第32話 うたびとはわらう

 日差しがまだ高い午後。

 外に比べれば幾分涼しい室内で、網に絡んだ藻屑を取る作業にアリオンは没頭していた。

 その逞しい首には華奢な紅いリボンが巻かれている。

 かの【もりびとナハルト】由来の品だった。


 節高い指で網の手入れをしつつ、アリオンは額の汗を拭って息を吐く。

 普段ならばこの暑い時間帯は昼寝で涼をとるのが常だが、今日はそうも行かない。

 日がもう少し傾いて、涼しい風が海の方から上がってくるようになったら、今度はペトロ・タレイア親子の属する長者筋――櫂の家の家長カドモスとその網子たちと共に、放置してきた船の手入れをする予定になっている。

 歴代の短剣の家の網子たちが大事に使ってきた船が「家」を離れてしまう。けれども、誰にも使われずに丘で干上がっているよりは海に漕ぎ出るほうが本望だろう。

 膝の上にわだかまった網を丁寧に解きほぐしながらアリオンは思う。

 本当は自分の死後まで財を動かす気は無かったのだが――さて、他の長者筋にどう話をつけたものか。

(けど、俺だって何時までも餓鬼気分じゃいらんねぇ)

 短剣の家を代表する者として立つと【もりびとナハルト】に約したのだ。

 ならば、責を果たさねば。


「そうすると、まずは嫁と網子か……」

 しかしなぁ、とアリオンはちまちま取った藻屑を床に捨てながら唸る。

 あの二度と忘れられないだろう夜、アリオンはタレイアを娶ると宣言して一晩泊めている。

 つまり、事実上の婚姻状態なのだ。

 そして、肝心の嫁は行方不明。

(すぐ次の嫁ってのは、無理があるよなぁ)

「網子は、船の代わりに余所の家からいくらかを網子として譲ってもらえるように頼むか……」

 しかし、嫁なし、網子なしの落ち目の家の網子。希望者がいるだろうか。

(ま、いねーよなぁ)

 わしわしと頭を搔くアリオンの耳に、とんとんと戸を叩く音が届く。


「アリオン、居るか?」

「邪魔するぜ」

「おう。お前らか」

 がらりと扉を開けて入ってきたのは、あの乱闘騒ぎでアリオンが殴ったすなどりたちだった。

 幼馴染みの彼らの顔に浮かぶいつになく神妙な表情に、アリオンは網を片付けて向き直る。

「どうしたんだ、こんな時間に。もう船を取りに来たのか?」

「いや」

「そうじゃねぇ」

「そうか」

「おう」

「……」

 元々男衆というのは口数が少ない者ばかりだ。

 三人集ったところでかしましくなることはなく、暫し誰も口を開かない時間が訪れる。

「……この前は殴って悪かったな」

 先に口を開いたのはアリオンだった。

 決まり悪そうに頬を搔いて、「ついカッとなっちまってよ」ともごもごと付け加える。

 それに訪れたすなどりたちは顔を見合わせて「気にすんな」「良いって事よ」と笑う。

「そのことなんだがよ、アリオン。お前、なんでああも怒ったんだ?」

 赤銅色の腕を組み、最初にアリオンに殴られた方の青年が心持ち顎を引いて訊ねる。

「そりゃあ、殴り合いなんざ珍しくもねぇ。けどよ、あん時ゃちっと違ったろ」

「……」

「俺らにゃ言えねぇか」

「……」

「アリオンよ。俺らの仲でも言えねぇか」

「……。あれは」

 決まり悪げに顔を背け、しかし観念したのかアリオンは重たい口を開く。

「俺にゃあちっとも信がねぇんだと分かって、つい当たり散らしちまっただけだ」

「は?」

「よく分からん」

「俺がタレイアを連れ帰った時にさ、皆すぐに危ねぇから捨てろつったろ。そんで、タレイアが居なくなった時は真っ先に俺が流したんだと思ったろ。その時に、なぁ」


 俺がそんな風に軽々しく村の皆を危険にさらす男と思ったのか。

 俺がそんな風に弱った村の者を、誰にも相談せずに殺すような真似するヤツだと思っていたのか。

 ――そう、感じてしまった。


「同じ村の仲間なんだぞ。明日は俺かも知れねぇ、お前らかもしれねぇ、その時も俺は同じように、皆に黙って流すような男だってことだろ、お前らにとっちゃあ」

「アリオン……」

「そうじゃねぇよ」

「俺は短剣の家の長だ」

 短剣の家の、と言う言葉に重みを込めてアリオンは呟く。

「家族もねぇ。嫁も居ねぇ。網子もねぇ。すなどりの業もねぇ。お前らとは違って身軽な身だ。だから、お前達がどうしても抱えきれなくて手放したものでも、最後まで拾ってすくうのが長者の家に生まれた俺の役目だ。俺はそう思ってる。思って、行動してきたつもりだ。……けどお前らに取っちゃあ、そうは見えてなかった……今まで、この十数年共にあって、俺の信はその程度かと、そう思うと、どうにも苦しくて、情けなくて、それで、つい、カッとなっちまって」

 殴って悪かった。

 消えいるような声で呟いたアリオンに、すなどりたちは面食らい、ついで決まり悪げに顔を見合わせる。

「アリオン。アリオン。お前の考えすぎだ」

「分かってる。俺が足りなかっただけだ。それに船は死活問題だ。お前らも、俺も、冷静じゃ無かった」

 悪かった。

 そう繰り返して頭を下げたアリオンに、すなどりたちは黙った。


 ややあって、一人のすなどりがアリオンの肩に手を置いた。

「俺らはな。今日、お前に話があってきたんだ」

「話?」

「俺らは、明日から短剣の家の網子になる」

「な……」

 絶句し、アリオンは掠れた声で「本気か?」と訊ねる。

 それに間髪入れず青年達は「勿論」「おう」と応える。

「俺らだけじゃねぇ。俺らと同じ考えの奴らが他にもいる。お前が面倒見てきたガキどもも、親父達も、短剣の家の網子になって良いって奴らがいる」

「嘘だろ」

「嘘じゃねぇ。つっても、人の数が足りねぇからな。日替わりで元の家もかけもちしつつになるけどな」


 短剣の家の復興だ。


「アリオン。もう短剣の家はたった一人の家じゃねぇ。今は掛け持ちばっかだが、その内俺らの息子たちのいくらかが短剣の家の専属になる」

「男衆の皆で話し合ってな。長者の家がそれぞれ人を出し合うって決めたんだよ」

「網子がつけば家の体裁も整うだろ。そしたら、新しい船を取る交渉にも行けるぞ」

「アリオン。もう一度やりなおそうぜ」

「アリオン」

 次々に告げられる決定にアリオンはしばらく目を白黒させていたが、やがてハッと息を吐いた。

「……良いのか。俺の家で」

「あったり前だろ」

「ガキの頃から一緒だったじゃねぇかよ。今更遠慮するな」

「……」


 ああ、ナハルト。

 あんたとの約束、なんとか果たせそうだ。


 ありがとう、と食いしばった歯の間から言葉をこぼした青年の目から零れたものを見ない振りして、幼なじみのすなどりたちは「これから忙しくなるな」と親愛を込めてアリオンの背中をバシバシと叩いた。


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【地上人】うたびとアリオン 藍色 @syourandouzi

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