旅路

かんな

旅路

 切り立った崖に挟まれた渓谷を、乾いた風が泣きながら吹き抜けていく。天を仰げば木々の生える余地さえない崖が聳え立ち、あまりにも高すぎる頭にはうっすらと雲がかかっていた。澄んだ空気を吸い込むと肺まで冷えていくが、その中にはわずかに残った夏の名残が姿をひそませる。

 細長く切り取られた空を見上げた。九月の末、遠くなりつつある秋の空であった。

 足下を覗き込めば引きずり込まれそうなほど深い谷底が口を開け、その間に細い水の流れが見て取れる。細いとは言っても、あくまで崖の中腹から見た感覚であり、下りて間近にすればかなりの大きさの川であることは間違いなかった。だが、垂直に切り立つ崖を見れば一瞬で諦めもつく。

「おい、カーラム」

 崖を這い上る水の匂いを嗅ぎながら、カーラムと呼ばれた少年は顔を上げた。日に焼けた肌に黒髪と色彩に乏しい外見で、唯一、鮮烈な印象を放つ緑の瞳が叔父の姿をとらえる。

「あまり見るな。引き込まれる」

 抑揚を欠いた声で、顔の半分を隠すほどの髭を抱えた叔父は諭した。崖の中腹を削って作ったこの道ではよくあることだった。カーラムが無言で頷くと、叔父は「よし」と頷いて返し、手綱を握りしめて進みだす。

 彼らが乗るのは大きな山羊であった。巨大な角が特徴で、ふさふさとした毛が高山の寒さから身を守り、乗り手の体も温めてくれる。彼らの体は彼らが暮らす場所に適応するように進化し、巨大な蹄の裏は不安定な地面を上手くつかんで歩くことが出来た。大人が通り過ぎるのにも危ういこの道幅では、時には崖の上端をつかんで歩くこともある。

 カーラムらのように高地で暮らす民にとっては、馬以上になくてはならない移動手段であった。だから、彼らは生まれた瞬間から山羊に乗れるように慣らされ、カーラムも勿論、乗ることが出来る。叔父が乗るのは年若い山羊で、カーラムが乗るのは年季の入った扱いやすい山羊だった。

 いくら扱いに慣れたカーラムでも、この崖を進むにはまだ「子供」だということである。

 慎重に進む叔父の背中を見つめていると、その視線に気づいたらしく彼は振り返る。狩猟を生業にしているだけあって、勘のいい男だった。そのせいで、このような厄介事を背負い込む羽目になったのだが、当の本人はそれをいいとも悪いとも言わず、ただ「わかった」と承諾しただけだった。饒舌な人間でもなかったのである。

「お前、また馬鹿なことを考えているな」

 呆れたように言って、叔父は前を向いた。

「馬鹿って言葉の意味はわかるだろう」

 カーラムはこっくりと頷く。叔父は「なら、お前はただの頑固だ」と返し、そして続けた。

「おれの兄貴にそっくりだ」

 カーラムはその言葉をぼんやりと聞くだけに留めておいた。

 叔父は言ってから、しまった、という風に溜め息をつき、頭をかいて声の調子を変える。

「ここを抜ければ目的地だ。慌てることはないが、急げ。夜になったらかなわん」

 足場の悪いこの崖で野営など、彼らでも遠慮したい寝床であった。寝返りをうって崖の底、など笑い話にもならないが、実際に年に何度かはそういう話を聞く。酒場の連中に話の種を提供してやるような親切心はない。

 カーラムは「はい」と頷いた。

 渓谷の中にあっても、影の位置や太陽の光の加減などである程度の時間は読めた。中でも一番の効果を発揮したのは腹時計である。二人の時計は正確に昼をたたきだし、わずかに広くなった場所で山羊を止め、地面に腰を落ち着けた。揺れっぱなしだった足下や尻が落ち着き、カーラムは一息つく。

 長旅だからと荷物は少なく、この崖に入るからと元々少ない荷物を更に少なくした。山羊たちの負担を少しでも軽くするためで、持ってきているのは毛布と数枚の着替えに靴、水と食糧だけである。だから腹が膨れればいい、という最低限の用を足すための食事であり、質素を通り越して粗末でさえあった。

「育ちざかりには酷だな」

 持ち歩いて硬くなったパンと乾燥させた木の実をカーラムと自分に分けてから、叔父はそう言って懐から何やら取り出した。

 取り出したのは小さな巾着で、その中から手のひら大の包みを取り出す。それを出した途端、これまでついぞ縁のなかった匂いがカーラムの鼻をついた。

 叔父が取り出したのは干し肉の切れ端だった。さすがにいくつも持ってくることは出来ないが、いざという時のためにわずかな数を持ち歩くことはある。今までは人の生活圏の側を通っていたためにこんな非常食を出す必要もなかったが、この崖に入る数日前から食事は粗末になる一方であった。

 狩りなどで山に籠ることもある叔父からすれば大したことではないが、育ちざかりにはいささか堪える食事内容であったことは間違いない。元々、カーラムはここしばらくの出来事で痩せていく一方であったが、この数日で更に痩せていった。

 旅もあと少しで終わる。最後で倒れることのないよう、力の蓄えは必要だった。

 これはカーラムのための旅なのだから。

 小指ほどの大きさの干し肉をお供に、二人は手早く昼食を済ませ、山羊にも草と水を与えた。そして少し休憩してから、再び進み始めた。



 叔父が操る危なげのない山羊の足取りを真似て、カーラムも手綱を操る。山羊の扱いに慣れているとはいえ、この崖は難所すぎた。こんな道は彼らの故郷の周囲にはない。叔父のように山々を歩き回っていた人でなければ先導も難しく、だからこそ叔父は旅の同行を断らなかったのかもしれなかった。あるいは責任感のある人だからかもしれない。二人の親族はもう、お互いしか残されていなかった。

 小さな戦争があった。流された血や焼き払われた集落の数から言えば小さくもないが、一方的に攻撃を仕掛けた側からすれば些細な戦争だったことは明らかである。向こう側の被害は圧倒的に少なく、彼我の差は天地ほどにも離れていた。

 諍いの理由はおおむね理不尽なことが多いが、この戦争も先例に漏れず同じ轍を丁寧に踏んでいた。

 彼らの所有する武器を買わないからと、それが戦争の理由らしかった。

 「らしい」というのもカーラムはその時まだ幼く、大人たちの話の蚊帳の外にいたからである。実際の話として聞いたのは戦争が終わった時、誰も彼もが多くのものを失くし、空っぽになった自らに何か詰めるものがないかと入れた知識だった。

 父母、祖父母の代わりに置いてみた礎は多くの火種を内にひそめていた。

 だが、もはやカーラムにそれを燃やす気力は残されていなかった。同じように火種を自ら取り込んで怒りに変えていった人々を何人も見たが、触発されることはなかった。誰も彼もがカーラムの前を通り過ぎていくだけで、二度と帰ってはこなかった。

 叔父との暮らしはそれからになる。話を聞いた叔父がカーラムを迎え、共に暮らすようになって三年が経った。

 周囲は旅を促した。本当に行きたいのかと叔父に問われ、カーラムが行きたいと告げた時、叔父は「わかった」と深く頷いてくれた。

 正直なところ、カーラムは何故、周りがあんなにもこの旅を勧めたのかがわからないでいた。ただ、周囲の人々の真剣そうな表情や、叔父の「行きたいのか」という質問に、何故か自分は応えなければならないような気がしたのである。日頃の恩を返したい、という気持ちに似てはいるが、どうにも種類が違う気がして未だによくわからない。

 だから、どうしても行きたい、という強い衝動はなかった。ただ言われたままについていく。とりあえず手足は動くし頭も働くのだから。

 昼を過ぎ、夕暮れへ空が手を伸ばそうという頃、不意にぽつりと手を打つものが落ちてきた。

「天気雨か」

 雲はない。だが、夕空から落とされた雨粒は段々とその大きさを増し、地面を色濃く染めていった。慌てて二人は外套を羽織り、目深に被ったフードから空を窺う。

「急ぐぞ。足下に注意しろ」

 山の天気は変わりやすい。それが悪化の道を辿る羽目になると、それこそ急転直下の変化を見せる。こんな逃げ道のない場所で悪天候に見舞われでもしたら、遭難の二文字もにわかに現実味を帯びるというものだ。

 叔父は長年の勘から、この雨がすぐには止まないことを察知していた。いくら太陽が見えていても、雨雲はどこからともなくやってきて天災の両腕を存分に振り回す。自然とはそういうものだった。人知の及ぶところではなく、警戒しすぎて悪いことはない。

 今までより山羊の歩みは速くなった。叔父ほどではないにしろ、扱いに慣れているカーラムの背中にもひやりとしたものが常駐するようになる。そうと山羊に悟られては彼らも恐れるからと、カーラムは出来る限り何も考えず手綱さばきに集中するよう努めた。

 山羊の歩みに合わせるようにして雨足も激しさを増していく。初めは絹糸のようだった雨は次第に綿糸のようになり、やがては渓谷中に轟音を響き渡らせる雨のカーテンを織り上げていった。あまりの音に耳を塞ぎたい衝動に駆られたが、ぐっと我慢する。時々、そんなカーラムを肩越しに振り返り、叔父が何事か叫んでいたが、雨音に遮られてよくは聞こえなかった。

 雨具を伝った雨粒が、雫となって鼻先を通り過ぎて手に落ちる。動物の皮をなめして作った雨具はよく雨を弾き、体を冷えから守ってくれた。だが、足下まではその恩恵にあやかれず、礫のような雨が足先から膝までを冷たく濡らす。そこへきておりからの冷たい風である。体の末端から体温を奪われるのに時間はかからなかった。

 手綱を握る手が痛い。まるでささくれた木を握りしめているようで、開いたら血でも流れるのではないかという痛みだった。足に至っては既に感覚もなく、ほとんど身にしみついた習性で鐙を踏みしめているようなものである。揺れる山羊の背の律動が、自身の手綱が正確であることを教えてくれた。

 カーラムは忙しなく辺りに視線を走らせていた。

 時折、振り返ってはカーラムの様子を窺う叔父、そして叔父が操る山羊の足跡──雨によって乱される集中力をかき集め、自身の山羊が道を踏み外さぬよう注意を払うのも一苦労であった。

 雨具全体に雨の音を押し込めているようである。

 全身を叩く雨音は彼の内で轟き、耳を塞ぐ。カーラムの集中力とて完璧ではなく、波の満ち引きよろしくその防壁が薄くなる瞬間がある。そして、その僅かな間隙を縫って雨音は彼の思考に侵入しようとしていた。

 雨にそんな意志があるはずもない。あるとすれば自分の方に理由がある、とカーラムが思った瞬間、それまで片時も外れることのなかった鐙の感触がふっと消える。瞬間的に踏み外したと思ったカーラムはすぐに体勢を整えることが出来たが、その所為で山羊を止める羽目になった。このまま進めばまた同じことを繰り返す。一度、体勢をしっかり整えてから進まなければと思った。

 その判断は間違ってはいなかった。ただ、時と場所が悪かった。これ以上、天気が悪化する前に、と進む叔父は自然と山羊の足を速くさせており、彼自身がそれに気づかずに進んでいた。そして、道は険しく細い。雨の幕はその時を待っていたかのように、両者の間に白い緞帳を下ろした。

 カーラムは息を吸い込む。湿り気を帯びた空気が我先にと肺へ駆け込み、その所為ではないだろうが、心臓のリズムがわずかに調子を早くした。カーラムは吸い込む空気の勢いを緩め、山羊を動かし始める。既に、叔父の姿は見えない。

 大きな雨粒が前を行く山羊の足跡を段々とわかりにくくしていた。石の多いこの道では、雨が降ればその水の礫によって、微かなへこみなどあっという間にならされてしまう。今のように大きな雨粒であればその速度も増す。先刻のように叔父の後をぴったりついていた時ならまだしも、その背中も見えないほど離されては追いようがない。自分で少しずつ進むしかなかった。

 雨の勢いは衰えない。檻のように封じ込む雨音は、カーラムの感覚の一部を完全に遮断した。目と耳での情報収集は頼りに出来ない。ついでに声も頼りに出来ないのだと、雨音の大きさを前にカーラムは静かに思った。

 もはや叔父にも聞こえまい。ここから何を叫ぼうとも、雨が全て吸い込んで地へ押し込めてしまうだろう。それは崖を下り、あの勢いを増す渓流へと紛れてどこへなりとも流れていくのだ。それが、誰の声なのかもわからぬままに。

 カーラムの手はごく自然に、山羊を止めていた。

 雨音だけだと思っていた轟音は、足下からも迫っていた。幅の狭い渓流は一気にかさが増え、猛々しい濁流となって流れていく。崖の一部を削り、川底にあった岩をさらい、あらゆるものを押し流し、全てをなかったことにしながら水は急いて先へと行く。

 叔父の忠告はもはや、雨と共にカーラムの体の外へ押し流されていた。耳には激しい水の音が競い合って迫るのみで、カーラムの視線はどんどん渓流の奥底へと吸い込まれていく。茶色い濁流の底など見えるはずもないのに、泡立つ白い波涛の中に何かがあるような気がしてならなかった。

 あの弾ける波の中に、水の流れの奥底に、自分がどこかへ置いてきてしまったものが隠れている。

 きっとそうだ、と思いを決めると、心が驚くほど軽くなった。羽のように重さを忘れた心は、カーラムの顔に初めて表情らしきものを宿らせる。それが安堵にも似た諦めであることを、成長途中の心は見定めることが出来なかった。

 カーラムが身を乗り出すと、山羊もそれに従って一歩踏み出す。煩わしいだけだった雨音は、もう耳には届かない。全て雨が押し流してしまうのなら、それに心を傾けるというのは無駄な労力のように思えた。

 また一歩、山羊は足を進める。主が身を乗り出すため、バランスを保とうと自然に足が出てしまうのだった。だが、長年、人を背に乗せてきた彼は他の誰よりも賢かった。このまま主の思う通りに進めば崖の下に落ちること、そして、それを主は何とも思っていないことに彼はいち早く気づいたのだった。

 更に踏み出した一歩が崖の縁をとらえた。山羊はたたらを踏んで頭を巡らせ、後退しようとする。だが、カーラムの体は重心を取るのを忘れたかのように前のめりになったままだった。これまでどうにか保っていた互いの均衡が崩れた時、真っ先に足を踏み外したのはカーラムであった。後退しようとする山羊に逆らうようにして前へ傾いた体は、山羊を追い越してぐらりと向こう側へ倒れ込む。その時、ふっと主の手から力が抜け、手綱を離すのを山羊は敏感に感じ取った。

「カーラム!」

 低い声が雨音を切り裂いた。

 山羊は地面を蹴り、投げ出されようとするカーラムの体の下へ自らを潜り込ませた。そして太い首を大きく振り上げると、手綱を既に離していたカーラムの体は軽々と宙へ放り出され、短い放物線を描いて崖道へと盛大な水しぶきと共に叩きつけられる。

 山羊はそれを見送りながら、崖の下へと落ちていった。

「……カーラム!」

 轟くような声が渓谷中に響き渡る。だが、カーラムの目はそちらを向くことが出来なかった。山羊の黄色い目が崖の向こうへ消えるまで、ずっとカーラムを見つめていたからだった。

 身じろぎもせず、ただ水たまりの中に体を横たえるだけのカーラムを現実に呼び戻したのは叔父だった。あの細い道を最大限の速さで駆け戻り、山羊から飛び降りた叔父はカーラムの顔を覗きこむ。そして頬を叩き、何度も名前を呼んだ。三度目に呼ばれた声でカーラムの目はやっと叔父を見つめ返す。叔父は安堵したように息を吐いた。

「起きられるか」

 カーラムは答える代わりに、体を起こした。全身に擦り傷を負い、雨が染みて痛いことこの上ないが、幸いにもそれ以上の怪我はない。山羊の対応が速いお陰で、さほどの衝撃が与えられずにカーラムは崖道へ戻ることが出来ていた。

 体を起こしたカーラムは、投げ出した足の間に広げた両掌を見つめた。

 ずっと握り続けていた手綱の跡が赤く残っている。あの時は感覚を失うほどに冷たく、ちぎれて血でも出るのではないかと思うほど痛かったのだが、実際はただ赤くなっているだけだった。カーラムが思うほど手綱は張りつめてはおらず、そしてその手綱握る相手はもういない。

 自身の手から崖の方へとカーラムは視線を転じる。雨が今あった出来事など全てなかったかのような顔をして、重い幕を下ろしていた。

 カーラムは両手を握りしめた。まるでそこから痛みの名残が逃げ出さないように、忘れないようにと強く力を込める。

 叔父はカーラムと崖を見比べ、「行こう」と呟いた。

 そしてカーラムを自分が乗っていた山羊に乗せて歩き出す刹那、わずかに崖を振り返り、小さく目礼をした。



 渓谷の終わりは唐突に訪れた。同時に、それまで間断なく降り注いできた雨にもようやく隙間が見え始め、雫を数えられるほどにまで少なくなった雨の向こうに、開けた風景が広がる。

 切り立った深い渓谷は段々と川との距離を密接なものにしていき、ついには川と肩を並べるようにして歩くまでになった時、岩だらけだった道に細かな砂が混じり始めていた。道は次第に岩と砂の比率を変え、川は渓谷で不自由な思いをしていた分、圧倒的な開放感を伴って砂浜に滔々とした水の帯を作りだしていた。川の周りにはぽつぽつと緑地が点在し、瑞々しい葉に夕日が黄金色の光を落としていた。

 時は夕刻、叔父の計算からすれば大幅に遅れた到着となったが、崖の途中で日が暮れなかっただけ上々と言える。

 天上では満天の星が肩を寄せ合って濃紺の空を埋め尽くし、目を下方に転ずれば水平線の彼方に沈み込もうとする夕日が見える。彼が溶け込もうとしているのは広大な水の平原であり、独特の匂いを伴うそれが「海」だということは、本か何かで得た知識であった。

 山の冷たい風から、海を渡ってきた潮風に代わり、雨具に残った水を力強く吹き飛ばしていく。ついでとばかりに被っていたフードもさらい、すっかり冷えた髪の間を潮風が遊びながらかきあげていった。

 カーラムは山羊を下り、叔父の横に並んである一点を見つめた。

「あれをお前に見せたかったんだ」

 カーラムは海というものを知らないで育った。山で育ったのだから当然であり、しかし、文字で仕入れた知識からとにかく広い湖を想像していた。

 そして今、本物の海を目の前にしてその想像の貧困さを思い知らされたわけだが、そこには彼の想像にも、勿論、文字にもなかったものが存在していた。

 海の彼方、水平線に溶け込む夕日の右隣に滝が流れているのである。否、滝というよりは水の柱、あるいは屹立した川とでも形容するべきなのか、カーラムはその存在を例える言葉を探すのに苦労した。

 それは唐突に海の真ん中から垂直に、水の流れを作りだしていた。支えるものは何もなく、夕日を反射する輝きから、流れの向きは天に向かってである。

 雲一つない夜空の裾野に水の柱は吸い込まれるようにして流れ、目のいいカーラムでさえその行方が見えなくなるほど高く続いているようだった。

 カーラムは叔父を見上げた。叔父は水の柱を見つめながら答える。

「還りの道、円環の道、輪廻の道、色々な呼び名がある。多くの死人が出た約三年後に、近くの海に現れるものだ」

 叔父は天上に吸い込まれる「道」を見上げた。

「あの道を通れば必ず天上に行けると言われている。地上で負った傷を、あの水で癒しながら導くんだそうだ」

 カーラムは叔父が見つめる先を共に見つめ、乾いた唇を動かした。

「……三年かかって、あそこに行くの?」

 抑揚を欠いた声はたどたどしく文章を作りだす。久しぶりに聞く、会話を望もうとする言葉であった。

「傷ついたら、誰もそんなに早くは立てん」

 言いながら、カーラムの頭に手を置く。

「あれは、それまで待ってくれる。皆の準備が出来るまでな」

 見上げるカーラムの両目から、大粒の涙が零れ落ちた。

 それはずっとカーラムの中で出口を待っていたものであり、止めるものがなくなった今、涙は止まることを知らずに頬を流れ続ける。

 叔父はカーラムを静かに抱き寄せた。慣れない仕草だということはすぐにわかった。肩を掴んだ力は痛いほどに強い。しかし、それが叔父に出来る最大限の優しさの表れであった。

 しばらくの間、二人は佇んでいた。潮風に吹かれ、雨の名残も失せ、夕日が完全に水平線の彼方へと姿を消した時、カーラムは涙を拭ってぽつりと呟いた。

「……おれ、またここに来る」

 叔父はカーラムを見下ろした。カーラムは海へと視線を向けたまま続ける。

「三年経ったら、あの山羊もあの道を通るんだよね」

 カーラムの頬に既に涙はない。潮風で乾いた跡が残るだけだった。叔父は安堵の息を吐きながら、「そうだな」と頷く。

 さざなみを聞きながら「道」を見つめ、やがて、叔父は行こうと促した。辺りは暗く、野宿のための場所を探す必要がある。カーラムは頷いて行きかけたが、一瞬、「道」へ目を向けてから叔父の背中を追った。

 星の光を身に散りばめながら、「道」は旅人の姿を見送る。

 カーラムの旅は一度の終わりを見せた。

 そして新たな道へと踏み出す彼の背を、海からの風がそっと押し出す。




終り

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