第31話 うたびとはちかう
とにかく止血して、人目に付くような陸地へ早く運んでやらねば。
焦るナハルトの腕を、がしりと何かが強い力で掴んだ。
「……えた」
驚いて腕の中を見たナハルトの視線の先で、ジャカランダの花の色をした目が開く。
海水で潤んだ目が焦点を結び、ナハルトを映した。
「捕まえ、た……」
いまだイルカに噛まれた傷口からエリスと同じ熱い血をだらだらとこぼしながら、げほりと砂混じりの水を吐き出して、地上種の青年は逃がすまいと指に力を込める。擦り傷やら打ち身でがさついた掌から、熱い体温がナハルトの冷たい肌に染み込んでくる。
眩暈がしそうだ。
「あんたがナハルト、だな」
『どこでその名を……』
「マーレ(海)の人に、嵐の日に俺を助けた相手に心当たりが無いか聞いたら、あんたの名を言ってた」
漸く会えた。
意識がはっきりしてきたのか、大分明瞭な口調で言った青年の手からはまだ血が流れている。
『離してくれ』
「駄目だ。離したらあんたは逃げるんだろ」
『逃げない。血を流したまま何時までも水に浸かるのは良くない。手当をさせて欲しい』
「そうか……分かった、信じよう」
手の力を緩めた青年を、ひとまず近くにあった珊瑚で出来た小島に避難させる。
長く水に浸かりすぎて彼の唇はすっかり青紫色になっていたが、それでも意識がはっきりしていたのが良かったのだろう。すなどり業に怪我はつきもの。彼は慣れた手つきで腰の短剣を引き抜いて、柄の飾りをきりきり回して外すと、中から取り出した軟膏を海水で洗った傷口に塗り、ついで下衣を刃で裂いて包帯がわりにくるくると巻き付けて、手早く応急処置を終えた。
それを海面に浮いて見守っていたナハルトへ、青年は据わりの悪い珊瑚の上で胡座をかいて向き直り、
「俺は短剣の家のアリオン。【うたびとアリオン】だ」
と名乗った。
それに、ナハルトもまた名乗りを返す。
『私は【もりびとナハルト】』
「【もりびとナハルト】。俺は……俺たちは、あんたに伝言を預かってる」
『伝言?』
「俺のひいひいひぃ……婆様、遠い遠い俺たちの始まり、短剣の姫エリスから」
聞くか。
胡座をかいた姿勢で訊ねたうたびとアリオンの目は真っ直ぐで、焼け付く太陽のようで。
ナハルトは迷い、躊躇い、そして――頷いた。
けっして幸福な別離ではなかった。
涙を流して、何度も何度も振り返りながら立ち去ったエリス。
二度と会えなかった、会わなかったエリス。
(どんな恨み言も受け止めよう)
そう思い、腹を括ったナハルトの前で、アリオンは姿勢を正し、すぅと息を腹に落とし込んだ。
吐き出す息は優しく柔らかく。
青年の喉を震わせる声はまるで女の声だった。
「あなたに限りない感謝を。
あなたに曇り無い敬意を。
あなたに終わり無い愛を。
私は幸せです。
私はあなたのお陰で幸せです。
私はあなたのお陰で幸せでした。
生涯、私は三人の者を愛しました。
一人目はあなた。私はあなたから恋を教えられました。
二人目は夫。私は彼から愛を教えられました。
三人目は我が子。私は子供達から愛を注ぐことを覚えました。
生涯、私は多くの者から愛されました。
一人目はあなた。あなたの優しさと思いやりに私は救われました。
二人目は夫。彼の激しさと情熱に私は思われる喜びを知りました。
三人目は我が子。あの子らを通して私はあなたの気持ちを理解出来ました。
そして、私を迎え入れたいなづまの民たち。
多くの者を愛して、多くの者に愛されて、私は本当に幸せでした。
たくさん、助けて下さいましたね。
至らず、幼く、愚かだった私だけで無く、
私たちの子まで愛して、助けて、あなたは救って下さいましたね。
いつまでも、昔の約束を守って下さっているのでしょう?
いつまでも、昔の私を、私たちを心配して下さっているのでしょう。
でも、もう良いのです。
だから、もう良いのです。
もう、自由になって下さい。
もう、大丈夫です。
もう、心配しないで下さい。
もう、守らなくても良いのです。
もう、私たちは、私たちの足で立ち、歩いて行けます。
だから、あなたは、あなたの生を進んで下さい。
大切な人、
美しい人、
優しい人、
私たちより古く、私たちより永い人。
私たちはあまりに弱くて、あまりに短くて、いつか老いて、あなたを置いていくけれども。
いつも、いつまでも、いつだって、あなたの幸いを願っています。
――ナハルト、大好きよ。
以上、婆様からの伝言だ」
声音を戻してコホンと咳払いしたアリオンは、日焼けた耳まで真っ赤だ。
恋まだき青年には少々照れくさかったのだろう。不機嫌そうな顔は照れを隠すために表情を無理矢理押え込んでいるせいだろう。
不機嫌そうな顔のままアリオンはガシガシと塩のこびり付いた硬い髪を搔いて、「俺ぁな」と口を開く。
「婆様は守らんで良いって言ってるが、俺ぁ、それはあんたの自由にすりゃあ良いと思う。大体、守りたいものは頭で考えて決めてるんじゃねぇ。勝手に体が動いて守っちまうもんだろ。だからな、」
足を組み替えなおし、アリオンはナハルトを見る。
「俺から言いたいのは、一つだけだ。ナハルト、ずっと永いこと、ありがとな」
『私は。私は、ただ』
「ナハルト。俺たちはあんたに借りがある。それはイノチの借りで、チの借りだ。あんたにとっちゃ礼を押しつけるつもりは無いんだろうが、どうか、俺たちを受けてきた恩義を踏みつぶす恥知らずにさせないでくれ。俺たちがマーレの人に出来る事なんざ、ほんのちっぽけな事かも知れない、何も無いかも知れない。それでも、俺たち「短剣の家」はあんたが困ったらいつでも駆けつけて力になると約束しよう」
チと、イノチの礼にしちゃあ軽いかもしれねぇけどな。
少し困ったように頭を搔いて、アリオンは笑う。
「今日まであんたに助けられてきたすべての者を代表して、家長である俺が、アリオンが、言う」
あんたのお陰で、俺たちは生きているんだ。
ありがとう、ナハルト。
笑ったその顔は、かつて愛した少女の面影が確かに残っていて。
『ありがとう……ありがとう、ナハルト……』
ナハルトの記憶の奥底。別れを告げられたあの日、胸に短剣を抱きしめ、何度も何度も振り返りながら立ち去っていった彼女の涙の顔、今、かつての夏の日に何度も見つめた笑った表情へ書き換わってゆく。
『……。私の方こそ、ありがとう。うたびとアリオン』
「え? や、俺は何も、って、あっ!」
一言告げて、とぷんと水中に沈んだナハルトに、水上でアリオンが「また逃げられた!」と叫ぶ。
イルカたちがその様子にケラケラと水面をひれで叩いて大笑いする。
水かきのついた手で温まった海水をひと搔きすれば、ナハルトの体は滑らかに水中を滑る。
泡が耳朶をくすぐる中で、遠くアリオンが叫ぶ声が聞こえる。
「ナハルト! 次からはなぁ! ちゃんと! 礼を言う! 機会を! 作れよぉ!」
ゲラゲラ笑うイルカたちの声を縫って届いた叫びは、真昼の陽光の如くキラキラと輝いていた。
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