3.
ここはどこだ?
奈津川は思う。
自分は自宅のキッチンにいたはずだ。
けれどあの時、目の前で何かが閃光した。そのまばゆさに目を閉じてもう一度見開くと、なぜか自分はここにいた。
「もしかして、ここが、鏡の中?」
呟いて辺りを見回すが、見覚えあるものは何ひとつない。
ここが鏡の中なら全てが反転した世界が広がっているはずだが、周囲に自分の知るものは何もない。
ここにあるのはどこまでも続く草っ原。
足元には膝丈の草が生い茂るが、目に映るのは自分の認識するものとは程遠い。
どこを見渡しても黒い。
ここには草の緑も、空の青さもない。
風景を色取るのは、闇のような黒だけだった。
「あれ? 君は……」
しかしその風景の中、記憶にある姿があった。
漆黒の葉を揺らす大木の下に少女の姿がある。
奈津川は記憶を巡らす。
あれは確か隻眼の少年と一緒にいた少女。とても美しいがいつも悲しげな顔をした子だった。
自分が殺してしまったもう何も思い出せないあの子とは、別の興味と全く別のいつか覗いてみたい欲求を抱かせる少女だった。彼女がなぜここにいるか分からなかったが、今頼れるのはこの相手しかいないようだった。
「ねぇ君、ここはどこなのかな? ここは本当に鏡の中?」
奈津川は歩み寄りながら彼女に問うが、隠し果せない欲求も迫り上がってくることになる。
あの子はどうやって見てみようか?
そんな欲求が湧き上がる。
あの美しい顔の下にはどんなものが隠されているんだろうか? もし機会を得たならいつものように裂くんじゃなく、きれいなあの皮膚をちょっとずつ剥いでいくのもいいかもしれない。うん、きっとそれがいいかも。
「うわっ!」
そんなことを考えていると、どこかへと落下していた。
注意を怠った自分には腹立たしさしか感じないが、痛みを放つ箇所をさすり上げながら見回すと、土しかない。
落ちたのはどうやら地面を掘った穴のようだ。
穴の底は思うより深く、這い出ようにも触れた箇所がその場から崩れ落ちていく。長方形に掘られたそれは墓穴を想像させるが、自分がここに入るのはまだずっと先でしかないと奈津川は思う。すぐに助けを呼ばなくてはならなかった。
「おーい、君。こっちに来て助けてくれよー」
呼びかけると、しばらくして穴の淵に立った少女の顔が覗く。
その背後には月も星もなく、白い顔がより美しく見える。
邪な欲求が再び迫り上がることになるが、色々と想像して愉しむのはここから出てからの方がいいに違いなかった。
「わっ、なんだよ、やめてくれよ!」
しかし突然頭上から土が降る。
抗議の声を上げてもそれは止まず、より強く降り注いでくる。
「ねぇ! 聞こえてないのかい? やめてくれって!」
もう一度叫ぶが、土は止まない。その中どうにか見上げるが、少女の姿は土の向こうに霞むだけだ。
身体はみるみる土で埋められ、手足の自由を奪われていく。
湿った土は顔にも降り注ぎ、その度に呼吸を困難にさせ、息を詰まらせた。
「も、もうやめてくれよ……これ以上されると……」
気づけば土の表面にはもう顔しか出ていない。
でも口を開けば、黙れとでも言わんばかりに土がまた降り注ぐ。
「やめろと言われても、私は何もしていない」
上からやっと少女の声が届いた。だが姿を見るのは未だ叶わず、けれど彼女が嘘をついているのは分かっていた。
「嘘だ……もう本当にやめてくれ……こんなこと君がやらなければ一体誰がやるんだ? 本当にもうやめてほしいんだ……身体が一ミリも動かせないし、息もできない……」
「あなたにそう言われても、私は本当に何もしていない。ただ『彼ら』がそうしたいと言っただけ」
奈津川は無情に降り落ちる土の中で目を凝らした。
その向こうにこれまで見えなかったものがぼんやり映り込む。
少女の足元、穴の周囲に人影が見える。
『彼ら』は掌で土を掬うと、穴の中へ延々放り込み続けている。
その姿は五人。
彼らの姿を奈津川は見たことがあった。
彼らの全てを覗き見て、彼らの中身まで覗き見て、そして充分満足を漁った後に自らが屠った相手だった。
「お、お前達……」
彼らの顔には驚愕も恐怖もなかった。
自らが脳裏に刻み込んだそれが欠片もない。
悲しみすら見えないその顔には、何の表情も浮かんでいなかった。
「や、やめろ、やめてくれ……その顔はやめるんだ……」
自分の表情が驚愕と恐怖に染まっていくのを奈津川は感じていた。
それらが彼らの最期の表情と気づいても、やめられなかった。
何度見てもそこにあるのは彼らの《無表情》。
自分に向き続けたそれが、彼らの顔にあるそのことに耐えられなかった。
どうしてだ? どうしてなんだ?
あの時あんなにも僕の記憶を刻んだはずなのに。僕はただほんのちょっとだけ誰かの心に残るのを望んだだけだ。そんなささやかなもの願っただけの僕が、どうしてこんな目に!
心で叫ぶと、降る土が突如止む。
呼吸は可能になった。窒息の恐怖からも逃れられていた。
でも首まで埋まる身体は今も一ミリも動かせなかった。
「君、助けてくれ!」
最後の望みをかけてもう一度少女に請うが、その姿は既にない。
ここにいるのは自分を見下ろす彼らだけ。
彼らは自分を見ている。
何も映さない瞳でずっと見ている。
誰かに見られ、記憶に残されるのを望んでいた。
だがそのことに初めて身を捩らすような恐怖を感じた。
「うわああああああああああああああああっ」
本物の絶叫が喉から迸った。
しかし何を願っても目前の光景は変わらない。
身動きも不可能なこの場所で、自分はこれからも無表情の彼らに見られて過ごす。
そのあまりにもの恐怖に土の中で失禁した。
再度絶叫を上げるも、それが既に無意味であるのは分かっていた。
この場所に終わりは永遠に来ない。
自分に与えられる赦しも決して存在しない。
彼らの表情を閉じられない瞳で直視することしか、自分にはもう許されていなかった。
「た、助けてくれ……」
一体どれだけその言葉を彼らから聞かされただろう。
闇色に染まった場所で身動きもできず、それを呟き続けなければならないことを奈津川はようやく悟った。
◇◇◇◇
「あいつに何をした……櫂」
耳元に届いた秋の声に櫂は顔を上げた。
薄暗いキッチンを見渡せば、この家の殺人者は部屋の隅で膝を抱えて震えている。
自分は何もしていなかった。
自分は『彼ら』の中継装置になっただけだ。
でもあの男がもう誰にも身勝手な振る舞いをできないのは、確実な事実として感じ取っていた。願うのを赦されるなら、『彼ら』に見守られながら男が罪を贖い続けることを望んだ。
「……櫂」
もう一度秋の声が届く。
櫂は振り返らずに相手を思った。
今の光景を彼もあの大きな木の下で見ていたはずだ。
誰が、どうやって、そうしたか。
そこにいる相手がどんな生きものであるか、彼は知ったはずだ。
怯えられても構わなかった。自分がそういう生きものであるのは自らの中に延々と息づいてきた、逃れられない現実でしかなかった。
「櫂、俺……」
しかし手には温かい掌が触れた。そのまま掴まれ、それには躊躇しか覚えなかったが櫂は結局相手を振り返る。
「俺……」
相手の言葉は続かないが、彼の心は分かっていた。
でもここでもうさようならだ。
ずっと感じ続けた自分の終わりがすぐそこに来ていると分かる。受け入れ難い事実でも、それも逃れられない現実だった。
「秋……」
呼びかけるが、喉に詰まるような掠れ声に相手の翳りが濃くなる。
彼はいつも闇に怯えていた。
今なら彼が何に心を痛めていたか分かる。
もう何もしてあげられることはないけれど『それ』を遠離けることは、今の自分にもできるはずだった。
「秋」
「なんだ……櫂」
「あなたの傍に消えない闇なんかない。それはその失くした方の瞳で見れば分かる。そこには何もないって分かる」
繋いだ手を見下ろすと、彼も見下ろす。
相手は何かを引き寄せるように強く握り返すが、櫂は何も応えられず繋がれた手を見ていた。
それは段々と色味を失くし、存在さえ薄くしていく。
櫂、と呼ぶ声が最後に聞こえた気がした。
気づけば、見たこともない場所に立っている。
薄曇りの街の中、そこには誰も姿もない。
しかし灰色に煙る街を先導するように坂を駆け上がっていく、ピンク髪の少女の後ろ姿が見えた。
その姿を追いかけていけば、もしかしたら彼女にもう一度会えるかもしれない。
そんな望みが過ぎる。
でも自分は彼女と同じ場所へは行ってはいけない気がした。
誰もいない薄曇りの街の中。
櫂は下っていく坂を見下ろす。
色味のないその場所で、永遠にも感じられるほど長く目を閉じた。
〈5.闇の底にあるものは 了〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます