第8話

 8


 どうしてこうなった。


 俺は今、山西かえでと新幹線に乗っている。

 もちろん東京のアパートに帰る為なのだが。


「京介くん、お腹空いてませんか」

「ん、大丈夫」


「京介くん、お茶ありますよ」

「ああ、どうも」


「京介くん、もうすぐ小田原ですよ」

「……」


 ずっと朝からこの調子なのである。いけない事はないが、非常に恥ずかしい。

 てか他の乗客の視線が痛い。

 向こうの若者なんて、なんで超美少女がテメェみたいな冴えない奴と一緒にいるんだよ、的な訴えを目と顔面で投げつけてくる。


 行きはよいよい、帰りは怖い。

 先人の言葉は本当らしい。

 はぁ、と、思わず溜息が出る。


「京介くん、疲れちゃいましたか?」

「いや、その、さ」

「なんでしょう、京介くん」


 だからそれだよ、それ。


「なんで、必ず名前言うの?」

「い、いけません、か」

「いけないというか、理由があれば知りたい」


 言い淀む山西は、しばらく俯いて、突然顔を上げた。


「あの、怒りませんか?」

「聞いてみないと分からない」

「わ、笑いませんか?」

「それも聞いてみないと」


 口を真一文字に結んで、何かを考える様子の山西は、新幹線から降りるタイミングで、話し始めた。


「実は──」


 俺たちは、小田原から小田急線に乗り換える。その移動の合間に話を聞くつもりだったのだけれど。


 気がついたら、ロマンスカーの車内でも山西の説明は続いていた。

 てか何でロマンスカーに乗ってるの。何かの策略かしら。快適なだけど。


 山西の説明を要約すると、以下の通りだ。

 中学三年で東京へ引っ越してから、ずっと俺にお礼を言うシミュレーションを続けていたという。

 それも最初はフルネームだったらしいが、次第に下の名前だけを呼ぶようになったと。

 その過程でちょっとだけ妄想してしまい、色んな言葉を脳内の俺に投げかけていた。

 という、とんでもない内容だった。


「アイドルの時も忙しくて。思い出の京介くんとの会話だけが楽しみでした」

「へ、へー」


 返す言葉が見つからない事を責めないでいただきたい。

 こんなの、何て答えればいいのか、俺は習っていないのだから、仕方ない。


「だから、実際の京介くんを目の前にして呼べるのが、すごく嬉しいんです」


 よ、よかったデスネー。




 小田急の町田駅で乗り換えて二駅。鶴川駅が見えてきた。

 よく、町田市は本当に東京なのか。神奈川じゃないのか。

 もっといえば相模原じゃないのか、などとしばしば論争になったりならなかったりするが、ここも一応はギリギリ東京都だ。

 駅を出て、北へ向かう。南へ行くとすぐ鶴見川、それを越えたら神奈川の川崎市だ。

 白い息を吐きながら、通い慣れた道を歩く。その横には、まだ山西がいる。


「──山西もこの近くなのか?」


 口に出して、失敗だったと後悔する。

 山西は女子。女子に対して住んでいる所を聞くのは、失礼な行為だ。


「はい、そうですね」


 何の抵抗もなく、あっけらかんと答える山西に、少しだけ危機感を覚える。


「あのなぁ、男子に住まいを教えたらダメだ」

「どうしてでしょうか。京介くんが聞いてきたんですよ?」

「まあ、それは悪かった。だけど、そんなに簡単に家を教えるのは危険だ」

「大丈夫ですよ」


 話しているうちに、俺が住むアパートが見えてきた。

 外観だけは洋館。その中身は、ただのワンルーム。

 三畳のキッチンに、ユニットバス。そして七畳のフローリングの部屋。


 アパートの敷地に入った所で、山西の姿が消えた。

 なんだ、さようならも無しか。

 まあいい。

 ちょっとだけ楽しかったが、また普段の生活に戻るだけだ。

 とりあえず帰ったら、母親に持たされたモチをオーブンで焼こう。


 角部屋である自室の玄関を開けて、荷物を下ろす。


「はあ、疲れた」


 誰にともなく吐いた言葉は、静まり返った部屋に響く。

 と、壁の向こうで、物音がした。確か空室だった筈だが、誰か引っ越してくるのだろうか。


 モチをオーブントースターに放り込んでタイマーを回したところで、玄関のチャイムが鳴った。

 やはり誰か隣に越してくるのか。

 穏やかな人だといいな。


 サンダルを履き、玄関の覗き穴を見るが、顔は見えない。

 仕方なく解錠し、ドアノブを捻る。


「はい……えっ」

「こんにちは。今度隣に越してくる、山西かえでです」


 はい?


「これからよろしくお願いしますね、京介くんっ」


 俺の東京生活は、どうやら騒がしくなりそうだ。

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