第29話 うたびとはおちる
海は凪いでいた。
浅いところは絡み合う海藻と白い砂が水に透けて見えて、青と言うよりも緑がかった茶色に近い。まだ眠りから覚めたばかりの小魚が、水が温むのを待ってじっと砂地近くに固まっている。一方、水平線に近いところの海は青く澄んで鏡のように凪いでいて、白い波頭一つ今朝は見えない。飛び交わす海鳥の合間から顔を出す朝日からの光を受けて、水面に金色の道が一筋すぅっと通っていた。
潮の匂いがアリオンの肺をいっぱいに満たし、彼の黒髪から滴る雫がきらきらと輝いた。
干された網にかかった海藻の影が黒い。
漁村の朝だ。
アリオンは両手を合わせ、暫し静かに朝日へと手を合わせて祈る。
「……よし」
手に括ったリボンを見るも一瞬、アリオンはざぶざぶと躊躇無く膝まで海に分け入った。
足指の間を砂が動き、驚いた小魚がしゅっと尾びれを揺らして逃げる。
それらに構わず、アリオンは濡れた指を口に咥えると、キューイとイルカの声を真似て吹いた。
ざざと絶え間なく流れる潮騒に混ざって、青年の笛が響く。
繰り返すこと三度。
波間にとーんとんと跳ねる灰青色の肌が見えて、見る見る間にそれらは近づき、アリオンの足に体当たりを食らわせて、ばしゃりと尾びれで水を跳ね上げた。
為す術無く海の中に転げ落ちたアリオンは、ごぶぁと泡を吐いて悪戯な「仲間」を睨む。
ひとのこ! ひとのこ!
きのう シャチたちと あそんでたね!
あそんでた!
ぼくらと あそぶ?
あそぼう!
わちゃわちゃと、滑らかな体をすり寄せて揉みくちゃにしてくるイルカたちを制して、なんとか一度水面に顔を出して息を継ぎ、アリオンは手を挙げる。
これまでは彼らに話しかけられるばかりの一方通行だった。
だが、水棲人であるロアンとの『会話』を知った今のアリオンならば――
『我、探し求むる、人』
まだぎこちない、拙い、けれども「語る」アリオンの指に、巫山戯回っていたイルカたちが顔を見合わせる。
だれか さがしてるの?
だいじなひと?
ともだち?
さがすの てつだう?
てつだうよ。
いっしょに さがそ。
あそぼ。
あそぼう。
さがそう。
『謹みて御礼申し上げる』
あはは へんなのー。
ありがとうで いいのに。
いこう。
いこうよ いっしょに。
さあ のって ぼくらといこう ひとのこ。
背を差し出したイルカに躊躇わずアリオンはまたがる。
昨夜のシャチより一回り二回り小さい背中は、しかし、それでもアリオンをしっかり支える。
「少し前にここから船が出たはずなんだ。それを追って欲しい……って、あ、指か」
「言い直し」たアリオンに、イルカたちはきゃらきゃらと笑い、「よくわかんないけどさがすー」と頼もしいのかそうでは無いのか分からない応えを返して、泳ぎだした。
波を蹴立て、波をかぶりながら海原を進む内に日はどんどん高く昇り、海はその青さを増してゆく。
晴れ晴れとした海は、いつかの船出を思わせ、アリオンをわずかな感傷に浸らせた。
だが、
「こっち、なのか?」
気付けば、アリオン一行の周囲には霧が沸き始めていた。
アリオンは空を仰いで、中天に輝く日を確認する。到底霧が発生しそうな天候には思えない。
唐突な霧の出現にアリオンは警戒し、イルカたちも普段の陽気さを忘れて不安を鳴き交わす。
『ここか?』
こっち。
こっちだよ。
でも こわいよ。
こわいね。
いきたくない。
ひとのこ かえろう。
かえろう。
こっちは やだよ。
イルカたちの声を聞いて、アリオンは悩む。
アリオンは短剣の家のアリオンだ。
三つある長者の家の一つ、短剣の家の最後の一人――家長だ。
長者の家の責任者として、彼には村人を、他の誰もが手放したとしても最後まで見捨てず、守る義務がある。
それは誰に言われずともアリオン自身が深く自身に戒めていることだった。
たとえイルカたちと話す術が無かったとしても、アリオンは同じようにタレイアを追いかけただろう。
だが。
(引き返すべき、なのか)
タレイアが戻ってきたこと自体が奇跡のようなものだった。
海が再びタレイアを呼び戻したなら、それは海の男神のご意志なのかもしれない。
イルカたちがこれ以上行くなという声を振り切ってまで進むべきではないのかもしれない。
けれども、ここで諦めたら二度とタレイアに会える可能性は無くなるだろう。
ここで、迷うアリオンには誤算が一つあった。
昨日の朝からいつものように漁をして、イルカに導かれてタレイアを発見し、それから夜まで救助を求めて歌い続け、そこから休む間もなくシャチの筏で海を渡り、その後は翁との話し合い――詰まるところ、アリオンは昨日から一時も休まず、一睡すらしていなかった。
まして出てくる直前は怒りにまかせて暴れたばかり。
いくら若いとは言え、彼の体力はそろそろ底を尽きようとしていた。
それに気付かなかったのはひとえにアリオンが冷静なようでそうでは無かったせいで――昨日からの怒濤の展開に興奮した神経が、彼の血潮を熱くし、彼の体を強くし、常日頃以上の力を与えていたからだった。
その魔力が、躊躇し思考する彼の体から、今、まさに、消え去ろうとしていた。
イルカの背びれを掴んだ手が、不意に冷えて緩んだ。
視界がぐらりと傾いだ。
(あれ?)
疑問の声をあげる間もなく、視界が海、空とターンして、そして再び海。
ぽちゃん。
ささやかな。
穏やかなくらいささやかな音を立て、イルカの背を滑り落ちたアリオンの体は海に沈んだ。
腰に下げた短剣が、アリオンの吐いた最後の泡を受けてきらりと光った。
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