4


 女王候補達が宮殿に上がって、四日が経った。本日の学習教育と社交教育を終え、候補の二人は馬車に揺られて離宮へと帰ってきた。

 滞りは、『恐らく』無かった。


「帰ってからも勉強しなくちゃいけないなんて、聞いてないよ……」

 アイゼル・ポスチア第六騎士団長お手製の国語と算学の課題書類を前にして、私室で机に向かうディオはしくしくと泣いた。その侍女は嘆息して肩を竦める。

「アンタができそこないだから、仕方が無いでしょう? 自業自得よ。ほら、また背中が丸まってるわよ」

 彼女は机に向かう主の姿勢の乱れを指摘して、算学用にとアイゼルが用意してくれた30㎝定規を鞭のようにしならせて、ディオのやる気無い猫背をパシリと叩いた。

 二月後に控えた夜会。その大催事に向けて女王候補達の学力と社交マナーを最低限ラインまで引き上げるため、二月後まではその二つを軸として教育を行っていくという事だった。

 各国の重鎮を招いた夜会ともなれば様々な人物との交流が予想される事から、特に国語教育に力を入れていく、という説明が学習担当講師からあった。

『特にディオにはもう少し頑張っていただかなければ、間に合いそうにもありませんから』

 柔和な声色でそう言って、このお手製課題を渡してきた男の姿を思い出す。あの瞬間、彼の事が悪魔に見えた。

 それはそれとして、社交教育の方では姿勢の乱れは心の乱れ、立つにも座るにも乱れを生むな、と言われている。乱れていると気付いた時に直ちに直すこと、とエドワルドに言い含められた。

 そこにはありがたいこと(とディオは思うことにした)にスコールが目を光らせてくれているが、部屋に帰ってからずっとこの状況が続いているので、背中が少しヒリヒリしている。

 アイゼルが出した課題は二枚。国語が一枚に算学が一枚だ。算学などという数の計算だけでもややこしいのに、国語で習う言葉遣い――他国の高貴な方々と話すに相応しい言い回しを使いこなせる様になるために、ディオは四苦八苦していた。

「う~……ねえ、スコール。休憩しちゃダメ?」

 国語の課題を半分終わらせたディオが、机に突っ伏して侍女に救済を求めた。しかしスコールはその要求を一刀両断する。

「のんきなこと言ってるんじゃないわよ。アンタみたいな落ちこぼれのために、ポスチア様がわざわざその課題を作って下さったのよ? 休憩なんてしてる場合じゃ無いでしょう」

「う~ん、でもさぁ……もう頭が全然働かなくて……」

 ディオは机の天板に頬をべったりとくっつけたまま、ふと子猫の籠に目をやる。宮殿に上がった日に木の上から降りられなくなったのを、彼女が保護したその子猫は、以来ずっとディオとその侍従達に世話を焼かれてきた。

 小さな籠のふちからいつも見えるピコピコと動いている耳が、今日は見えない。遊び疲れて眠ってしまっているのだろうか。

 立ち上がり、籠の方へと歩いていく。スコールが「ちょっと!?」と目くじらを立てるが、ディオは聞こえない様子で籠の前に立った。

 小さな猫の姿は、籠の中に無い。

「あれ、猫がいない」

 端的に言うとスコールも立ち上がり、ディオの横に来て籠の中を覗き込んだ。

「あら、おかしいわね。ベッドメイクに来たメイドからは、何の報告も受けてないわよ?」

 離宮にはディオ達女王候補の世話をするため、スコール以下の下働きも働いている。女王候補とその侍女が居を離れている間の雑務に加えて、代わる代わる子猫の面倒を見てくれるのも彼らだった。何か異変があれば、宮殿から帰った段階でスコールに報告が成されているはずだ。

 主が子猫を探して机の下やベッドの天蓋の上を覗き始めたので、スコールも子猫の姿を探して、部屋の中を右往左往し始める。ベッドの下やキャビネットの中など、猫が入り込みそうな場所はあらかた探したが、灰色の子猫の姿はそのどこにもなかった。ディオは屈んでいた身体を起こして、頭を掻く。

「おっかしいなぁ~……どこにもいないぞ?」



 もう日も変わろうかという、未明の時刻。第二騎士団長、レイドック・ヒューゴは、やっとの思いで騎士寮の戸口に戻ってきた。

 貴族街と宮殿を区切る美しい装飾のなされた鉄門。そこからほど近くに、王宮の騎士団員のほとんどが住まう騎士寮がある。

 自宅から出仕する騎士もいるにはいるが、国を守る騎士という立場柄、有事の際の迅速な行動が求められる。そのため、王都の平民街出身の者でもこの寮を利用している者が多い。レイドックは地方出身の口なので、必然として騎士寮を住処としていた。

 寝静まっている、明かりの消えた窓々を彼はげんなりと見上げながら、今日の出来事を反芻する。

 二ヶ月後に控えた夜会の準備に警備計画、女王候補の魔術教育の計画に、魔法学校から来る再三の特別講師要請、その他、地方から上がってくる無限の数の報告書……。本日は団を副団長に任せて、こもりきりで書類とにらめっこをしていた。

 まだ全てが片付いた訳では無い。レイドックは足を動かしながら、明日にまずやるべき事を思い描く。

 まず朝一で地下水の調査の件で地方に連絡を取り、すぐに用意を済ませて都外へ出て、先日の大風の影響が濃いという街の見聞を……必要であれば、その場で作業に従事するかもしれない。団から数人連れて行かなければ……。思えば思うほど、自然、重いため息が出た。

 扉に手をかけた時、不意に足下で、ミィともピィとも判別がつかない不可思議な音がした。何かが足首付近に障る。

 見下ろすと、灰色の猫が一匹、足に纏わり付いていた。片手で抱えられる程の、小さな子猫だ。レイドックは屈んで、その首元をつまみ上げる。

「……なんだ、お前は?」

 目の前にもってきた子猫に問うと、彼か彼女はまた曖昧な鳴き方で返事をした。親猫がどこかにいるだろうかと見回すが、それらしき姿は無い。どうやらこの小さい身体で一匹狼らしかった。

 寮の中に連れ帰ったのは気まぐれだった。ピィピィと鳴いて煩わしい猫の為に、皿にミルクを注いで与える。彼か彼女はそれが安全なものだと鼻先で確認すると、忙しなく飲み始めた。

 夜警の者もいない時間で助かった、と息を吐く。こんな姿を見られたら、どのような噂を立てられるか分かったものじゃない。自分が第四のリヒトほど気安くもなく、第一のフランチェスカほど尊敬の眼差しで見られる人物ではない事を、レイドックは知っている。

 団員を含めた一般の騎士達からは、ずっと畏怖の目で見られてきた。そんな周囲の視線は、幼年の頃からずっと変わってはいない。

 いっそこの猫の様に、動物に産まれればよかったのに。

 他人からの視線など下らないものに頓着せず、床に置いた皿から実に旨そうにミルクを舐めるその子猫に、彼は静かに語りかける。

「どこから来たのか知らないが、それを飲み終えたら帰るのだぞ」

 それを猫は聞き流した様だった。皿が空になると興味が環境に向き始めた様で、食堂の中をあっちへふらふら、こっちへふらふらと、とてちて歩き出した。

 子猫がキャビネットでつかまり立ちをしたり、食卓の椅子にじゃれついたりする度に、レイドックは魔法で猫を手元へ手繰り寄せる。それを何度目かに繰り返した時、彼はため息交じりに猫に言った。

「帰れと言っただろう。ここにお前の寝床はないぞ」

 言っても人間の言葉なぞ通じる筈も無い。

猫を戸口に運んで、扉を開ける。

「さあ、行け」

 地面に下ろすが、猫は動く気配が無い。それどころかレイドックが地面についた膝にすり寄って、器用に服を伝って肩まで上がると腹をそこに落ち着けて、驚くべき速さで寝息を立て始めた。

「…………」

 もう嘆息する事すら面倒だ。何故、こうも思い通りに行かない事ばかりなのか。

 食堂に戻り、純白のテーブルクロスの上に小さな身体を横たえる。その前の椅子を引いて座ると、震動を感じたのか猫の目がうつらと開く気配がした。

 これでは休む暇も無い。開きかけた視界を隠そうと猫の小さな頭に手を添えると、再び規則的な寝息を立て始めた。温かい微かな吐息が掌をくすぐる。

 上階の自室に戻るためには、猫が深く寝入った所を見計らわねばなるまい、とレイドックは考える。今日一日では一番軽いため息を吐きながら、静かに頬杖を突いた。

 指先が自然と降りて、子猫の頭に触れた。起こしたか、と一瞬思ったが、耳がピコピコと動いただけだった。頭に添えていた手を、静かに猫の背中の方へ移動する。

 寝息と共に規則的に上下する背中は心地の良い温もりがあり、不思議と手が離せない。胸の中の何かが溶けていく様な感覚に身を任せて、レイドックは頬杖を突いたまま目を閉じた。

 

 ☆


 宮廷を出て、王都・アリセレオス。その平民街にほど近く、貴族街の始まりに大きな邸宅がある。その鉄門の前に停まった馬車から、エリューシオ王国騎士団第一騎士団長、マイクロフト・フランチェスカが降りた。

「今帰った」

 鉄門がゆっくり開いて彼を迎え入れた。

 代々騎士団長を排出している名家・フランチェスカ家である。平の身分にありながら、その功績に相応しい地位を賜った、由緒ある家系だ。

 マイクロフトが邸に入ると、老齢の執事が迎えの言葉を口にして頭を下げた。昔から家に仕えている『爺や』だ。

「お帰りなさいませ、坊ちゃん。今日一日、ゆっくり考えて下さいましたかな?」

 開口一番に言われて、マイクロフトの眉間の皺が深くなる。見合いの話は今朝にもちゃんと、「今は結婚など考えていない」と突っぱねたはずだ。

 なのにこの老獪な執事は、「坊ちゃんはまだお若い時分。焦らず、ゆっくりお決めになさいませ」などと宣った。その言外の意味する所が『覚悟を決めろ』であった事は、マイクロフトも重々承知している。

「爺、返答は今朝もしたはずだぞ」

「はて、坊ちゃんと違い、日々老いぼれるこの体。とんと身に覚えはございませんな」

 若主の荷物を受け取った執事は、廊下を進む彼の後ろにぴったりとつきながら答える。マイクロフトの口から大きなため息が出た。

 今の自分の年齢を考えると、確かにいよいよ婚期に差し掛かっているとは思う。

 現フランチェスカ家当主である父は、確かマイクロフトと同じ歳に母と結婚したはずだった。子供を作る事、また、その子を未来の騎士団長として強く健やかに育成する事を思うと、結婚は早ければ早い程いい。

 爺ほどでは無いが、父母からも顔を合わせる度にせっつかれるのは事実。しかし送られてくる見合い写真の数々に、マイクロフトは一度として首を縦に振らなかった。

 今は女王候補の育成が彼にとって全力を賭すべき任務と承知しており、妻や子に割ける時間は無い。

 次の女王が誕生しなければ、この国は滅びの道を辿るしかないのだ。自身の為に大義をないがしろにする事は、フランチェスカに生まれた男として、断じてあってはならない。

 私室に着いて服を着替え始めたマイクロフトだったが、爺は下がる気配が無い。後ろ手に扉を閉めて、喋り続ける。

「坊ちゃん……。お父様もお母様もそれは気を揉んでらっしゃるのです。フランチェスカ家存続のために、お元気な内にお孫様のお顔が見たいと……」

 飄々として効かなかったとみれば、情に訴えてくるのがこの老爺のやり口だ。子供の頃には何度絆されたか数えきれぬが、もう一国の第一騎士団を背負う男は騙されない。

 着替えた私服のカフスボタンをきちんと留める手を止めて、マイクロフトは爺の肩を掴む。

「気が進まんと言っているだろう! もう止めてくれ!」

「坊ちゃん……!」

 力に任せて追い出し、扉を閉めて鍵をかけると後悔が彼を襲った。また、気に入らない事を言われて子供のように癇癪を起こしたとか、良いように言われる未来が目に見える様だ。

 しかし、こればかりは国民達に悟られる訳にはいかない。自らの滅びの運命など予言された国民達がどのように混乱に陥るかなど、マイクロフトは想像したくも無い。

 彼には全ての杞憂を込めて、嘆息するしかできなかった。


 ☆


 まさかあのまま眠ってしまうと思っていなかった。早朝の朝靄の中を宮殿へと歩きながら、レイドックは今朝の事を思い返す。

 子猫の事は寮のメイド達に任せてきた。食卓についたまま眠るレイドックの姿に朝一番に出仕したメイドは驚きはしたが、声を荒げるでもなく、優しく肩を揺すって起こした。

「ヒューゴ様、きちんと寝室でお休みいただかなくては、お風邪を召します……」

 気の弱そうな彼女に、昨日の経緯を伝えると、何が面白かったのか柔和に微笑んだ。

 出仕前に湯を浴びてくる、と子猫の事を任せて風呂に入り自室に戻ると、部屋には胃に優しそうな食事が用意されていた。メイドの気遣いだったらしい。

 寮を出る前には男性の従僕に声をかけられた。

「子猫の面倒は私どもでみているので、ご安心下さい」

 ヒューゴ様が戻られた時に、部屋にお連れします、とも笑顔で付け加えられたので、不機嫌に「私の飼い猫ではない」と言い置いて門を出ようとしてたが、思い直して振り返る。

「この事は他言してないだろうな?」

 一般騎士、はたまた高位騎士の中でもリヒト・カタルーシアやジェレミア・マイルスに知られては、あらぬ噂が立つやもしれぬ。

 だが、その従僕は変わらない笑顔で、「ええ。知っているのは、メイドの彼女と私だけですから、ご安心を」と返した。まるで、二人だけの秘密に浮き足立っている少年の様な笑顔だった。

 そんなわけで一応の事、安心して仕事に精を出せる状況は整ったので、宮殿の外殿に向かって歩を進めている。

 宮殿の敷地は広い。わざわざ時間をかけてその中を歩こうと思ったのは、少しでも仕事に就くまでの時間を遅らせようとする悪あがきだったのかもしれない。

 すると、朝露の中に蠢く人影があった。水色の髪にエプロンドレス。羽織った簡素なショールだけがその肩を温めていた。こちらを振り向いた彼女と目が合う。

「あっ……こっ、これは、ヒューゴ様!」

 言って彼女は、慌ててお辞儀をした。着物の前が汚れ、朝露に濡れている。誰かの従者であろう彼女がこの時間に外に出ている事に疑問を抱き、レイドックは口を開く。主人の朝の支度がつつがなく出来る様に、早朝の時間は彼女たちにとって重要な筈だ。

「……このような時間にどうした? 何か捜し物か?」

 聞かれて衣服の汚れに気付いた彼女は、顔を赤らめる。その時、「スコール、いたー?」と間延びした声と共に、右手の木の上からディオ・フィリア・グランディエが姿を現した。侍女の傍に下り立って、こちらに顔を向ける。

「あれ、ヒューゴ様。どうしたんですか? こんなに朝早く」

「こちらの台詞だ、グランディエ。散歩をするにはもう少し、日が出てからの方が適していると思うが」

 暦の上では初夏はまだ少し先。日が出ていないこの時間は、婦女が出歩くには肌寒い時節であろう。だというのに、この女王候補は丈の短いスカートを履いて、脚を大胆に晒している。

「……その格好は、どうにかならないものなのか……?」

 理解できない、という心情が顔に出てしまっていたのかもしれない。侍女が慌てた様子で、「見苦しい姿で申し訳ありません! 私は止めたんですが……」と言い添える。しかし、ディオはキョトンとした。

「だって、女王様からせっかく貰った服は汚したくないし。それなら、村から出てきた時の服の方が動きやすいし、あの、ホラ、イッセキイッチョウじゃない?」

 侍女がため息を吐きながら、「一石二鳥でしょ。馬鹿」と主を罵る。不思議な関係の二人に、レイドックは首を傾げた。

 侍女の指摘に苦笑いをして頭を掻いていたディオが、不意にハッとする。「あっ、そうだ!」

 レイドックに向き直った彼女は、勢い込んだ様子で言った。

「ヒューゴ様! 猫、見ませんでしたか?」

「猫?」

 その言葉に、昨日の今日で思い浮かべたのはあの子猫だ。「そうなんです」と、スコールも両手を祈るように合わせた。

「主が宮殿に上った日に庭園で見つけて保護した迷い猫なんですが、昨日、目を離した隙に逃げ出してしまった様で……。まだ身体も小さいし、何かあってからでは大変だと、こうやって二人で捜しているのですが……」

 宮殿付近にそうそう子猫が紛れ込む訳も無い。彼女達の猫だったか、と溜飲が下がる思いで彼は問いかけた。

「灰色の子猫か?」

「えっ!? は、はい!」「ヒューゴ様、知ってるんですか!?」

 レイドックの質問に、二人とも驚いた声を出した。ならば二人の元に返してやるのが筋だろう。引き取り手が早めに見つかって、願ったり叶ったりだ。

「その子猫なら昨夜、騎士寮前で私が保護した。寮のメイドに世話を頼んでいる」

 そう言いながら、レイドックは右手に魔力を込める。途端にその掌の上に、二人の捜していた子猫の姿がパッと現れた。今の今まで何かにじゃれていたのか、腹を見せて手足を所在なげにまごつかせている。

 二人の少女の顔がパッと晴れ、ディオは安堵に高い声を出した。

「猫ぉ!」

 聞こえた声に、猫が女王候補と侍女を向く。しかしそれは一瞬の事で、すぐにレイドックの方に顔を向けてミィミィ鳴き始めた。

「どうした。飼い主が見つかったのだぞ、喜ぶが良い」

 猫を持つ手をディオに差し出したレイドックだったが、子猫はその身体を受け取ろうとするディオの手を避けて身を捩り、よちよちともがいてレイドックの手首にしがみついた。三人ともがその反応に目を丸くする。

「…………おい。こちらではない。お前の飼い主はこっちだろう。ほら、行け」

 もう一度、ディオの方に腕を出すが、猫はひしっと手首にしがみついたまま、梃子でも動く気配が無い。ディオは子猫を迎えようとした手を下ろして、スコールと顔を見合わせた。

「……もしかして、ヒューゴ様の事を気に入っちゃった、かな?」

 ディオの言葉を肯定する様に、猫はしがみついた手首に顔をすり寄せている。レイドックの表情が、晴天の霹靂に歪んだ。

「なっ、何だと……!?」

 衝撃を受けているレイドックの声にも動じず、猫は彼の団服の袖のキラリと光る金ボタンをいじっている。よほど彼に懐いたと見えて、引き離すのは可哀想だ。

「ヒューゴ様、この子、貰ってくれますか?」

 ディオの問いを、レイドックは乱暴に突っぱねた。

「ならん、目障りだ!! 飼い主だろう!? お前等が持っていけ!」

 この人もこの様に取り乱す事があるのだな、とディオはぼんやり思った。護身術訓練の時は全てに淡々としていて覇気も薄く、まるで幽霊と話している様だ、と思ったのだが。

「だってこの子、もうヒューゴ様の事気に入っちゃってるんだもん……。猫も、自分が気に入った飼い主の方が絶対いいに決まってる……と、思います」

 ディオはこの子猫に出会いはしたが、ここまで懐いて貰えなかった。こんなに愛らしくしがみついている姿は、初めて見たのだ。

 スコールの方を見ると、彼女もまたディオと同じ心持ちであったらしい。珍しく主の意見に茶々を入れずに、優しい顔をしている。

 レイドックは困り果てた様子だった。その顔に迷いを滲ませて、右手首にしがみついた猫を左手で取り上げる。

「しかし……騎士団長は激務だ。甲斐甲斐しく世話はできん」

「さっき、メイドさんが世話してるって言ってたじゃないですか。それに、騎士寮って騎士団の人達が生活してるんでしょう?」

「見る目が多い方が今回の様なことも起こりづらいし、安心です」

 ディオの指摘をスコールが補完して、外堀は埋められた。

 レイドックは二人の少女を見、手の中の子猫を見る。猫はやはり曖昧な声で、ピィと鳴いた。

「…………わかった」

 観念した様なレイドックの声に、わぁっ、と少女達の顔が猫を見つけた時よりも明るく輝き、二人揃って「ありがとうございます!」と頭を下げた。

 レイドックは苛立ち紛れに息を吐く。本当に、思い通りに行かないことばかりだ。

 ディオは彼の手の中の猫に語りかけた。

「よかったなぁ、猫。ヒューゴ様の元で大きく育てよ!」

 何だかしてやられた感が拭えずに、レイドックはまたため息を吐く。それにしても、『猫』に『猫』と語りかけるのは如何なものか。

「もっと良い呼び名は無いのか」

 こんな事を言うとすでに愛着が沸いてしまっている様で断じて不本意だが、彼はそう問わずにはいられなかった。ディオは頭を掻いて脳天気に笑う。

「こいつが気に入る名前が見つからなくて……思いついたらつけてあげてください!」

 言われて、レイドックは手の中の猫に目を移す。彼か彼女は満足そうに、曖昧な鳴き声を出した。


 ☆


 王宮生活の六日目には、昼下がりの社交教育でダンスレッスンが行われた。ヒバリがウィリアム、ディオがエドワルドと組んで、基本のステップから履修して行く。

 ここ数日、机に貼り付いて学習を進めているばかりだった女王候補達に、軽い運動はいい息抜きに――なるかと思った。

「いっ」「ごっ、ごめんなさ――うわぁ!」

 エドワルドの靴をまた踏んづけた拍子に、ディオの足首がガクンと折れて、横に倒れかける。パートナーがとっさに彼女の腰を支える様な形で、転倒を防いだ。

 初めてのダンスレッスンには体ばかりでなく、心までもがなかなか追いつかなかった。

 二人共、社交の場でのダンスでは男性と女性が手を取り合って踊る、という一点に驚いていた。ヴィゼアーダ村での踊りと言ったら基本的には一人でステップを踏むもので、周りの人達と輪になったりだとか、向き合ったりだとかして楽しむ事はあったが、基本的にその身体は触れあわないものであった。

 互いの手を合わせる所か、ましてや男性の手が自身の腰に回る事なんて、考えもしなかった事だ。

 慣れない感覚をなんとか耐えながら、エドワルドのカウントに合わせてゆっくりステップを踏んでいく。事前の連絡の通り侍女達に着せられたドレスの裾は長く、決して高くは無いヒールの靴も足の感覚を惑わせる。

 ヒバリは動きも表情もまだまだ堅いが、初めてにしては、まあまあ形になっている感がある。

 問題はディオだった。

 彼女は、そもそもパートナーと息を合わせるという事が出来ていない。彼女の村での仕事が狩りだという事を考えると、他者と息を合わせるという事は得意そうなものだが、どうもそういう問題では無いらしい。

 足の運びはごく簡単なもので、彼女にもすぐ覚えられた。

 それゆえに身体を動かす事が得意な彼女は、男性のリードに合わせられずに先を行ってしまう。注意された後にリードに合わせて動こうとすると、機械の様にぎこちなくなるだけならまだ良い方で、パートナーの足を思い切り踏んづけてしまう。ピカピカに磨き上げられていたエドワルドの靴が薄汚れるまで、そう時間はかからなかった。

「ごめんなさいぃ、オズモンド様ぁ!」

「八つ当たりの様な謝罪は止めてくれないか、子猫ちゃん……」

 体勢を取り直して言葉ばかりの謝罪をするディオの顔は、赤くなり悔しそうに歪んでいる。心なしか、エドワルドの左手と合わさった手にも力がこもっている。ていうか、痛い。

 恐らく身につけている物も相まって、思い通りに動くことが出来ないのが耐えがたいのだろう。必死に癇癪を堪えている子供の様な顔を、エドワルドはいつもの流し目で宥める。

「大丈夫。もう一回だ、子猫ちゃん」

 しかしまた、同じ事の繰り返し。今度は油断したエドワルドの手が外れて、ディオは後ろに尻餅をついてしまった。

「! 悪い、子猫ちゃん……」

 怪我は無いか、と膝を突いたエドワルドだったが、ディオはもう我慢がならない様子で足をばたつかせ始めた。

「うぅぅぅぅ……」

 ディオが上げる獣のようなうなり声に、ヒバリとウィリアムも心配そうにこちらを見た。これは今日はもう無理そうかな……という思いが頭を過ったエドワルドだったが、ディオはひとしきりばたつかせた足を今度は乱暴に投げ出すと、顔を上げた。

「ごめんなさい、オズモンド様! もう一度、お願いします!」

 その顔からは赤みが引き、眉は闘志を描いている。意外だったその表情に、エドワルドは「おっと」と声を漏らして、彼女の手を取り立ち上がらせた。

「俺の方こそ、すまない。君の事を見くびっていたよ」

 彼の言葉にディオはキョトンと首を傾げたが、再びカウントが始まった瞬間に集中した様子を見せた。

 そしてまた同じ所で、彼のつま先を踏んづけた。


 ☆


「……はぁ。参ったぜ、今日は」

 本日の社交教育を終えたエドワルドは、執務室のソファに素になった両足を上げて氷嚢を当て、酷使された彼らを労っていた。

 片付けなければいけない事務仕事もあるが、素足のまま机に就いて仕事など出来ない。酷い有様になったつま先を冷やした後は、軽くマッサージをしてやりたいし。

 不意に、部屋の扉がノックされた。彼はそちらに顔を向ける。

「入るぞ」という言葉とほとんど同時に入ってきたのは、第一騎士団長にして高位騎士の長、マイクロフト・フランチェスカだった。扉を開いた瞬間に、ソファの上であられも無い姿を晒すエドワルドを、ぎょっと見る。

「どうした。そのようにだらしない格好をして。らしくないぞ」

 エドワルド・オズモンドは見目に気を遣う男だ。その彼が、執務室とはいえ誰に見つかるとも知れない宮殿の中で、素足を抱えてソファに座っているのは、率直に言って信じがたかった。

 靴を履いて長を迎えようと腰を浮かしたエドワルドだったが、マイクロフトはそれより早く、つま先を冷やす氷嚢に気付いた。

「――いや、すまん。無理に立つ事は無い。そのままで良い」

 彼の気遣いに、エドワルドはありがたくソファに身体を沈める。マイクロフトは、テーブルを挟んで向かい合っているもう一つのソファに腰を下ろした。エドワルドは汗をかきはじめた氷嚢の位置を整えながら、体だけでもと長を向く。

「見苦しい姿で申し訳ありません……。先ほどまで、社交教育の時間だったもので」

 彼の言わんとする事を理解したマイクロフトは、微かに赤いつま先と、ソファの前に揃えて置かれた靴をちらと見た。――今週中にはマナーと並行して、ダンスレッスンを始めると言っていたか。

 持参したファイルを手渡し、中にある書類の件について、二三打ち合わせをする。それが終わると、マイクロフトは変わらない表情で、エドワルドに問いかけた。

「――それで、どうだ、女王候補は?」

 そう聞かれたのが、エドワルドには少し意外だった。普段の第一騎士団長は、緊急の時以外の報告はあまり受け付けない。自他共に対して甘くない、という彼自身の性格もあるが、それ以上に同じ騎士として、その手腕を信頼してくれている。

 だからエドワルドは、少々堅苦しい所もあるこの上官の信頼に答えるためにも、責任をもってこの仕事に当たっているのだ。

 その第一騎士団長が、宮殿に上がったばかりの少女達の事を気にしている。やはり今回の女王候補の育成は、それくらいの重みがある一大事業というわけだ。

 必ずしも順調とは言いがたいが、という前置きを飲み込んで、エドワルドは答える。

「二人共、よく頑張っています。とくにグラスレッド嬢はダンスの素養があるようで、飲み込みが早くて助かります。ただ――」

 思わず言い淀んで、つま先が薄汚れた靴に目が行ってしまった。釣られる様にマイクロフトの視線が動く。

「グランディエか」

「……はい」

 言い当てられて頷き、氷嚢を持ち上げて疲れ切ったつま先を見せる。マイクロフトはそれを見て、薄い微笑みを見せた。

 あずかり知らぬ所では鬼と恐れられている第一騎士団長のふとした表情に、エドワルドは我が目を疑う。しかしそれもほんの僅かな間の事で、腰を上げて立ち上がったマイクロフトの表情に、もはやその名残は無かった。

「大変だろうが、少しの辛抱だ。励んでくれ」

「はっ」

 女王候補には見せたことの無い騎士の顔を出して、エドワルドはマイクロフトをソファの上から見送る。扉が閉まって、下げた頭をそのままに遠ざかっていく靴音を聞いた。そして十分に上官の姿が遠ざかった所で、氷嚢を片付けて靴を履くと、面白そうにニヤリと笑う。

「あの堅物があんな笑顔を見せるとは……ひょっとしてフランチェスカ様は、ああいったのがお好みかな?」

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