幸福の青

#39 偏移の青(未来について)

冷たい風が浜の砂をなでつけ、灰色の水面を波立たせる。開ける視界と頬を撫でる潮の香りに、アズールは、ああ、海だ、と思う。白衣を脱いだ研究者はキイキイと車椅子を引いて、コンクリートの岸辺をゆっくり歩く。そのまま水辺の見えるところまで出て、車輪にストッパーをかけた。アズールは海辺を彩る、光差す空を見た。ざあざあと浜は鳴く。良い天気だ。そう呟いてアズールは、冬の風に剥がされて巻き取られようとしている風よけのブランケットを、きちんと巻き直してやった。


アズールは海に来ていた。コートの裾が風になびく。遠くを見渡し、海が見たい、と言ったモルフォの願いを叶えてやれたことを思う。たくさんの水。命の故郷。母なる海。地球の胎。冬の海は殺風景だが、そこには夏とは違った趣があり、不透明で寒々しい色彩の中にも渦巻く混沌と生命が息づいているのがわかる。遠く唸る潮騒は身体を巡る血の音だ。それは、喧噪と静寂、どちらの範疇であるのか。アズールは息を吐き、白く砕ける波を、灰色に煙る空を、揺れる水面の向こう側の、空と水面の境目を眺めていた。

「おい」

隣で発せられた不機嫌そうな声に、アズールは思考を中断して振り向く。巻き直したブランケットの隙間からは赤い目が覗く。

「うん? どうしたの、メタ」

「何で俺は連れてこられたんだ? モルフォのお守りならあなた一人で十分だろう」

排熱を阻害する防寒具を付けられ、車椅子の構造体に文字通り両手両足を縛り付けられたメタは、巻かれた布の中から恨みがましくアズールを睨む。そうして身動きが取れないことを再確認すると、あなたは一体俺を何だと思ってやがるんだ、と続けて忌々しげに唸った。肩をすくめたアズールは何でも無いように結び目をなぞる。

「そうはいっても仕方ないだろう。当のモルフォが縛ってでも良いから連れてこいと言ったんだ」

嫌だって言う君に配慮して風よけを見繕ったんだからそう悪くは無かろう、とアズールが言うので、メタはあからさまに顔をしかめた。

「だからって本当に縛って連れてくやつがあるか! 自分じゃ何もできないんだぞ、これ」

「そりゃあまあ、そうなるようにしたからね。暴れられても困るし、途中で逃げ出して勝手に帰られても困る。関節のあたりが痛かったりしないかい? きみに痛覚は無いんだっけ? まあ、ともかく、具合が悪くなったら言ってくれよ。日の当たらないところへ連れて行くくらいのことならすぐできるから」

メタは小さく舌打ちをした。

「具合はさておき気分は最悪だな。早く帰って風呂に入りたい」

「うん? 暑いの? 冷たい水ならたくさんあるけど」

アズールは灰色の海を示す。メタは悲壮な声を上げた。

「潮風が嫌で風呂に入りたいと言っている人間に海水浴を勧めるんじゃない! これだから嫌だったんだ! 俺を、俺を一人で帰らせてくれ! 今すぐ!」

じたばたとメタがもがく。車体が揺れてひっくり返らないようにアズールはハンドルを持って抑えた。

「そうはいってもなあ」


「アズール! メタ! 楽しんでる!?」

波打ち際から叫び、モルフォは大きく手を振って見せた。手袋とコートを着け、頭にはもこもこの帽子をかぶっている。アズールはそれへ手を振り返す。メタは抵抗をやめた。眼下に広がる砂浜の中をモルフォは元気に駆け回る。それをアズールは写真に収めてやる。パチリ、シャッターが切られ、少し口元が笑う。メタはぐるぐる巻きのまま、それを横から眺めていた。

「こんな日が来るとは思わなかったな」

ぽつりと零された声が風に流されて耳に届く。穏やかな声。そうだろうよ、とメタは思い、いつもどおり無視を決め込もうとした。見下ろした浜で、モルフォは髪をなびかせてくるくる回り、水の上にでたらめな波紋を作っていた。メタは口を開く。息を吐いても白くはならない。

「……俺もだよ」

口をついて出たのは何のためか。広がり波に押し戻される波紋に、モルフォとのダンスを思い出したからかも知れない。こんな日が来るとは思わなかった。予想だにしなかった未来。悪くない時間。


「アズール。縄ををほどけ。いい加減窮屈になってきた」

「え、うん。わかった」

アズールは不服げに目を細めるが、殊更に反対することはしなかった。するすると戒めが解かれて、戻ってきた手足の自由に、メタは大きく伸びをする。変な方向に曲がっていた腕を戻し、息を吸い込んでは吐く。朝から動かずにいたおかげで身体は十二分に冷えていた。ブランケットを剥ぎ取って、着せられたコートを確かめる。真冬の海の真ん前で、自分では絶対に選ばない服を着ていることがなんだかおかしかった。

立ち上がり、メタはアズールに耳を塞ぐよう手振りで指示する。アズールは長年の習慣でそれに従った。メタは声を張り上げて、岸辺から波打ち際のモルフォを呼んだ。

「……や、どしたの、メタ。撃つかと思ってびっくりしたよ」

「それに関してはすまないな。急に大声を出したら耳に良くないと思ったんだ。モルフォ、こちらへ」

やってきたモルフォを呼び込み、メタはアズールの手からデジタルカメラを抜き取った。そうして腕を伸ばしてレンズを向け、空いている方の腕でアズールとモルフォを引き寄せる。

「……こういうときになんて声をかけて良いかわからないな。撮るぞ、3、2、1……」

「にー」

パチリと音が鳴り、シャッターが切られる。メタは取り終わった写真を改めた。アズールは隣から覗き込む。

「情緒的なスナップだね」

「それは、どういう感想なんだ?」

「どうって、褒めてるんだよ」

「褒めていたのか……」

「メタ、わたしも撮る! 貸して!」

カメラを奪ったモルフォが並べと言うので、メタはアズールと冬の海を背景に並び立った。パチリ。笑って、とモルフォは言う。パチリ。肩を組んで、とモルフォは言う。パチリ。澄ました様子で立っていたメタが少し慌てた顔をする。アズールは手を上げ、愉快そうに笑った。

「モルフォ、僕がカメラ持つから君もメタと一緒に撮りなよ! コート着てるメタなんてこの先もう見られるかわかんないよ!」

「そう? じゃあ撮って!」

アズールはカメラを受け取り、ポーズを撮るように指示した。モルフォは背伸びして、メタの首に腕を回した。きゃらきゃらと笑う声にアズールは微笑む。そうして撮影者を変え、場所を変え、三人は日が暮れるまで写真を撮り続けた。



「楽しかった?」

「うん、とっても」

帰りはメタが運転すると申し出たので、アズールは後部座席で肘をついて窓の外を眺めていた。モルフォは暗い海を眺めていたアズールを手招いて呼び寄せ、あのね、と言って内緒話をするように耳へ口を寄せた。

「さっきはああいったけど、コート、また来たときに着て貰ったら良いよ。そしたら、また今日と同じように写真を撮るの」

いいでしょ、とモルフォが小さく笑うので、アズールはにこやかに頷いた。

「それなら、どうにかしてまた連れてこなくちゃね。次はどうしようか」

「……聞き捨てならないな。またあんなことされちゃたまらないぞ」

メタが低い声で嫌そうに言ったので、アズールは肩をすくめた。

「ああ、聞こえていたか。なら話は早いな、コート、着てくれるかい。君が着るというのなら新しいのを用意したっていい」

悪びれずに言うアズールへ、運転席に座るメタは振り向かず答えた。

「毎日海に来させる気か? 無駄なことはやめろ。……メンテナンスに出して塗装を丈夫なものにして貰う、だから……」

そこで一度言葉を切り、『次来るときはコートは無しだ』とメタは言った。

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メタモルフォーゼ 佳原雪 @setsu_yosihara

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