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夢のような一日から長い一夜が明け、女王候補としての初日は第六騎士団長、アイゼル・ポスチアと、第九騎士団長、ノルディス・クラウディアの学習教育から始まった。
初めての事づくしの朝を過ごし、すでに離宮内の時点で少し疲労の色を見せた女王候補の二人は、事前に伝えられていた時間通りに迎えに来た馬車に揺られて宮殿へと入った。
指定された宮殿内の図書館に赴くと、そこは円形の高い天井がどこまでも続いている空間だった。上を見ると、目が回るばかりできりが無い。
難しそうな書籍ばかりが並んでいる本棚が、室内のほとんどの壁を天井まで埋め尽くしている。あんなに高い所にある本、どうやって取るんだろう? というヒバリの疑問は、所々に立てかけてある長いはしごが答えてくれた。
一部分だけ棚の無い空間があり、そこにはセピア色の大きな球体を三日月が支えている様な形の、美しい置物がある。そしてそちらを向く様に、品のいい机が二台並べて設置されていた。
机の近くで女王候補を待ち構えていた二人の騎士は謁見の時と変わらず、優しそうな印象で自己紹介をした。
「こんにちは、ヒバリにディオ。今日から学習教育を担当するアイゼル・ポスチアといいます。第六騎士団をとりまとめています」
アイゼルの、曇りの無い片眼鏡の奥の瞳がにこりと笑った。続いて隣の少年騎士が元気良く頭を下げた。
「第九騎士団長、ノルディス・クラウディアです、よろしくお願いします!」
「よ、よよ、よろしくお願いいたします」
ガチガチなヒバリに続いて、ディオも不格好に頭を下げる。そんな女王候補達に、教育係の二人は柔和な笑顔を見せた。
「そんなに身構えないでも大丈夫ですよ」
「どうぞ。こっちに座って」
ノルディスに席を示され、女王候補達はそれぞれ、並べて置いてある学習用の机に着席する。
身構えないで、と言われても無理な話だった。慣れない寝具は二人の女王候補の体をすでにカチカチに凝り固まらせてしまっていて、寝覚めに「おはようございます」と声をかけられるのも、ベッド脇に用意されるたらいの水で顔をすすぐのも、全てが初めての体験だった。ちゃんと眠ったはずなのに、何だか昨日からずっと起きてる気さえする。朝食の際、それぞれの侍女から「本日のご予定ですが……」と予定を報されるのも、そちらを聞くのに神経を使いすぎて、食べ物の味なんてさっぱり何も分からなかった。
何とか着席した学習机にさえ畏まってしまい、二人の肩はキュッと上がっている。
村での教育といえば、村の物知りジジに簡単な読み書きを教わる程度のもので、こんな立派な机と椅子に座って勉強する世界があるなんて、考えてみたことも無い。
「今日は初日ですからね。まずはこの国についての知識を深めていきましょう」
アイゼルが優しく言うと、二人の生徒は堅くなりながらも素直に首肯した。アイゼルとノルディスは顔を合わせて微笑みあう。
「――では、まずこのエリューシオと周辺国家についてのお話からしましょうね。分からない事があれば、いつでも質問をしてください」
アイゼルが二人の女王候補に言っている間に、ノルディスが大きな黒板を持ってきた。使い古した紙が貼られている。
いつの間にか指示棒を手にしていたアイゼルは、紙の中央よりやや右下の位置に描かれた宮殿を指した。
「こちらの絵図が、この周辺の地図になります。女王陛下がおわします、私たちが今現在いる宮殿があるのが、ここです。――で、あなた達二人の故郷の村が……」
彼は少し紙面を探して、やがて上部分に引かれている二重線のすぐ下、森にほど近い小さなテントの絵を指した。ヴィゼアーダ。「ここですね」
なんだかすごく遠くに来たと思っていたが、紙面で見ると思ったよりも遠くは無い。ヒバリは思った感想をそのまま口にする。
「えっ、こんなに近いんですか!?」
するとノルディスが教えるというより、友達に説明する様に喋り始めた。
「えっと……地図には縮尺というものが使われて描かれているから、実際はあなた達の体感している距離で間違っていないはずだよ。地図を見た事はある?」
ディオは地図を見つめてぽかんと口を開けていたが、ヒバリはしげしげと興味深そうに地図を眺めて、首を振る。
疑問や感想を思ったままにしない授業態度に、アイゼルは満足そうに頷いた。もう一人にも、これから教える時間はたっぷりとある。
「これはあくまで、周辺の地図です。世界にはまだまだ大地が広がっており、たくさんの国家があり、そこでたくさんの人民が生活をしています」
「ここ以外にも、たくさんですか!?」
「ええ、いきなり広い世界について説明しても混乱するでしょうから、まずはこの国と周辺国家について学びましょう。特に――」
言ってアイゼルは、森を挟んでエリューシオとちょうど対面の様な位置にある城を指さした。
「二月後に控えた夜会には、すでに隣国のヴィクトリスから参加の返事が届いています。周辺の距離では一番近い友好国になりますので、失礼の無いよう、しっかりと学びましょう」
「はい」と答えて、ヒバリは居住まいをしっかり正した。ディオには少し混乱が見える。アイゼルはゆっくりと、エリューシオ王国の興りから授業を始めた。
エリューシオの歴史は、コレッティア大陸に伝わっている古の国が神の怒りを買って滅びた所から始まる。
その国は大地を切り裂き、海を汚し、空気を灰色に染めた。女神は滅びた大陸に命の水を注ぎ、大陸に新たな命が芽吹いた。
それから百年が経ち、海を渡ってきた人々によりコレッティア大陸に様々な国が生まれた。
女神は人間達がまた過ちを犯さぬ様、大陸に降り立ち人間達を治める事を決めた。これが、エリューシオ王国の始まりである。
「それって、いいんでしょうか……?」
ヒバリが青ざめて発言した。アイゼルとシシームが質問の意図を分かりかね、ディオでさえ首を傾げる。
「つ、つまり、この国の女王様はその、古の女神様の血を引いているって事、ですよね……?」
それは、ヒバリかディオのどちらかが女王の座に着く事になれば、古の女神の血が絶える、という事を意味している。
分かりかけてきた重大な事実にヒバリが震えていると、アイゼルは彼女の不安を消そうとするかのように微笑んだ。
「……アンジュ女王は、ご自身に流れるその血よりも、良き王によりこの国が平穏に続くことを望まれております」
重圧を感じているのか、それでもまだ不安を隠しきれないヒバリの肩に、ノルディスのの細い指が触れる。
「大丈夫だよ。僕達、騎士がついてる」
「……」
ノルディスの柔らかい笑顔がヒバリの心を解かした様に、彼女は弱々しく微笑み返した。ディオはまだそのやりとりの意味する所を図りかねて、首を捻っている。
ヒバリの不安をとりあえずは無くせた様で、アイゼルがほっとして講義に戻る。「……さて、次へ行きますよ」
ノルディスが黒板の地図を剥がして丸めていく。その下にはあらかじめ、文字が書き付けてあった。一直線に揃った、品性を感じさせる文字だ。
「エリューシオには大臣を置かず、騎士がその働きを担っています。各騎士団の団長は、高位騎士と呼ばれ、女王の警護、国の治安維持、採択会議への出席、等々、職務は多岐にわたります。高位騎士全員の顔は、昨日の謁見で確認したかと」
二人の女王候補が頷いたので、二人の教育係は満足げに微笑んだ。
「高位騎士は九人おり、各団ごとに特徴が異なります。私のまとめている第六騎士団は、九つの騎士団の中で一番勉学に秀でています。騎士、というには頼りないかもしれませんが」
そう言うとアイゼルは自嘲気味に微笑んだ。
「僕が団長を務める第九騎士団は――」地図を片付けたノルディスが言う。
「騎士って言うより、救護班、みたいな立ち位置かな。団にいるのは全員、癒やしの魔法や医療の心得がある騎士で、基本的に集まっての行動はしないんだ。団の中で数人の隊を編成して、各騎士団の演習や出征なんかに付いていくんだよ」
それを始めとして、各騎士団の特色が説明されていく。黒板に書き付けてある文字を逐一示しながら、主にアイゼルが説明を続けた。
第一騎士団はその名に相応しく、王国一の戦闘力を誇る。団長はマイクロフト・フランチェスカ。
自他共に厳しく規律を重んじる、王国最強の剣の使い手である。エリューシオ王国において第一騎士団に入団できるという事は、最高の名誉だと言っても良い。
第二騎士団は全員魔法力を保有し、その長は王国最強の魔法使いとされる。団長はレイドック・ヒューゴ。
つかみ所の無い男だが、その魔法の才覚は女王のお墨付きだという。
第三騎士団は第一騎士団に次ぐ剣の使い手が多い。団長はエドワルド・オズモンド。
公務に真面目な男だが、飄々としている所もあり、団員からも「女泣かせ」とささやかれている。
そう説明を受けるヒバリは、昨夜の偶然の逢瀬を思い出して顔を赤くした。
第四騎士団は団長、リヒト・カタルーシア。機工騎士団と揶揄される由縁は、団員のほとんどが機械いじりや細かい作業に秀でている事からとされる。
リヒトが団長に就任した頃、彼は王宮内で最も厳重に管理されている宝物庫の鍵を、非合法な手段で悪戯に解錠することに成功した。
以来宝物庫の鍵は、レイドックの魔法で封印と解錠がされる様になったという。もちろんリヒトは大目玉を食らった。
第五騎士団は天駆ける騎士団と呼ばれ、天馬やグリフィンなどの有翼騎乗動物を従える事が出来る。
有翼騎乗動物は本人の努力で乗りこなせる様なものではなく、動物が騎手を選ぶと言われており、天性の物が必要とされるその条件から、第五騎士団は九つの騎士団では一番人数が少ない。
団長はウィリアム・オルガ。爽やかな好青年で、士官学校ではリヒトと同級であった。
第七騎士団は楽器の才に秀でた者が多く在籍し、パレードや王宮での演奏も任される。
団長のシシーム・リュカは王国随一のリュートの名手で、彼の爪弾く音色に魅了されたファンはもはや国内だけに留まらず、外国にも多くいるそうだ。
第八騎士団は情報収集に秀でた一団であり、有事をいち早く察する機敏な動きが求められる。
主な任務は隠密行動や国内の諜報活動であり、騎士団の中で唯一闇夜に紛れる黒い団服を着用するが、団長のジェレミア・マイルスだけはいつもまるで忍ぶ気のない孔雀のような出で立ちをしている。
「――とまぁ、一通り説明しましたが、高位騎士達についてはこれから教育で関わっていく上で少しずつ分かってくるでしょうし、今の説明は頭の片隅にでも置いておいて下さい。――さて」
そこで説明を終えたアイゼルがひとつ、ポン、と手を打った。
それを合図にして、ノルディスが二枚の紙を女王候補達の前に置いていく。二人はそれを取り上げ、訝しい面持ちで見つめた。アイゼルがこの上なく楽しそうな顔を見せる。
「貴女達の読み・書き・計算能力を試すために、簡単なテストを作りました。私が『止め』と言うまで、頑張って解いてみてください」
「え」
途端にディオの顔が青ざめた。隣のヒバリが、心配そうにこちらを覗ってくるのを感じる。
村では物知りジジに簡単な読み書きを教わったが、計算からはなんだかんだと理由を付けて逃げていた。
そもそも計算は村の大人でも大半が苦手としている分野であるため、機会があるごとに生真面目に教わっていたヒバリはともかく、ディオの計算能力は村の同年代の中でも極めて低い。
不安そうな顔色でヒバリを見たディオの様子にアイゼルが気づき、にこやかに告げた。
「お互いに助けを求めるのはダメですよ。それではテストになりませんから」
考えている事を見透かされて、ディオがびくりと肩を震わせる。
「だって、全然分からないし……」
学力が乏しいと自覚している彼女は、そう呟きながら少し顔を赤らめた。ノルディスが「心配する事じゃないよ」と声をかける。
「あなた達の学力を、ポスチア様がちゃんと知るためのテストなんだ。何も不安に思う必要はないよ」
その言葉に「ええ」とアイゼルが首肯する。
「このテストを元に、今後の貴女達への指導内容を決めたいと思っています。何も分からなければ、それも一つの結果です。貴女達に適した教育を施すための、言わば腕試しの様なものですね」
釈然としない面持ちで、ディオは唇を尖らせている。その悪童じみた顔にリヒトに似た面影を見つけて、アイゼルは微笑んだ。
「では、始めて下さい」
号令で一斉に、女王候補達は紙面にペンを走らせ始めた。ディオの、名前を書いているその一字一字確かめる様なペン裁きは、教育係の二人を少しだけ不安にさせるのだった……。
☆
昼食を済ませ、日が高く差し掛かった午後、女王候補の二人は軽装備を身に纏い、王都郊外の小さな演習場に来ていた。
午後はマイクロフト・フランチェスカ第一騎士団長とレイドック・ヒューゴ第二騎士団長による、護身術教育だ。
慣れない胴着は少々重く、ディオは二人の騎士団長を前にしているにも関わらず、窮屈そうに肩を回した。
女王候補の二人が出身するヴィゼアーダ村の生活は主に狩猟で賄われていたが、女子供は植物や水の調達、男性は主に肉の調達と、昔から担当が決められていた。
ヒバリは村の女性たちと一緒に植物採取をしていたが、ディオは戦士としての腕を認められ、専ら男性たちと一緒に動物や魚を採っていた。その時の装備と言えば、獲物を入れる袋と短剣くらいだ。動きを鈍らせる防具類はほとんど身に着けなかった。
女王にもなれば高位騎士に守られる立場となるが、やはり如何なる事をも想定しての備えは必要らしい。未来の女王たる者は、騎士達による護身術教育を受けるのが慣例となっている。
「二人の護身術教育を担当する、マイクロフト・フランチェスカだ。よろしく頼む」
端的に言った第一騎士団長・マイクロフトの緩みの無い表情に圧倒されて、二人の女王候補はおずおずと頭を下げた。午前中の優しい教師達から打って変わって、彼の表情はこの時間がやはり生やさしいものではない事をまざまざと感じさせた。
続いて彼の隣で、銀の髪と浅黒い肌を持った第二騎士団長・レイドックが不愛想に言った。
「……レイドック・ヒューゴだ。魔法教育を担当する」
彼の様子に二人の女王候補は戸惑い気味に頭を下げる。ヒバリは不安そうに、胸の上で手を組んだ。
この国では稀に、精神的なエネルギーを具現化する事の出来る者が生まれる。
その力は「魔法」と呼ばれ、エリューシオ王国宮廷騎士団の第二騎士団長は代々最も強い魔法力を有する者と決められている……のだが。
「何故、私たちが魔法教育を受けないといけないんですか?」
ディオの質問に、レイドックの眉が不愉快そうに歪んだ。それを見て取って、ヒバリが慌てて親友の言葉を補う。
「えっと、あの……私たちは今までで一度も、『魔法』を使ったことはないんです。それなのに、何故――」
「陛下は、君達には素養があると考えられている」
有無を言わせない口調のレイドックがヒバリの言葉を遮った。
「素養なんて……」と不安げに目を見交わす女王候補達を前にして、レイドックはマイクロフトを振り向く。銀の髪が陽光にきらめいた。
「フランチェスカ。少々予定とは異なるが、先に魔法教育を始める事とする。いいな」
淡々として物を言うレイドックに、マイクロフトは眉をしかめる。
「勝手を言うな、ヒューゴ! 事前の打ち合わせの段階で、護身術が先だと決めたはず」
「『魔法』と呼ばれる力を持っていない貴様には分からんだろうが――」レイドックは頑なな口調に、ほんの少しの嘲りの様な色を加えた。
「この力を使う上で最も必要な事は、精神統一だ。精神の鍛練に直結するのは、集中力。故に、護身術を教えるにあたっても無闇な怪我等をするリスクを抑える事が出来る、と考えた上での事だが」
マイクロフトは何事か言いたげに口を開いたが、少しの逡巡の後、真一文字に結んばれた。反論はあったが、これ以上言葉を交わすのも不愉快だと、顰められたままの眉が物語っている。代わりに一言、彼は言った。
「……勝手にしろ」
返答を聞いて、レイドックはマイクロフトに嘲るような笑みを一瞬だけ見せて、女王候補達に向き直る。マイクロフトは煮えくりかえる腸を何とか抑えて、数歩下がって控えた。
「では、まずは君達が、どの様な魔法力を持っているのかを見せてもらわねばならん」
「見せるって言っても……」
見せたくても、そもそも見せるべき力を持っていないのでは見せようが無い。
どうすれば良いのか分からずに困り顔をする女王候補達に、レイドックは呆れた色を隠しもしなかった。
「……君達がどのような物を『魔法』として想像しているのかは知らんが、『魔法』と呼ばれる力にこれといった定義は無い。一応の事『精神的エネルギーが具現化した物』という解釈がついてはいるが、それが確かに『術者の精神的エネルギーである』という根拠はどこにも無い。乱暴に言えば、『その力の出所が言葉で説明できず、自分以外でその芸当をできるものが皆無、もしくはごく少数である不可思議としか言いようのない力』が魔法であるという認識で良い」
この説明を聞いて、女王候補の二人が顔色が変わる。互いに目を交わした彼女達に、レイドックは訊いた。
「……心当たりがあるな?」
「……『魔法』、と呼べるのかはわかりませんが」
そう前置いたヒバリは、足元の芝生に手を伸ばす。
彼女がそのまま少し呼吸を整える様にすると、彼女の体が薄く燐光を発しはじめた。
風も無い晴天。だというのに、彼女の金色の髪が、内なる力に柔らかく波打つ。やがて、その手が触れた部分の芝生が少しづつ伸び始めた。
「――ほう。草木を操る力、か」
一部分だけ妙に伸びてしまった芝生から手を離して、ヒバリは立ち上がった。じんわりと疲労の色が見える。
「村では、これを『花の力』と呼んでいました」
レイドックが頷き、今度はディオを見る。彼女は少し迷う様子を見せたが、レイドックの厳しい眼差しに観念して答えた。
「私のは、出来る時と出来ない時があって……」
「条件下での発動という事だな。どんな時に?」
「大体、狩りの時……かなぁ」
ディオが記憶を遡ってそう言うが早いか、レイドックが素早く抜いた白刃が目の前に迫った。彼女が反射的に両腕で防御の形をとった瞬間、無数の小さな光の粒がそこに現れる。
ガキィッ、と金属が刃を受け止めた様な音を立てた。レイドックはディオの両腕に纏われた力をじっと見つめる。
「……粒子光を操る力か」
白刃越しに、ディオがレイドックを挑戦的に睨み返した。
「村ではこれを、『星の力』と呼んでいました」
ディオは力任せにレイドックの剣を弾き返し、後ろに飛び退って距離を取った。構え直した瞬間に、腕に纏っていた星の力が消える。
対するレイドックは、無言で剣を納めた。何も言わずにディオを睨みつけるその目は冷ややかだ。
「精神力制御に問題があるな。今まで狩りの時にしか発動しなかったのは、恐らく君の集中力の問題だ。鍛錬を重ねればグラスレッドの様に、使いたい時に発動する事が出来る様になる筈」
そして、厳しいとも言える表情で、彼女を見た。
「意識的に使う事ができない――つまりそれは、無意識でしか使うことが出来ないと言うこと。汚物を垂れ流す赤子と変わらん。――対して、グラスレッドだが、制御と発動には問題は無いが、まだ力が弱い。その力を生かすも殺すも、君の鍛錬次第だ」
酷い言いように評された不快感を隠さないディオがヒバリの隣に並び直すと、レイドックは二人の生徒に言い渡した。
「強い精神は強い肉体に宿る。本日は三十分の走り込みの後、十分間の瞑想、二十分間の発現訓練を行う」
「発現訓練?」ディオが聞き返すと、レイドックは冷ややかな視線で答えた。
「魔法力を操る訓練だ。力を発現させたい時にできるようにする、君向けの訓練だな」
「……胴着は着用したまま、ですか?」おずおずとヒバリが聞くと即答が返ってきた。「そうだ。それくらいの重さを着けていた方が、体力の無い君にちょうど良いだろう。――まずはこの演習場を周回すれば良い。行きたまえ」
レイドックが有無を言わせないあの口調で言ったので、候補二人は緑の演習場を柵に沿って走るしかないのだった。
☆
「――ではまず、剣の構え方からだ。これを」
魔法教育の後、五分間の休憩を取り、すぐに護身術教育が始まった。
ディオほど体力の無いヒバリは見るからに疲弊しており、ヒバリほど集中力の無いディオは発現訓練のお陰で軽く放心している。
第一騎士団長、マイクロフト・フランチェスカが差し出した剣を受け取り、女王候補の二人はしげしげと眺めた。
「模擬剣だ。君たちに与えられる武器と寸分違わぬ長さ。重さは……少し重いかもしれないが……」
騎士の扱う剣はその特徴として、刀身が長く、両刃である。
二人に与えられたものはその半分の長さのの物だ。騎士剣の細い刀身が片手で扱うのに適しているのに対して、渡された剣は幅広で短い刀身のために、剣の扱いの基本を学ぶのにうってつけだという。
「構えは、こうだ」マイクロフトが自分用に持ってきた模擬剣を構えて見せた。やや腰を落とし、重心を下に。両手でしっかりと柄を握り、体の正中線に構える。
「今日はこの構えを崩さず、基本の素振りを行う」
ディオは息を整え気合いを入れ直し、ゆっくりとした動きで見本の通りに剣を構えた。対してヒバリは……。
「――うっ……あれ……」
少々苦戦している。
もともと剣に不慣れな上に、ディオほどには力も無い。やっと空中に上がった切っ先が、プルプル震えていた。
「よいっ、しょ……とと、」
刀身が左右へ大きく揺れた。腰をやや落とそうと重心を移動させる、と――。
「きゃあっ!!」剣の重さに引っ張られて前へと派手に転んでしまった。
ディオが慌てて剣を下ろして駆け寄り、マイクロフトはその構えを解いた。
「グラスレッドにはまず筋力が必要だな……。訓練用であるから、本物よりは少し重く出来てはいるが、そこまで耐えられない者は初めて見た」
マイクロフトの言葉に、地に手をついたままのヒバリの顔が赤くなる。ディオがキッと彼を見上げた。
「ヒバリは剣に触れた事が無いから、当たり前です」
村で女子供の扱う刃物と言えば、調理時の包丁か薬草採りの時の鉈だ。基本的に村では女性が剣を取る事は無い。
夜な夜な家族に隠れて短剣を振るった記憶が脳に蘇り、ヒバリは羞恥のあまり顔を隠す。あんなことに、意味なんて無かったのだ、と。
その様子に、涙が零れたのだと錯覚したディオはゆっくりと立ち上がりながら、マイクロフトを睨み付けた。彼はその瞳に口の端を上げる。
「……グランディエは剣の扱いに慣れている様だが」
「短剣だけど、狩りにはよく使ってましたので」
マイクロフトの言葉にディオがやや挑戦的に答えた。彼はその反発を受け止める。
「なら、力試しとするか」
候補二人から少し距離を取り、マイクロフトはヒバリが取り落とした重さの剣を軽々と片手で構える。ディオはヒバリが立ち上がるのを助けてから、自分の後ろに下がらせた。
「……」
目の前の騎士の気迫に息を飲んだが、深呼吸の後ゆっくりと腰を落とし、正中線に剣を構えた。
それまで黙って後ろで見守っていたレイドックが、「……では私が見届けよう」と無機質に言った。「――始め」
「さあ、来い」
二対の剣越しに、マイクロフトが言う。
曲がりなりにもエリューシオ王国騎士団の第一騎士団長その人から、国内最強の一族の出とはいえ女性相手に剣を振るう事は、彼の矜持が許さない。マイクロフトはディオの出方を待った。
「……じゃあ、行きます」
ディオは言うが早いか、ひと息に騎士団長の懐へ詰め寄った。あまりの速さにマイクロフトは瞠目する。
――速いな。
速いが、追いつけない程ではない。乱暴に薙ぐ様な攻撃を、マイクロフトはたやすく防いだ。
その場で何度か打ち合う。ディオの攻撃はどれもこれも直線的で、その全てをマイクロフトは見切って受け止めた。
「くっ……」
ディオの口から、思わず息が漏れる。次の瞬間、マイクロフトがその膂力でディオの剣を弾いた。弾かれた剣が彼女の手を離れて空高く舞い上がり、弧を描いて地に落ちる。衝撃で彼女の体が大きく後退した。
「わっ……とぉ!?」
生まれた隙を逃さずにマイクロフトが剣を持ち替えて放った鋭い一閃を、ディオは左下側に滑り込む事で何とか避ける。そのまま転がるように距離を取り、両手を胸の前で構えて立ち上がった。
「避けたか。しかし、もはや武器は無いぞ。どうする?」
こちらに構え直して訊くマイクロフトに、ディオは笑んで答えた。
「手足がありゃあ十分ですよ!」
ディオの昂ぶりに応えた様に、光の粒が発生し始めた。腕だけではない。彼女の体全体を輝かせようとしているかの様に、周囲を規則的な速度で舞っている。
その答えと彼女の姿に、マイクロフトは再び薄く笑った。
「……これは、とんだ暴れ馬だな」
ディオが舞うようなステップで、蝶の様に軽やかに、しかし俊敏な動きで距離を詰める。
経験には無い自由な程の躍動に、マイクロフトが握る剣にも知らず力がこもる。
次の瞬間、ディオが放った粒子光を纏った拳を、マイクロフトの振るった剣が弾いた。その重さに、ディオは大きく後ろにたたらを踏み、そして尻餅をついた。すぐさま立ち上がろうとした彼女だったが、すでに首元にはマイクロフトの切っ先が向けられている。
二人の勝負を見守っていたレイドックが、陰気な声で呟いた。「……勝負あったな」
ディオは大の字になってパタリと倒れ込む。まるで、全力で楽しく遊んだ子供の様に笑う彼女の周囲から、粒子光が消えていった。
「ははは……」
マイクロフトは、剣を下げる。
「確かに強いが、力の使い方がなっていない。騎士は国民を守るのがその領分だ。攻撃と防御、双方の力の配分をより考えて――」
言い切らずに、はっとして口を噤む。――彼女は女王候補。いずれ未来の女王になるかもしれないのに、何を、新任の騎士にする様な助言を……。
彼が差し出した手を取って、ディオは立ち上がる。息を整えると、第一騎士団長の目をしかと見据えた。
「戦えない者を守るのが戦士です。これからも、よろしくお願いします」
その言葉に目を丸くしたのは、マイクロフトばかりではない。少し離れて二人を見守っていたレイドックやヒバリでさえも、呆気にとられている。
決して冗談で言っているそぶりはなく、ディオの両の眼は真っ直ぐとマイクロフト・フランチェスカを見つめていた。真っ直ぐなその視線に、彼はかすかに微笑んだ。
「将来的に、君は守られる立場になるかもしれないが……その意気があれば、さぞ頼もしい女王になりそうだな」
☆
「――はあっ、疲れた……!」
夜、自室に戻ったヒバリはそう呟くとベッドにどっと倒れ込んだ。侍女が熱いココアを一杯運んでくる。
「お疲れ様でございました、ヒバリ様。お夕食前の一杯はいかがですか」
ココアと聞いてヒバリはさっと起き上がると、ベッドに腰掛けたまま、ありがとうと礼を一つ言ってそれを受け取ろうとした。
しかしユフィーは、カップを窓際のテーブルに運んでコトンと置いた。そのにこやかな笑顔が、行儀の悪い真似はなさいませぬよう、と言っている。
ヒバリが渋々といった表情でベッドを離れて席に着くと、ココアの隣に小さな皿が置かれ、そこにユフィーがざらざらと何かを注いだ。
色とりどりの、星のような何か。可愛らしい色と形に、ヒバリの声が弾んだ。
「わあっ、きれい」
「私どもが普段口にしているものなど、女王候補様にお出しして良いのか迷いましたが……疲れている時には甘い物を口にせよ、と言いますので」
ヒバリは目を輝かせて、ピンク色の星を手に取った。
「こんなに可愛いのに、食べちゃうの?」
「金平糖、お口にした事無いですか? ふふっ、お一つ食べてみてください」
ユフィーが微笑んだのを見て、ヒバリは手に取った星を一つ、口に運ぶ。途端に、口いっぱいにほのかな甘みが広がった。
「――! あまい……」
「私ども庶民がよく食べる、大きなお鍋で砂糖に蜜を絡めて作るお菓子です」
ユフィーが説明している間も金平糖を口に運ぶヒバリの手は止まらず、ぱくぱくとあっという間に全部食べてしまった。ココアがまだ隣のカップに手つかずで残っている。
天国の様な心地でほう、と息を吐くヒバリの様子に、傍らに立つユフィーは微笑んだ。
「お気に召したみたいで、嬉しいです」
主人は、ありがとう、と礼を言い、侍女は頭を下げた。ふふふ、と笑い合う二人。
正反対の光景が隣棟で繰り広げられているとは、ほんわかと笑い合う二人は知るよしも無かった。
所変わってディオの寝室では――。
「そろそろ機嫌治さない、スコール?」
ディオの一言に、スコールがやっと顔をこちらに向けた。
午後の講義を終えてから、何故かスコールは主人と一言も口をきかず、目も合わせてくれなかった。
やっと目が合ったと思ったら彼女の口から出てきたのは、昨日と同じ怒鳴り声だ。何が何だか分からない。
「人聞きの悪いことを言わないでくださらない!? 別に私は、機嫌を損ねてなんかいないんだから!」
そしてまたツン、とそっぽを向く。やれやれとディオは肩を竦めた。
「私が何かしたのなら謝るからさ、何が悪かったかちゃんと教えてよ。ただ臍を曲げられても、こっちも何が何だか分からないよ……」
「誰が臍なんて……!!」
ディオとしては真摯に言ったつもりだったのだが、何かがスコールの逆鱗に触れたようだった。雲行きの悪さに口を塞ぐ。
するとスコールがテーブルのランプを取り上げ、力任せにディオに投げつけた。
「曲げるもんですか!」
決して軽くは無いアンティーク調のランプ。投げ慣れていない軌道を描いたそれを、彼女は危なく受け止める。
それもつかの間、スコールは手当たり次第にディオに向かって物を投げつけ始めた。高級な枕、インク壺、ディオがまだ目を通した事が無い、インテリアと化してる書籍の数々。 小さな籠の中で、子猫が耳をヒクヒクさせて宙を舞う物体を見ている。ディオが昨日に、庭園で保護した子猫だった。
「お、落ち着いて、スコール……」
「うるさい! 痛っ……」
最後に放った書籍の頁で、指を切ってしまったらしい。とっさにディオは近づいて、その指をつかんだ。
「ほら、気をつけて。私と違って、きれいな指なんだから」
スコールの白魚の様な指と違い、ディオの指は武器を握り獲物を狩ってきた指だ。潰れたマメの痕や日焼けで、とても綺麗な手指とは言えない。真摯な瞳に、スコールは怒りの矛先を奪われる。
「~~!」
バッとディオの手を振り払ったスコールは控え室に去り、荒々しく扉を閉めた。その激しさは、壁に掛かっている絵画を傾ける。
一人取り残されたディオは、明日は機嫌治してくれてるといいなぁ……と、呟いてベッドに横たわる。籠の中の子猫が、返事をする様にミィと鳴いた。
☆
その頃王宮会議室では、高位騎士達が集まって円卓を囲んでいた。週に一度の騎士団長会議である。議長は九人の実質的長であるマイクロフト・フランチェスカだ。
「――では、次の議題。女王候補の教育予定についてだが……」
女王候補育成案の決議後、団長会議では毎週の議題に加えて女王候補の教育計画を議題に入れている。
その計画の大部分は直系の次期女王の教育内容に沿ったものであるとはいえ、今回は史上初めての、王宮外部から来た女王候補の育成だ。毎週の会議は、自然と長引く物となっていた。
「本日、夜会の招待状の返事がセイロンとティルムカニアから届いた。どちらも色よい返事だったと言うことで、陛下は大変お喜びだ。――他国の手前、失礼のない様、候補達の教育には各々全力で当たっていただきたい」
マイクロフトが渋い顔で言った後、ジロリとレイドックを睨んだ。今日の様な急な予定の変更などは、今後一切無い様にという事だろう。レイドックは知ってか知らずか、涼しい顔で彼の眼光に応えた。
「……何事も計画通りとはいかないのが世の常だ。それこそ貴様の様な実践を積んだ騎士ならば、『臨機応戦』という言葉も知っているはずだが?」
「それとこれとは話が違うだろう、ヒューゴ! 貴様の勝手な態度に振り回されるのは、誰だと思っている!」レイドックの返した言葉に、マイクロフトが腰を浮かした。しかし対する彼は嘲笑を浮かべる。
「何も違わないだろう。あの時にも言った通り、私は先に魔法訓練をする事にメリットを見いだしただけだ。現に、貴様の訓練では初回にも関わらず事故が起きることも無かった。逆に感謝して欲しいくらいだな」
「貴様、言わせておけばっ……!」
「まあまあ! ところで、アイゼルさん達の方ではどうですか、彼女たちの様子は?」
第五騎士団長、ウィリアム・オルガが話題の方向を変えようとする。意を汲んでアイゼルが微笑んで答えた。
「とても教え甲斐がありますねぇ。特にディオには」
言って、彼は視線をノルディスに向ける。彼は楽しそうに笑って報告をする。
「ふふ、ヒバリもとっても頑張ってます。僕も負けないように頑張らなきゃ!」
「そこ、勝ち負けじゃなくなぁい?」と第八騎士団長のジェレミアがのんきに突っ込みを入れた。ウィリアムが予定資料に目を通しながら続ける。
「ええと、じゃあ、明日の教育担当は俺とエドワルドさんですね。――社交教育なんて正直何から始めたら良いか……。講義計画を考えるのはエドワルドさんに任せきりで」
「パーティまで決して日があるとは言えない中で彼女たちも大変だと思いますが、あなたたちも頑張ってくださいね」
「はい、がんばります!」
第六騎士団長のシシームの優しい言葉に、ウィリアムは溌剌とした笑顔を見せる。
すると第四騎士団長のリヒト・カタルーシアが頭の後ろで手を組んで、声を上げる。「あー、暑苦しいったらありゃしねぇ」
ウィリアムが彼を向くと、からかうような笑顔と指先がこちらに向いていた。
「あんまり張り切ってやるなよ、一気に詰め込みすぎるとあいつらパンクするぜ」
ウィリアムは露骨にむっとする。
「人に一から物事教えるってのがどんなに大変な事か、お前は分かってないんだよ! しかも入団者達とは違う、女王候補の女の子達だぞ!」
「まぁなぁ。あー、俺は何もやらされなくて良かったぜ」
「お前、人の気も知らないで……」
「リヒトの言うことにも一理あるぞ、ウィル」と、第三騎士団長。
「そんなにガチガチに難しい顔してたら、子猫ちゃん達に嫌われちまうぜ」
エドワルド・オズモンドは、その女泣かせと言われる甘いマスクから、ウインクをひとつ放った。ウィリアムが情けない声を出す。「エドワルドさぁん……」
「それと、候補達の教育がない分、リヒトには時間があるって事だ」そう続けて、エドワルドはにやっとした。
「どうです、来月の予算編成をリヒトに任せては」
「え」
「それは良い考えだな」「貴方にしては、良い考えが出たものですね」
マイクロフトとシシームが感心して、ジェレミアが「さんせ~」とにっこり笑って、長い指をひらひらさせた。
アイゼルが「リヒト、これも勉強です」と彼の前に書類を一山置いていく。
会議はそれで一応のまとまりを見せた。みんなが席を立って退室する中、リヒトは椅子に背を預けて絶句した。「嘘だろぉ……」
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