猫又の心中

はむ提督

猫又の心中

 河川の中洲の街に、みずぼらしい男がひとり住んでいた。男は歳三十ほど。稼ぎの少ない田舎から独り立ちして十年ほどになるのだが、誰からも金銭の迷惑をかけずまっとうに生きるようこころがけていた。そう生きるのが両親からの教えで、少なくともそう生きていて特別生活の苦難に陥ったことはなかったので、かく生きるべきなのだと信じて疑わなかった。

 そんな成りなのでいままで決して罪を犯したことはなく、親密に話してみれば人も好いのだが、学業が特別できるわけでもなく、体躯も細い。人見知りがひどいゆえ、友人付き合いは少なく、ましてや色恋沙汰も乏しい。成人した頃に親を病で亡くし、親族とは疎遠であったため、ついには他人との縁が途切れてしまう。次第に男は、自分はこの世の誰からも愛されないのだと思いつめるようになっていた。

 せめて嫌われるならまだしも、このまま独りで生きるのかと思うと、自分が人間であることを心底うらめしく思った。人間は一人で生きることはできない、だから他人が困っていれば助け、他人を害さないようにして生きてきた。だけれども自分は成人したと同じくして孤独になり、誰もから声もかけられず見捨てられ、人の群れの間で宙づりになったような模様で死ぬこともできない。このままでは死んでも死にきれない。人様の役に立つようにして、別段悪いことを一度もしたことがないのに、誰からも忘れ去られ、自分はなかったことにされたまま塵になってしまう人生は、あまりに惨くないだろうか。


 男はそう思いが巡ると虚しさを紛らわせるために散歩をするのが日課だった。特に夜中に出歩くのは心地よかった。人出の多い場所では怪しまれるし、夜の森の中ではひとたび迷えばひどい目に遭うので、決まって中洲を囲む淀川沿いを歩くようにしており、人気があれば面倒事に巻き込まれるのも嫌なので隠れては通り過ぎるのを待つ、本人も自分のことが情けなくなってくるという趣向であった。寒さの厳しい冬でも、住処にずっと引きこもっているよりはといって、出歩くのをやめなかった。

 そんな歳恰好には似合わない趣味を続けて、寒空の1月の暮、荒み続ける心を誤魔化し誤魔化しで過ごす中、けがをした猫に巡り合った。男には、猫に人ほどの見分けがつかない、まして美醜などわかろうものではなかったのだが、夜半にもかかわらずこの猫にはひと目で心奪われた。この子もまた孤独に苦しんでいるのだろうか、そう思ったからだ。人に愛されず、役にも立てないのならせめてこの猫のためのことをしよう。そう思った男は猫を介抱することにしたのだ。

 猫は男にとても懐いた。男は彼女もまた、別の猫から見放されていたように思えた。きっとこの怪我も別の猫にいじめられてできた傷だった。その思い巡りは正解で、猫は生の絶望から救った男に感謝し、男もまた孤独の絶望を救った猫に感謝した。おかしなことに、お互いに恋をしたのだった。

 男と猫がつたない身内となって数週間、見知らぬ老婆が男に声をかけてきた。私生活で他人から声をかけられたことが久方ぶりであったため男は驚いたが、そのことよりも異様だったのが老婆の奇抜な格好だった。街模様とは明らかに浮いた、色彩豊かなつぎはぎの着物姿。どちら様と尋ねるとこの辺に住んでいる者だというが、これほど目立つようなら、近所に住んでいれば有名になりそうなものなのに全く覚えがない。この市囲に住んで10年ほどになるが、見かけた覚えすらないのだ。その老婆が、その猫と一緒にいるとおまえはろくな目に遭わないから、さっさと手放せと言うのだった。

 男はむっとしたが、なぜか問うと、その猫が猫又だからだという。猫又は猫にもなれず、人にもなれない。猫又以外の何にもなれず、また誰かに寄り添うことも許されない。なぜならそれが宿業というものだからだ。人が人であるため、猫が猫あるためには、境の線引きを踏み越えるものを認めてはならないのだ。さもないと猫は人を襲い、人は猫を支配しようとするだろう。おまえはそれを理不尽に思うだろうが、何よりおまえは確かに人間で、おまえにはどうしようもないことなのだ。猫又は猫とも人とも交わるようにはできていないばけものだ。我が身を思うなら猫と別れることだ。その化け猫は化け猫であるがゆえにおまえを害するだろう。

 すると男はこう返した。俺にとってろくな目に遭わないのは今も昔も同じ。なのに孤独という二重苦をあじあわされている身としては、独りで死ぬよりも一匹のために苦しむほうが、自分にとっては救いになるのだ。彼女もまた孤独だ。拠り所をつくることも許されず、ただ生き地獄をさまようのは因果としてあまりにも惨いではないか。物を盗んだ、他者を害したのならまだしも、この子が何の罪を犯したというのだ。俺が彼女の面倒を見る以上、少なくとももう誰の気も害さないようになるし、自分も彼女も幸せになれる。少なくとも俺は苦じゃない。猫と人と、俺たちの妥協点としてはそれで充分じゃないか。もし妖怪に喰われてしまうのであっても、もとより除け者の身だから、誰のためにもならない一生よりはそれも本望だと。理性的な言葉に、老婆は猫と男を引き離すのを諦めるが、せめて都度見守らせることを求め、男も承った。

 そのようにして、老婆が男の日常に加わるのだが、老婆とつたない会話をするときも男は猫から目を離さず可愛がった。その猫に妬みの目がひとつ、ふたつ。老婆はその視線を感じ、野良猫には気を付けるようにとでも言おうと思ったのだが。言う気が失せた。老婆のこころの中で、男と猫又の間の心配より、視線の主たちへの共感が勝ったのだから。


 男が朝起きたある日、夜盗にでも入られたのだろうか、家が荒らされていた。だが男には、何か盗まれたのかを確認することなど頭になかった。何より大切な伴侶がいなくなっていたのだから。男は自分と彼女を引き離そうとしたあの老婆が彼女を攫ったのだと確信して外に出た。しかし老婆が落ち合う場所に行っても会えるはずもなく、近所に住んでいるというから探せども探せども、伴侶や老婆はおろか、猫一匹見ることも能わない。外を出歩いているのは自分を見放してばかりいる人間だけだった。

 日も暮れて、男は一日中街をさまよい続けて、他所の街もあたってみようかと考え始めた頃、ようやく伴侶を見つけた。彼女は野良猫数匹、いや十数匹に囲われて連れられていた。攫われているというよりも、まるで貴人のお供に護られているかのよう、さながら月に連れられる輝夜姫のようだった。そんな貴い身分として丁重にもてなされいるようでありながら、彼女はとても哀しげだった。男は彼女を野良猫の群れから取り戻そうとした。そのひとは俺の家族だ、大切なひとだ。どうか彼女を奪わないでほしい、いや、これ以上誰かに奪われてなるものか。男は家族への渇望に我を忘れていた。永い孤独は、男を自分が人間であることを忘れさせるには十分で、彼女無しに生きるには、もはやあまりにも希望が足りなかった。突如男の肌は黒い毛むくじゃらとなり、二つの足で走り回っていたのが、まるで虎のような有様で四つん這いになり、貴人の護列を追いかける。


 貴人の女もまた、近づいてくる自分より何倍も大きな体躯の怪物が、自分の家族だということをすぐ認識した。護衛たちは男だったものと、群れになって格闘したが、普通の人ならば蹴散らすことは容易いところ、しかし相手は渇望の怪物。既に尋常のものではない代物にまったく歯が立たない。彼女はこう思った。世が私と彼とを、私自身を許さないのなら、彼と一緒になろうと。彼と一緒に化生となって地獄までお供しようと。ただ地の果てに行く前に、私と彼を許さなかった世に、目にものを見せてやろうと。彼女もまた、黒い怪物と同じく一生に希望を見出したのだ。

 猫又は護衛の猫たちを蹴散らした男だったものに向かって飛び込んだ。男のほうも彼女を迎え抱きしめてやりたかったのだが、もはやどうやってふたつの足で立ち上がっていたのか覚えていない。だから猫又は彼の肩に、まるで男に抱き着くかのようにしがみついた。しがみつくと、猫又は怪物の毛に取り込まれていくが、彼女はそれを望んで受け入れた。男だった怪物の躰がさらに大きくなる。もはや男はひとりではない、ただひとりの伴侶と文字通りの一体となったのだ。

 こうして家ほどに大きくなった化生は、三日三晩、自分たちの住んでいた街を荒らしまわった。野良猫たちをおどかし、人々の生活をおびやかした。かかってくる人間どもを散々に迎えうった。槍を向けられようが傷ひとつつかず、鉄砲を撃たれようが全く怯みもしない。むしろ見てから身をかわすほど俊敏で、腕を振り上げれば家屋の壁など容易く打ち砕いた。響きわたる悲鳴が、彼と彼女には心地よかった。まさに不死身の怪物、さながら平家物語にうたわれる鵺のよう。男は女の渇望を、女は男の渇望を喰らいあうことで、何人も目を背けることのできない、ただ一つの災厄に成ったのだ。


 怪物は人々が慌てふためく様にいい気になっていた。住み慣れた中洲の街は散々な瓦礫の山へと変わり、猫一匹から人ひとり見えない無人の孤島になっていた。彼らはさらなる破戒を求めつつも、これはこれでいい、互いが出合い、暮らしたここを連れ合いと生き果てる場所とするのも一興だと思った。川の向こうの人間と猫どもにこれ以上自分たちに近づくなと知らしめたら、中洲とをつなぐ橋を落として地獄までの余生を過ごそうと考えたのだ。

 だが彼らにも弱みがあった。水の冷たさだ。

 川の向こうでも暴れまわってやろうとして、隣町へ逃げ込む人々を追いかけた怪物は、橋を渡る途上、橋が躰の重さに耐え切れず川に落ちてしまった。想いうかぶ復讐の念、世の中への憎悪の炎、伴侶同士への互いの情念の熱が、川の冷たさによって急速に萎れていってしまう。怪物の躰はみるみる小さくなり、溺れるはずのない体躯が水の中に沈んでいく。力奪われる感覚の中で、男は気を失った。


 住んでいた街は瓦礫の山、東から朝日が廃墟の煙といっしょに立ち上る。人々は、毛むくじゃらの化けものがまだ生きているだろうと、中洲に近づこうとはしなかった。壊れた橋は化けものが壊したのだろうと、直そうともしなかった。むしろ壊れた橋の手前を物々しい恰好の男たちが囲っていて、まだ見ぬ未知の怪物が現れるのを固唾を呑んで備えている。そんな滑稽な様子に囲まれた廃墟の山の中、彼と彼女が共にいた場所で、男は目を覚ました。住処の屋根は壊してしまったが、雨露はしのげるようになっている。男は丁寧に毛布をかけられて、何日も眠っていたようだった。

 彼女はいなかった。自分が大きくなって暴れまわった記憶は残っているものの、男は彼女がもう二度と会えない、どこにもいなくなってしまったような気がしていた。自棄になった彼は、このまま飢えて死ぬにしろ、刑罰で死ぬにしろ、どちらでもいい。そんなことより彼女の待っているにはやく会いに行きたいとこいねがった。

 自分は川で溺れていたはずだった。それが今ここにいるということは、誰かが助けてくれたのだろう。誰かが俺に生きていてほしいと願ったのだろう。だがそんな人、彼女以外この世にいるとでもいうのか。いずれにしても彼女はもういない。どうやって彼女のところに向かおうか。

 瓦礫の山を踏み越える音、若い女の人影が、男の思案を止めさせた。

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