を、書架の整理をしていた第六騎士団員は微笑ましく見守っていた。

 日も暮れようかという頃合いに、候補の二人は自習を終えて離宮への帰路についた。復習用にと借りた国語の教科書を片手に、広大な庭園を徒歩で帰りたいと言い出したのはヒバリだった。

「フランチェスカ様とヒューゴ様に、体力をつけるように言われてるもの!」

 そう、彼女が気合いを入れて力こぶを作ろうとしている間に、ディオは黄昏へと染まりゆく庭園を駆けだしていた。振り返り、叫ぶ。

「じゃあ、競争!」

 短く言ってまた駆けだしたディオを、ヒバリは慌てて追いかける。「えっ、ま、待って、ディオ!」

 ヴィゼアーダでは戦士の誉れを戴く彼女が本気を出して駆け出せば、ヒバリなど敵うはずも無い。ディオが親友の足に合わせて、ペースを落として走る内に、息を切らしたヒバリが横に並んだ。目を交わして、笑いながら走る。

 ヒバリは汗だくになって、ディオも楽しさに頬を紅潮させて離宮に戻る。日はすっかり落ち行くまでになっていて、あまりの帰宅の遅さを心配していたユフィーに、二人揃って叱られてしまった。

 晩餐は、言えばマナーの復習の時間の様なものだった。ディオはフォークとナイフを触れあわせないように、とか、スープはどんな小さな音も立てずに飲む、とか、果ては姿勢までもをスコールに叱咤されて、食事が終わる頃には抜け殻の様になっていた。

 しかし、気を抜いてはいられない。湯を浴びる前に、次は国語の復習だ。

 勉強部屋として整えて貰った食堂の隣の部屋で、それぞれの侍女に見守られながら二人で借り受けた教科書を広げる。

 主達の後ろ姿を微笑ましく見守り、ユフィーは何も言わずに紅茶を淹れた。スコールは腕を組んでディオの後ろに立って、その努力を見守っている。

――何で突然、自習なんて始めたのか知らないけれど、この女なりに頑張ろうとしているのかしら……。

 そう思うと、脳裏に浮かぶのは今まで自分が主へ向けた言動だった。

 少しだけ、態度を改めた方が良いかしら――そんな思いがふと過った時、紅茶を配膳するユフィーと目が合った。彼女はスコールの考えを見透かしている様に、ニコリと笑う。向けられた表情が面白くなくて、スコールはプイとそっぽを向いた。

 復習は一時間に及んだ。後は湯を浴びて休むだけだと思っていた侍女達っだったが、まさか候補達がダンスの復習もしたい、と言い出すとは思っていなかった。

 テーブルや椅子を部屋の端に片付けて、ダンスのステップを復習する。ユフィーとスコールが、慣れないながらもそれぞれのパートナー役を買って出た。

 スコールの厳しい指導の甲斐もあって、ディオは何とかパートナーの足を踏まなくなった。その代わり、視線が足下に行ってしまう。

 足を踏まない様に注意する事に意識が向いていて、本来のステップになかなかたどり着かない。時間を重ねるごとに、スコールの表情は厳しいものになっていく。もはや手負いの虎の様だ。

 そんな彼女のカウントに合わせて、通しも含めて五回は踊る。

 ユフィーは時計を見る。もうすぐ、夜の十時を打とうとしていた。夜が深い。

「もう遅い時間ですし、ヒバリ様、グランディエ様、本日はここまでにしておきましょう」

 彼女が見るところ、主人の足取りは少し、ふらついてきた様だ。しかし、ヒバリはまだ自分を許していない様子で、額に浮かんだ汗を拭った。

「ううん。まだ……まだ、あと少し……あと一回……」

 そうは言っても、夜も更けて足下が不安な時間である。夜遅い時間に始めた訓練の為に、明かりの用意もごく少ないものだった。

 加えて明日の女王候補達の予定は、朝からの護身術教育であったはずだ。身を守る術を学ぶ前に、睡眠不足から来る事故でもあったら……。

 候補達の頑張りたい気持ちは分かるが、主人の安全を図るのも侍従の勤めだ。ユフィーは心を鬼にして、厳しい声を出す。

「これ以上は、明日に響きます。今後のダンスレッスンもありますから、今日はここまでにいたしましょう」

 しかしヒバリもディオも、首を縦に振る事はしなかった。見かねたスコールが前に出る。表情は、手負いの虎のままだ。

「小さな子供じゃないんだから、わがまま言うんじゃ無いわよ! 遅い時間まで起きていると、肌が荒れるから寝なさい! どこまで不細工になるつもり!?」

 荒れた肌でフランチェスカ様の前に出る事なんて許さないんだから、と声を荒げたスコールは、もはや口から火でも吐きそうな迫力だった。女王候補の二人は、やっと観念して寝室に向かう。

 候補達を寝室へ追い立てるスコールの後ろ姿を見ながら、ユフィーは呆れ返って呟いた。

「素直じゃ無いんだから……」

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