第30話 うたびとはしずむ

 ナハルト。

 ナハルト。

 ナハルト。


 強い人。

 賢い人。

 美しい人。

 優しい人。

 残酷な人。

 にぶい、ひと。

 

 私は嫁ぎます。

 貴方から貰ったイノチをこの胸に。

 貴方から貰ったツルギをこの腕に。

 貴方から貰ったキモチをこの海に。


 守ってくれなくても良いのです。

 忘れてくれたって良いのです。


 いいえいいえ。


 忘れては嫌。

 

 いいいえいいえ。


 違います。

 忘れても良いです。


 でも、出来たら覚えていてください。

 私が貴方のおかげで幸せだったこと。


 でも、出来たらどうか忘れてください。

 私があなたのせいで涙を流したこと。


 楽しかったことだけ、

 幸せだったことだけ、

 きれいだった私のことだけ、覚えていてください。


 ナハルト。

 あなたのことが、わたしは、この世で一番――でした。



 ◆◆◆


 血が流れた。彼女の血だ。

 ナハルトは自らが守護している洞穴の中で身を起こし、顔を振り向ける。

 つい最近――水棲人の感覚で無くともつい最近、こんなことがあった気がする。

 そう思いつつ、彼は磨いた水晶や珊瑚、翡翠に瑠璃、古の執政者の横顔が刻印された金銀の貨幣の合間を縫い歩いて、つま先からとぷんと海へ沈んだ。


 今日の海は良く澄んで、小魚や小海老が細かな泡を吐きながら、細かく砕けた珊瑚の砂の上をゆらゆらと泳いでいるのがはっきり見えた。


(ならば何故血が流れる)


 前は嵐の日だった。

 あの後すぐにもう一人――背中に傷を付けて気を失っていた友人コランを救助したから良く覚えている。

 何かあったのか。

 何があったのか。

 焦る気持ちを抱えながら、水かきのある手で水を捉え、血の臭いを辿り泳ぎ続けること少し。

 やがて見えたのは悲痛に鳴き叫ぶイルカたちと、水底へ向かって徐々に沈んでゆく人影だった。


 イルカたちは必死でそれを水面に押し上げようと鼻面を伸ばし、尾びれで水を送ったりもするのだが、しかし、意識の無いらしい体は彼らの力では持ち上げるには足りず、ナハルトが見ている間にも沈んでいっている。


 人が溺れるとき、もがいて水面をバシャバシャと叩いたり等はしない。石が水に沈むように静かに、静かに、沈んで行くのだ。


 業を煮やしたイルカの一頭が腕に噛みつき、ぐいぐいと引っ張っているが、それも柔い皮膚を裂くばかりで浮かび上がらせるほどの効果は無く、成る程、己が感じた血の臭いの原因はこれかとナハルトは得心した。


 しかし、納得している余裕は無い。

 血の臭いにつられて、近くにはフカまで集まり始め、黒々とした魚影を周回させながらイルカたちの隙を狙って人の子を食ってやろうと手ぐすね引いて待っている。

 このままでは溺れ死ぬのが先か、フカの餌になるのが先か。

 ナハルトは持っていた輝く三叉を一回ししてフカを追い払い、水をもう一蹴りし、ついに人の体を掴んだ。


 冷たい。


 重たい。


 彼女と同じ血の臭いばかりが濃厚に鼻を突く。


 顔を歪め、ナハルトは掴んだ体を抱え直すと、砂を蹴って水面まで浮上した。

 その後ろをイルカたちが追いかけてきて、ナハルトの足を咥えて引っ張る。

 心配なのは分かるが、今は早くこの子を人の手に返してやらねば――


 まって

 まって もりびとナハルト

 いないよ

 ひとのこ このこだけ

「何故」

 ぼくらときた

 ぼくらだけ

 ひとのこ このこだけ

 どうしよう

 どうしよう

 しずんだ

 おきない

 おきない?

 どうしよう


 キュイキュイと鼻を鳴らすイルカたちの鼻先を撫でてやり、ナハルトは苦渋に顔を歪める。

 とにかく血を止めて、それから息を吹き返させて、

 そう算段するナハルトの腕の中で、急に冷たかった体が痙攣し、

「ごふっ」

 水を吐き出した。

(生きている……)

 あの状況で、自ら息を吹き返した。

 ゲホゲホと咳き込む人の子に、ナハルトは笑いたいような泣きたいような心地になる。

(エリス……エリス……君の子たちは本当に逞しいな)


『でしょう? だってあなたが守ってくれた私の子ですから』


 記憶の中の顔が笑う。

 それは幼い童女であり、背が伸び出した少女であり、嫁ぐと告げたあの時の娘の顔だった。

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