6.終章
最終話 地獄行きコインランドリー駅
深夜のコインランドリーは静かだった。
耳に届くのは洗濯機の回る音と、ボリュームを絞ったテレビの音。
古びたブラウン管テレビが映し出すのは、やや情報が飽和状態になりつつもある事件のニュースだった。
『……精神鑑定の結果、被告には十二分に責任能力があると診断され、この痛ましく目を覆いたくなるような残虐な事件はようやく終結へと……』
この街で『目を覆いたくなるような残虐な事件』を巻き起こした男は逮捕され、現在は裁判が執り行われている。
複数の被害者、被告の親が用意した優秀な弁護士、事件に関わる人々の人権問題。事件の性質上、裁判は長きに渡ると思われたが、犯人の男は無罪を主張することなく自らの罪を全て認め、本人にしか知り得ない詳細全てを自白し、判例も前例もない被害者人数分の終身刑が下されるのは時間の問題だった。
「よー、久しぶりだな」
開閉した扉から初冬の空気が滑り込んできた。
秋は新たな客に呼びかけると大して見ていなかったテレビを消し、ベンチで足をぶらつかせた。
男はかけた声にも無言で洗濯機に洗濯物を放り込み、いつもの如く完全無視を決め込んでいる。それには一言言いたくもなるが、時間の無駄であるのも分かっていた。
「仕事、相変わらず忙しいんだ」
再度の呼びかけにも、返事はなかった。
街一番の富豪の死。
国一番の大会社を構える裕福な男を殺したのは、彼が密かに援助していたドラッグの売人だった。富豪殺害後、売人も自殺。それは新聞もテレビもこぞって扇情的見出しを踊らせる醜聞だった。
権力者が裏の顔を持っていた事実は生前彼がどれだけ功績を積んでいようと、関係なかった。私生活は曝かれ、得体の知れない都市伝説もどきの憶測まで飛んだ。だが狂騒的とも言えるこの騒ぎも先の事件と同じく、収束に向かおうとしている。
街を大きく成長させた男の会社は血縁のない重役が引き継ぎ、変わらず国一番の業績を叩き出している。浮いては沈み、留まることなく流れ続ける。一連の顛末はこの街の無情さも顕すものだったが、それが変わらぬ現実だった。
秋はベンチに腰を下ろした男を見遣った。
その事件を担当したのが、今そこにいる男だった。
ちなみに殺人犯を逮捕したのは彼の相棒で、要は二人してこれらの重要事件に関わったことになる。忙しい毎日を送っているのは想像できる。それに一定の理解もしている。しかし二番地区の外れ、鬱蒼とした森の向こうにある集団墓地にハカマイリに行く時間ぐらいは取れるだろうと、秋は思う。
「あんたって思ってたとおり薄情な男だな。慕ってた相手が死のうが、自分が何とも思ってなけりゃ、どうでもいいってか?」
「……それはお前の妹のことを言ってるのか?」
「ああ、ちゃんと分かってんじゃねーかよ」
「……たとえ俺が墓前に行っても、彼女は喜ばないだろうよ」
「はぁ? あのな、こんなのは喜ぶ喜ばないの問題じゃない。行く、行かないの問題なんだよ」
妹の死は今も癒えることがない。
人の身体は脆い。
思いがけないこと、思いがけない出来事で人は死に至る。普段意識していてもその死が突然訪れたものであるなら、それは本当に享受できる範囲のものなのだろうか。
妹の遺骨は両親の墓の隣に葬られた。彼女は母親とは親しかったが、反りの合わない父親とはほとんど口を利いていなかった。
彼女がその場所に満足しているか分からない。兄の冬人が仕切った豪華で見知らぬ人ばかりの葬儀や、その後の弔い。彼女がいたらそれらの状況にどんな顔をするか想像できるが、その彼女はもういない。自らの死を享受できずに今も辺りを彷徨っていない限り、その声を聞くことはこの先もなかった。
「なぁ、あんた、今日一体何をしてきたんだ?」
「別に……いつもの職務だ」
男に投げるように問いを向けると、こちらも見ずに返事を寄越す。
秋はその背後を見通すように見る。
そこに何かが見える。
それはぼんやりとしか見えないが、血に濡れた何かだった。男か女かも分からないものだったが何かがいるのは確かだった。
あの日以来、闇に怯えることはなくなった。
彼女が言ったとおりに、無い方の目は闇に潜むものを見通すことができた。
しかしありもしないものは見えなくなったが、代わりにこれまで見えなかったモノが見えるようになった。けれどこの目に映るその全てが、確実にそこにある現実だった。あり得ないものが映ったとしても以前のような畏れはなかった。
あの日、彼女は消えた。
失踪届けは彼女の身内によって出されたが、彼女がどこに行ったかは知っている。
そこにいる彼女の兄も何も言わないが、彼も彼女がどこに行ったかを知っているように思う。
彼女が消え、それでも変わらず日々は続いている。
彼女の望みどおりに自分の中の闇は消えたが、彼女が消えたことによって、消えない虚無を感じている。それを抱く日々はこれからも続くだろうが、それに苦痛は感じていなかった。それを自分の一部として受け入れ続けることが、彼女を感じていられることと同等のように思っていた。
「秋」
顔を上げれば、いつの間にか男が傍で見下ろしていた。
青白い蛍光灯の下、見下ろす男は死人のような様相で立っていた。
「なんだよ」
「……お前、前に地獄はどこにでもあるって言ってたな」
「地獄? ああ、まぁ言ったかもな」
そういえば言ったかもしれないと思いながら、秋は男の足元を見る。
そこには血溜まりがある。
それはまるで呼吸をするかのように広がり、汚れたリノリウムの床を侵食していく。
ちかちかと、天井の蛍光灯が点滅する。
目眩を引き起こすような引力を背に感じる。
目の前の男が足元を見下ろし、その顔を上げた。
「ああ、地獄かもな」
男は呟いて、店を出ていった。
地響きのような耳鳴りが、鼓膜の奥で続いている。
再度点滅した蛍光灯は、力尽きたようにその明かりを消滅させた。
闇に沈んだ場所は静寂を震わせ、全ての音を消す。
地獄かもな。
秋は男が言った言葉を繰り返した。
この街には消えない闇があるが、彼女が示した光もきっとどこかに存在している。何かを盲目的に畏れ、失ったものもあるが、彼女が残したものに寄り添いながら自分はこれからも多分この街で生きていく。
蛍光灯がちかちかと再び点滅する。
まばたきを終えた後に現れるのは、闇だろうか光だろうか。
誰もいなくなったコインランドリーで秋は頭上を見上げると、暫し目を閉じた。
〈サベージ・ブラッド ―因果応報、あるいは逃れられぬ血の行方― 完〉
サベージ・ブラッド ー因果応報、あるいは逃れられぬ血の行方ー 長谷川昏 @sino4no69
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