3

 女王候補が王宮に上がって三日目――。

 シャラシャラとカーテンが開く音と共に差し込んできた陽光に、ヒバリはふかふかのベッドの上で身を捩らせた。「うぅ……ん……」

「ヒバリ様、朝でございます」

 侍女に優しく囁かれ、目を覚ました。ぽやぽやとした眼のまま、のそりと上体を起こす。

「おはようございます、ヒバリ様」

 ユフィーのにこやかな挨拶に「おはおう……」とあくび混じりに答える。護身術訓練の疲れが、モロに出てきていた。


 顔を洗い、選んだ服に袖を通す。衣服は女王の計らいで、上質だが決して肩肘の張らない、過ごしやすい服が用意されている。

 今日は深紅のスカートに併せて、落ち着いた薄い桃色のブラウスを合わせる。朝食の後には初回の社交教育が控えている事を考えて、襟元にリボンを結んで少しだけ華やぎを足した。

「リボンくらいは、私に結ばせてくださっても……」

 鏡台の前でリボンの形を整えるヒバリの背後でユフィーは不満げに言って、主の髪に櫛を通し始めた。毛先を優しく梳かれるヒバリは、「だって、朝の支度くらいは自分でしたいんだもの」と苦笑して、ピンと整った胸元のリボンに満足げな顔をする。

「うん、これでよし」

 支度の整った彼女はユフィーと共に自室を出る。階段を降り、踊り場から隣の棟への階段を上がって、程なくディオの部屋の前に着いてドアを叩いた。中からすぐに応答がある。

「あっ、ヒバリ? ごめん、少し待ってて――痛っ、いちちちち……痛いよ、スコール、もうちょっと優しくおねが、いぎっ!? す、スコールちょっとまっ……く、首が……! ま、まってよ、どうしたの……!?」

 部屋の中で困惑している様子のディオの声に、不機嫌な声が答えた。

「どうもしないわよ! ほら、グズグズしてないで行くわよ!」

 どちらが主だかわかりもしないやりとりの後にやっと扉が開いて、澄ました顔のスコールが先に部屋を出てきた。後ろから髪を整えたディオが首を庇いながら出てきて、迎えに来た二人に詫びを入れる。

「あはは……おまたせ……」

 ディオは薄い水色のブラウスに、上品な黒のボトムパンツを合わせており、上着に黒いレースのボレロを羽織っていた。

「おはよう、ディオ」

「おはよう、ヒバリ。用意、早いね……」

「アンタがすっトロいんでしょ」「スコール!」

 主人を横目で見たスコールを、ユフィーが窘めた。ヒバリはそのやりとりを微笑ましく見守る。なんだかんだ言って、ディオとスコールの相性は悪くないと感じていた。昨夜の二人の間に何があったのか、なんて知るよしも無い。

 では、参りましょう、とユフィーに道を示されて、ヒバリとディオは歩き出した。その後を二人の侍女が続く。

「今日のディオの服は、スコールさんが選んだの?」

 歩きながらヒバリに問われたので、ディオは頷いた。「助かるよ。宮殿では何を着ればいいのかなんて分からないから」

 後ろのスコールがどんな顔でそれを聞いたかは、彼女には分からなかった。

 正装が基本とされる王宮内ではあるが、女王が二人に用意してくれた衣服はいずれも気詰まりでは無いものばかりだ。それらを用意した本人からは『自分の家だと思って、格好なんか気にせずくつろいでくれていいのよ』とまで言われている。

 とはいえ、そもそも衣服なんぞは限られた物を着回ししてきた二人にとって、『王宮内外を歩いても恥ずかしくない着こなし』などさっぱり分からない。

 その点で、年頃の近いスコールやユフィーに世話をしてもらえる事は、女王候補の二人にとってはとてもありがたい事だった。 


 四人揃って食堂に入る。ユフィーは大きなダイニングテーブルの椅子を引いて主人にそこを示すが、同じくする様子のないスコールに厳しい目を向けた。

 友人に睨まれた彼女は、渋々という様子で雑に椅子を引く。

 ユフィーはその態度にも良い顔をしなかったが、当の主であるディオ本人は特に意に介さず、候補の二人は礼を言ってそこに座った。

 やがて給仕によって食事が運びこまれた。ディオがよだれを垂らさんばかりの様子で、腹の虫を鳴かせている。

「ヒバリ様」

 ユフィーが呼びかけて、主人の膝にナフキンを布いた。ヒバリは彼女に微笑みかける。「ありがとう、ユフィー」

 ヒバリに甲斐甲斐しく世話を焼くユフィーと反対に、スコールはずっと主人の顔を見ようともしない。

 ディオは背後のスコールを振り向いたが、侍女はツンと明後日の方角を向いている。

「スコール!」

 ユフィーが咎める様に言うと、スコールはようやく、主人の膝にぐちゃぐちゃとナフキンを叩きつけた。

 ユフィーがまた非難がましく口を開きかけて、ディオは彼女を向く。

「いや、気にしないで。大丈夫だから」

「でも……」

 友人の非礼を黙って見過ごせないユフィーを見かねて、ヒバリはおずおずとスコールに問いかけた。

「……スコールさん、どうしたの? 気分でも悪い?」

 同僚に優しく声をかけた主人に、ユフィーは申し訳なさそうに眉尻を下げる。

「ヒバリ様、彼女はその……ただ、妬いているだけですので……」

「――ユフィー!」

 スコールがやっと反応らしい反応を見せ、顔を赤くした。ディオとヒバリの声が重なる。

「妬いてる?」

 どういうことか、とスコールを見る。もはや同僚の発言を取り消せない彼女は、顔を赤らめて主達の視線から逃げるように目を背けた。そんな彼女の様子を気にしないでユフィーが続ける。

「彼女、幼い頃から第一騎士団長様に憧れてまして――」

「フランチェスカ様に?」

 彼女の反応とフランチェスカ様に何の関係が? そう首を傾げたのはディオだけで、ヒバリは一人得心がいった顔をしている。

 もう耐えられないと口を塞いでこようとするスコールを躱して、ユフィーは更に続けた。

「はい……。昨日の教育の時、演習場に面した窓から、第一騎士団長様とグランディエ様が手合わせされていたのを見て……その、拗ねているんだと思います」

 昨日護身術訓練に使用した演習場には、騎士達の休憩や備品の倉庫として使われる建物が併設されていた。女王候補が教育を受けている間、二人の侍女はその建物で待機していたのだが、どうやら窓から授業風景を見守ってくれていたらしい。

「そんな、ただの手合わせで」

 ディオは苦笑したが、その瞬間スコールの眼光が鋭く光って彼女を睨んだので、びくりと身を竦めた。ユフィーが言い添える。

「彼女の家柄にも色々な事情はあるのですが……貴族でもエリューシオ最高位の騎士と、おいそれと親しくはなれません。併せて、彼女はこの通りの性格ですから、自分からなんて、とても。第一騎士団長様は気難しい方ですし……」

「でも、ただの訓練だし」

 ディオが唱えた否は、噛みつくようなスコールの声に遮られた。

「でも私は、あの方があのように微笑まれてる姿は見たこと無いわ!」

 一同が驚き、目を丸くして彼女を見た。みるみるうちに、スコールの耳までが赤くなる。その熱でお湯でも沸かせそうだ。

 微笑まれた、と言われて、ディオは手合わせの後にマイクロフトが見せた笑みを思い出した。その意気があれば、さぞ頼もしい女王になりそうだ、と言ってくれた。純粋に、騎士には及ばないが力量を認める、と言ってくれたようで、嬉しかった。

「でも、特別目にかけてもらってるってわけでもないんだし……」

 納得がいかない顔で話を続けようとするディオだったが、スコールはまた、この話は終わりとでも言うようにはその声を遮った。 

「――ああ、もう! いい加減に食べなさいよ! 食事が冷めたら料理人に悪いでしょう!」

 言って、主人の手に無理矢理ナイフとフォークを握らせる。

 ディオは渋々といった顔で、食事に移ろうとして、侍女に押しつけられた食器を見た。

「……あれ、スコール逆だよ。昨日の夜はこっちの手にナイフを持って食べた」

「――ああもうっ、なんだってアンタそんなに私をイライラさせるのが上手なのよ! 昨日も言ったでしょ、それが正しいの! アンタのナイフ使いが逆なのよ!!」

 これにはユフィーでさえも、先日の夕食にあんなに時間がかかったのは何のためだったのだと、肩を落とさざるを得ない。

 鼻息も荒くスコールが言っている間に、ディオはそのままナイフを使って食材を切り、フォークでそれを口に運んでいる。

「わ、本当だ! こっちの方が切りやすいし、食べやすい!」

「アンタほんとふざけるんじゃないわよ! このやりとり何回目だと思ってンのよ!」

 スコールのそんな嘆きを聞かずに、ディオは、うまいうまいと言いながら鴨の肉を食べ進めている。

 スコールが怒りのやり場を失って肩を震わせてうつむくと、ヒバリが彼女の顔色を覗いながら小さく言った。

「スコールさん……ディオ、わざとじゃないのよ……。悪気は無いから、彼女のこと、嫌いにならないでね……?」

「悪気が無いのって、ある意味一番質が悪いわよ……」

 スコールが小声で呟いた核心に、誰も反論しなかった。

 

 ☆


 本日の予定は、午前に社交教育と、午後からは芸術教育だった。響きからして特別感の強い内容に、二人の女王候補は少しならず身構えている。

 食事を終えて馬車で宮殿に向かい、社交の教室にと当てられた部屋に向かう。調度品の少ない広々とした部屋に到着すると、すでに二人の騎士が待っていた。高位騎士を待たせてしまった、と思った二人は、小走りで駆け寄った。

「待たせてごめんなさい、オズモンド様、オルガ様」

 ディオが言った声で、二人の騎士がこちらを向いた。第三騎士団長のエドワルド・オズモンドと、第五騎士団長のウィリアム・オルガだ。

 ヒバリが小走りで上がった息を整えていると、エドワルドから二人に向かって、返事と共にウインクが一つ投げかけられた。

「お待ちしておりました、子猫ちゃん達」

「こ、こねっ……?」

 奇怪な呼びかけに、ディオが一気に怪訝な顔をした。あるいは、思ってもみなかった彼の顔に。

 第三騎士団長、エドワルド・オズモンドの表情は謁見で見たときよりも随分気安い、印象としてあえて言うなれば軽いものになっていて、本当に同一人物なのかさえも疑わしいほどである。あの夜に同じ事を思ったヒバリは、ディオの反応に苦笑いをした。

 すると、エドワルドの隣に立つ第五騎士団長のウィリアム・オルガが、彼の脇腹を肘で小突いた。

「エドさん、ふざけないでくださいよ。一応今は任務中なんですから、女王候補にそんな軽薄な態度をとっているとフランチェスカ様に知れたら、大目玉ですよ」

「おお、この俺に忠告なんて、なかなか肝が据わってきたじゃないか、ウィル」

 エドワルドはそう言って嬉しそうに相棒と肩を組み出す始末。女王候補はぽかんと口を開けている。もたれてくるエドワルドに、ウィリアムはうっとうしそうに口を開いた。

「もう。そうじゃなくて、エドさん!」「そうだな、悪い悪い」

 困り顔のウィリアムの肩を解いて、エドワルドはさっと姿勢を整えて、女王候補達に向き直った。

「改めて、社交教育を担当する、第三騎士団長、エドワルド・オズモンドだ。よろしくな、子猫ちゃん達」

 またウインクが投げかけられて、ディオは理解できない言葉を聞いたように、眉間の皺を更に深くした。「こねこ……?」

 ほれ、とエドワルドに背中をぽんと叩かれて、続いてウィリアムが自己紹介を始める。ご丁寧に、敬礼付きだ。

「おっ、同じく、社交教育を担当いたします、第五騎士団長のウィリアム・オルガと申します! い、以後お見知りおきを」

 彼の声と敬礼の堅さを、エドワルドは一笑した。

「何だ、その新任みたいな挨拶は。上官相手じゃあるまいに」

「えっ、なっ、何か変ですか?」

 ウィリアムの狼狽ぶりは、女王候補達にも笑顔をもたらした。高位騎士がここまで上滑りしている事が、彼らも同じ人間なんだと感じられて、なんだかホッと力が抜ける。

 その候補達の様子を見て取って、エドワルドはニヤリと口の端を上げた。

「じゃあ、次は子猫ちゃん達の番だ」

「?」

 候補の二人は首を傾げる。不思議そうにする二人に、軽薄な流し目の騎士は言った。

「ここは『社交教育』の場だ。俺たちの使命は二人の子猫ちゃんを、社交界で通用する立派なレディーに育てること。そして交友の基本とは――!」

 続く言葉を溜めるエドワルドは片足を引いて右手を添えて優雅に一礼した。

「――挨拶だ」

 その前方にヒバリが立っていたのは、単なる偶然に過ぎない。そのまま目を上げた彼は、呆然とその姿を見るヒバリにウインクを投げかけた。ちょうど、彼女にダンスでも申し込もうとしているかの様な形になる。ヒバリの顔がさっと赤くなり、その場から跳ぶように離れてディオの後ろに隠れた。

 ヒバリの様子を見てエドワルドは頭を上げて、調子が狂うぜ、と乱暴に掻いた。

「街のレディ達はこれでイチコロなんだが……どうやら、子猫ちゃんには刺激が強いらしい」

 ウィリアムは呆れ顔をする。

「エドさんの行きつけのお店の子達と、この子達を同じにしないでくださいよ」

 エドワルドは悪びれず、流し目で返した。

「いい女の仕草を学ぶには、いい女を見るに限るぞ。お前もその内、行ってみるといい」

「結構です!」

 顔を赤らめて声を荒げたウィリアムを、エドワルドはくっくっと笑った。ここまでのやりとりの中で女王候補に理解できたのは、この騎士二人は仲が良いと言うことくらいだ。

「と、言うわけで挨拶と一言をお願いしようか。黄色の髪の髪の子猫ちゃんから――そうだな……名前と出身地、それから、特技を」

 そう言ってこちらを見たエドワルドに、ヒバリは身を堅くする。挨拶……今まで挨拶なんてのは、顔を合わせて「おはよう」と言えば済むものだった。しかしこの場所では、その意味はきっと違う。

 どう返せば正解かが分からずにしどろもどろとしていると、「堅くならないで」とウィリアムが言った。

「元気に、普段通りの挨拶をしてくれればいいんだ。正解不正解なんて、これからの事だし関係ないんだよ。肩の力を抜いて大丈夫」

 爽やかな笑顔に後押しされて、ヒバリは思い切ってペコリと頭を下げた。「こっ……こんにちは!」

「ん。良く通る声だ」ヒバリの声を耳で咀嚼するかのように、エドワルドは目を閉じる。

 ヒバリに残された行動は、名前と出身地、それから特技を口にする事。特技……特技……?

「ヒバリ・グラスレッドです。出身地はヴィゼアーダ村で……特技……特技は……」

 言いながら頭の中で必死に探すが、出てこない。瞳を右往左往するヒバリの隣で、「はい」とディオの手が上がった。

「ヒバリはダンスが上手で、村の祭りでは、ほとんど必ず踊り手でした!」

 親友の助け船をありがたがいと思うのを、それは特技と言って良いのか、という思考が邪魔した。しかしヒバリの思惑とは反対に、二人の騎士は「おお」と感心した声を出した。

「それは助かる。二ヶ月後のパーティーの為には、ダンスのレッスンもしなければいけないからな。経験があるのは大いに良いことだ。……して、黒い髪の子猫ちゃん、君は?」

 エドワルドに問われて、ディオは「はい!」と威勢良く応える。

「ディオ・フィリア・グランディエ。出身は同じヴィゼアーダ村。特技は……鹿くらいまでなら一人で狩れます!」

 自信満々に言い放った声が、広間に木霊する。数瞬の沈黙が訪れた後、エドワルドとウィリアムは耐えきれなくなった様に噴きだした。



 社交教育の内容は主にマナー、言葉遣い、ダンスレッスンとの事だった。

 社交の場は様々な人達との会話の場である。社交界での華となるのは、礼儀正しく、立ち居振る舞いの美しい女性だ、とエドワルドは言った。

「言葉遣いがいくら丁寧でも、礼を欠いては相手を楽しませる事が出来ない。どれだけダンスが上手でも、ふとしたときの所作でボロが出てしまっては、レディとは言えない」

 狩猟村出身の少女二人が不安に顔を曇らせた所で、エドワルドは続ける。

「――そこで、まずは立ち姿、歩き方、座り方、礼、の四つだ。本日は、この四つを何とか形にしてもらう」

 その後は、言われたとおりの事を繰り返し、時間いっぱいに訓練をした。侍女の二人は候補達の努力を部屋の端から静かに見守っている。

 内心女王候補達は、立ち姿の訓練とはこれ如何に、と首を傾げていたのだが、壁を背中にして正しい姿勢の維持を練習して、「立つ」と「立ち姿」というのは違う、と言うことをまざまざと思い知った。

 普段何気なく立っている時には使っていない筋肉が刺激されて、護身術教育以上に体力を使う。頭に載せた水差しを落とさないように十分間耐える訓練は、さすがのディオも音を上げたが、ヒバリは初回で彼女より長く耐えきって、ウィリアムを唸らせた。

「惜しかったね、ヒバリ! あと二分で十分耐えきったのに……」

 我が事の様に一喜一憂して指導してくれる人がいるというのはこんなにも嬉しい事なのだと、ヒバリは初めて知った。

 歩き方や礼の訓練も疲れたが、一番に堪えたのは座り方の訓練だった。

 エドワルド・オズモンドは、「座る」という行為が何気ないものなので無防備になりがちだが、完璧な女性のそれは美しく、隙が無いものだ、と言った。一息に座るのでは無く、ゆっくりと腰をかける。優雅に腰を上げる。

「立ち姿」から「座る」という行為の移行を繰り返して、座る事がゲシュタルト崩壊してしまったディオに対して、エドワルドは笑いながら言った。

「まあ、普通は一朝一夕で形になるようなものじゃないしな。しかし、普段の生活においても今日から意識して生活すれば、二ヶ月後にはそれなりにはなれるだろう。ま、頑張りな。黒い髪の子猫ちゃん」

 そう言って子供にする様に、頭をポンと軽く叩く。ディオは、幼い時に兄達に同じようにされたのを思い出して、久方ぶりに子供扱いを受けた事に頬を膨らました。


 ☆

 

 午後の芸術教育は日差しの柔らかいサンルームで行われた。社交教育ですっかり硬直してしまった筋肉のまま女王候補達が侍女達と向かったそこには、上品な黒いピアノと、騎士達の背丈ほどもあるハープが置かれていた。

「失礼します」と入ると、シシーム・リュカが柔らかい笑顔で二人を迎えた。

「ようこそ、いらっしゃいました」

 シシームの隣で、ジェレミア・マイルスがピアノの椅子に跨がり背もたれを抱えて、リラックスした様子でこちらを見ながら、上げた手をひらひらさせた。どうやら彼流の挨拶らしい。

「こちらにお座り下さい」

 ピアノの後ろに並んでいる二脚の椅子を示したシシームに、女王候補の二人が従う。彼に「お仕事の時間ですよ、ミア」と促され、ジェレミアが両手を上げて立ち上がる。シシームは胸に手を置いて女王候補達に微笑みかけた。

「改めまして、こんにちは、女王候補。第七騎士団を取り纏めております、シシーム・リュカと申します」

 礼儀正しい彼の隣に立ったジェレミアは、ごく軽い挨拶をした。

「第八騎士団、ジェレミア・マイルスだよん。よろしくね、お二人さん」

 候補の二人はどちらに合わせたものか判断が付かず、とりあえず「よろしくお願いします」と頭を下げる。

「芸術教育と聞いて、あなたたちも困惑している事でしょうが――」

 シシームの言葉に、ヒバリとディオの二人は思わず真面目な顔で頷いた。

 学習では知識を、護身術では剣や魔法を。芸術の教育と言われても、彼女たちにピンとくるものはない。シシームは言葉を続ける。

「芸事……音楽や絵画は、私達の命に直結するものではありません。食べる事や眠る事の様に、必ずしも必要なものでもないし、剣や魔法のように身を守ってくれる事も無い。……私は、芸術という分野は『愛』を教えてくれるものだと思っています」

「愛……?」

 問い返したヒバリに、シシームはやはり、美しい笑みを見せて「はい」と言って続けた。

「そうですね――音楽で例えた方が、分かりやすいでしょうか。……貴女方は、音楽というものが何から出来ているか、ご存じでしょうか?」

 問いかけに、二人の女王候補はきょとんとして、視線を交わした。音楽が何から出来ているのかなんて、答えは決まっている。

「楽器とか、歌声とか……」

 二人が知っている『音楽』は、村の祭りでしか主に奏でられる事は無い。

 村で限られた者しか練習する事の無い弦の楽器で爪弾かれ、太鼓のリズムに合わせてみんなが手を打ち思い思いに歌い騒いだ。懐かしい、温かい記憶だ。 

 ふと、ジェレミアの声が「いいねぇ」と言った。

「――あっ、ごめんなさい」

 意識がもはや遠い日の記憶に飛んでいた候補の二人は、ジェレミアの声にはっとする。ヒバリは思わず謝罪を口にしたが、ジェレミアはくつくつと笑って続けた。

「それ。今、アンタ達が感じたものだよ。それが『愛』だ」

 言われるが、難しい。候補の二人は首を傾げる。

『愛』という言葉の意味する所は分かるが、懐かしい故郷での記憶にそれを感じて当然だ。女王候補が言葉の意味を分かりかねていると、シシームの精美な声がした。

「曲を聴いた時、ほとんどの人はそれを聴いた時の思い出と紐付いているものです。その音楽をどこで、誰と聴いたのか……。その時に何を思ったか……」

 彼の言わんとする事が、ヒバリには分かった気がした。何気なく『そういうものだ』と思って聴いていたものが、こう思い返してみると酷く懐かしく、美しい。ディオはまだしっくりこないらしく、首を傾げている。

 シシームの言葉を継いで、ジェレミアは続けた。

「音楽や絵画を学ぶ事は、その『愛』の居場所を増やしてやることさ。それに触れる事で、アンタ達は楽しいだったり、悲しいだったり、時には、苛立たしいっていう感情を覚える事だって、あるかもしれない。……でもそれだって、全部突き詰めると『愛』だからね」

「……色々なものに触れて、『思い出』を増やしていく、と言えば分かりやすいでしょうか」

 シシームの優しい口添えでやっとしっくりきたのか、ディオはパッと顔を明るくした。彼の説明にヒバリも瞳を輝かせる。

 家族と笑い合った日々。仲間達と獲物を追い回した、緑あふれる森の中。二人で散歩に出かけた川辺で聞いた、小鳥のさえずり。

 懐かしいそれらは全て、もう遠く離れたものだと思っていた。けど、違う。こんなに身近に、自分たちの心の中に、愛の寄り添う場所に仕舞ってあっただけなのだ。

 何だか、急に胸が一杯になる。少女達は潤んだ瞳で顔を見合わせて、照れくさく笑った。

 二人の少女の様子を見て、騎士団長達も微笑む。まだ、ほんの少女達。そして宮殿に上がってたったの三日なのだ。これまで気を張り通しで、故郷を懐かしむ暇も無かったのだろう。

 シシームが、涙を堪える少女達に変わらない声音で話しかけた。

「あなた達が気に入るかどうか分かりませんが、私の一番の気に入りの絵画を見てくれませんか?」

 それはサンルームの中で、唯一光が届かない場所に飾られていた。ジェレミアは彼の意を汲んで壁から額を外して、女王候補達の前に持ってくる。

 森の中に流れる川の絵だった。木立から抜ける光がキラキラと反射して、まるでそこに存在するかの様に精緻だ。一羽のカワセミが水浴びをする、輝くしぶきまでが肌に感じられる様で、懐かしい記憶に似た景色が、二人の女王候補の瞳を釘付けにした。



 芸術の教育はこれまでの二つの教育とまるで違い、ただ見る事と感じる事に終始した時間だった。

 最初に、芸術作品と呼ばれるものにはどのような分類があるかがおおまかに説明され、その後は自由に宮廷内の絵を見たり、初めてピアノに触って音を出したり。

 シシームも得意とするリュートを持ってきてくれて、彼の演奏に合わせて突然ジェレミアが踊り始めた。リズムに釣られて体を小さく揺らしていたヒバリが、彼に手を取られる。

「マイルス様! 私、ダンスなんて……」

『宮廷に似つかわしい踊り』など分からない、と続けるのに声を上げたヒバリだったが、ジェレミアの楽しそうな声がそれを許さなかった。

「いいの、いいの! 感じたまま自由に踊っちゃえば! 社交の場じゃないんだ。芸術はアンタの心で感じるものなんだよ!」

 そう言って、見たことも無いステップを踏む彼は、とても美しかった。背中を押されて、ヒバリもその複雑なステップを見よう見まねで踊ってみる。

「おっ、なかなかやるじゃないか!」

 ステップが成功し、隣のジェレミアがそう讃え、ディオは思わず声を上げて手を打った。リュートを弾き続けるシシームも、楽しそうに微笑んでいる。

 楽しい。こんなに楽しく踊ったのなんて、子供の頃以来だった。


 ☆


「あんなに楽しいと思わなかったけど……疲れたね……」

 本日の教育を終えた女王候補達は、帰路の馬車に揺られながら先ほどの芸術教育の事を振り返っていた。はしゃぎすぎてしまったヒバリは、すでにヘロヘロと背もたれに体を力なく預けている。同乗しているユフィーがその姿勢の悪さを注意したくとも、主の顔色はそれを憚らせた。

 離宮に到着したのは時、晩餐までにはまだ少し時間があった。ディオ達と別れて、ユフィーと一緒に自室に帰ったヒバリは、もう少しでベッドに倒れ込んでしまう所だった。

「ヒバリ様、一息入れませんか? お茶をお淹れいたします」

「する! 一息入れるぅ!」

 間髪入れずに返ってきた主の答えに、ユフィーはくすりと微笑んだ。準備に取りかかろうとした彼女だったが、ヒバリは何かを言いたそうにもじもじとしている。

 向き直り、話を聞く姿勢を取ると、その意見を恐る恐る、いじらしいほど小さな声で教えてくれた。

「……バルコニーで飲んでもいい?」

 確かに今日は外を楽しまないのがもったいないくらいの晴天である。日が傾き駆けているとはいえ、青い空はまだ見えていた。

 初めて聞いた主のわがままを嬉しく思いつつも、ユフィーは少し、考える仕草をして見せた。本当は二つ返事で了解するつもりなのだが、その可愛らしい顔をちょっとだけ、からかってみたくなったのだ。

「うーん、それはちょっと……」

 わざとらしい声で言ってみると、思った通り目に見えてシュンと落ち込むのが愛おしい。こんな主に仕えられて、自分は本当に幸せ者だ、と思う。

「なぁんて。フフフ、畏まりました。もうじき日も落ちますので、冷やさない様にこちらを」

 言いながらユフィーは、ヒバリの肩にごく軽い織物を羽織らせた。

 出会ってまだ幾分も経っていない間柄。なのに軽口を叩いて、時に優しく姉のように叱ってくれるこの侍従の事が、ヒバリは大好きになっていた。


 バルコニーに出たヒバリは、夕暮れに染まりゆく空を眺めながら、ユフィーとのんびりお茶を飲む。ユフィーは困り顔で唇に指を立てながら、「この事は内緒にしておいて下さいませね。未来の女王様と同じ席でお茶を飲むだなんて、本来侍従としてあってはならない事なんですから」と言った。

 そんな困り顔の彼女に、ヒバリが得意げに言い含める。

「私から誘ったんだから、あっていいことなのよ、これは」

 和やかにお茶をしていると、突然、バルコニーに近く、庭園の木の枝で何かが動いた気がした。

 ――一昨日の夜に、エドワルド・オズモンドがいた場所――彼のはずがないと分かっている筈なのに、ヒバリはギクリと身を強ばらせる。

 しかし、ガサガサと木の葉をかき分けて顔を出したのは、第四騎士団長、リヒト・カタルーシアだった。

「よう」

「――カタルーシア様」

 ほっと息を吐きつつも、想像が裏切られてどこか残念なような、複雑な思いのヒバリとは違い、ユフィーは想像もしなかった事態に音を立てて立ち上がった。

 肩を怒らせて、バルコニーの手すりから身を乗り出して白亜の髪に近づく。その気迫に、リヒトも戦いて思わず身を引いた。

「カタルーシア様! どこから入り込まれたのです!? 女性の――しかも年若い女王候補様の寝所に忍び込む様な、なんという真似を――」

「おいおいおいおい、その言い方は大げさすぎるだろ」

「何が大げさなものですか! エリューシオが誇る高位騎士のお一人さまともあろう方が、淑女の居室に無断で入るなどという狼藉、目に余るものがあります!」

 頼れる姉の様な優しい侍女の猛々しい一面に、ヒバリは面食らっている。騎士団長を責め立てる言葉は止む気配が無く、それを一人受け止めるリヒトもたじたじとした様子であった。

 ややあって、ヒバリからおずおずと声をかける。

「ゆ、ユフィー……大丈夫よ。カタルーシア様も、そんなつもりじゃないんだから……」

 主の声に振り向いたユフィーが、「もう、ヒバリ様はお優しすぎます!」と、不承不承手すりから離れた。怒濤の責め句から解放されたリヒトがほっと息を吐く。

 気を取り直して、ヒバリからリヒトに訊いた。

「カタルーシア様、今日はそんなところから、どうしたんですか? ――あ、お茶、一緒にどうですか?」

 主人の言葉に耳を疑ったユフィーだったが、リヒトは嬉しそうな顔を見せて、「お。気が利くじゃねぇか。じゃあ、馳走になってやんよ」と小生意気な返答をした。

 リヒトの返事にまた眉をつり上げたユフィーだったが、彼の分のカップを用意しようと席を立ちかけた主を制して、部屋の中に戻っていった。

 ほどなくして新しいカップを持って戻ってきたユフィーが、リヒトに茶を注ぐ。彼は太い木の枝に腰掛けたまま、「悪いな」と少しも悪びれずにカップを受け取った。

 そんな彼の全てに憎悪を滲ませた顔をするユフィーを見ないようにして、ヒバリはリヒトに喋りかける。触らぬ女神に祟りなし、とは今の彼女の事だろうか。

「で、どうしたんですか、今日は?」

 ヒバリの問いかけに、リヒトは音を立てて茶を啜った。彼を見るユフィーの視線が、汚物でも見るような酷いものになる。

 彼は侍女の様子など気にも留めず、カップを持つ手で器用にヒバリを指さした。

「なぁに、もう一人はどんなやつだろうってな、見に来たんだよ」

「?」

 首を傾げるヒバリだったが、リヒトはまた茶を啜って続けた。

「グランディエは謁見の前に会ったが、随分景気のいいやつだったんでな。その相方はどんな奴か見に来ただけだ。――うちには噂好きな騎士がいるんだ。奴らに、筋骨隆々の女傑が来たなんて噂話を流される前に、確かめに来た」

 純粋に顔を見に来た、と言いたいのだろうか。礼を言ったものだかどうかヒバリが迷っていると、ユフィーがまた気炎を巻いた。

「ならばきちんと手順を踏んで、正面から来るべきではありませんか!? 何を泥棒の様にこそこそと木登りなどなさって……」

「――ン! お茶、ごっそさん! じゃあな!」

 また長々と小言を続けられる前に、リヒトは残ったお茶を一息に飲み干してカップを手すりの上に置くと、「よっ」という声と共に地面に飛び降りた。

 慣れた様子で着地して振り返らずに一目散に駆けていく彼を、また手すりから身を乗り出したユフィーの声が追い立てる。

「あ、待ちなさい、この非常識騎士! フランチェスカ様に言いつけますからねー!!」

 短かったが賑やかな時間にフフッ、と声を出して微笑んで、ヒバリはまたこくりと紅茶を味わった。

 少し、風が出てきていた。

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