2.

「久吾、久しぶりね。ねぇ……でもどうしたの? 黙ってしまって。私はとてもあなたに会いたかったわ。あなたはどう? 私に会えなくて寂しかった? ねぇ、何か言ってよ久吾、これじゃ私ひとりが喋って馬鹿みたいじゃない?」


 死体を前に語りかける美怜を久吾は見ていた。

 笑みを湛える表情は、目前に死体があるとは欠片も窺わせない。

 だがその姿がまぼろしでないのは確かだった。

 周囲にいつもの幻覚の様相が漂っていようと、彼女の姿形が十三年前と何ひとつ変わってなかろうと、そこにある女の姿は現実のものだった。


「ねぇ久吾」

 歩み寄る美怜の手が頬に触れ、眼鏡を奪う。

 途端に左の視界がぼやけるが、残された視力は白い手を映すだけで身体は棒立ちのままだ。

「……あの夜の、視力までは。あの人が……理が、あまりにも大きな憎しみを込めたから」

「あんた、一体何を言ってる……?」

 久方振りに聞いた父の名に久吾は動揺を覚えた。

 呟く声も自らのものとは思えないほどに嗄れ、しかし相手に問いかけながらも身体の奥では何かが疼いていた。闇に潜むそれはすぐに消え去るただの予感なのか、埋葬したはずのものが地の底から這い出ようとしているのか。

 喉は渇きを覚えるだけで、言葉を吐き出そうともしない。

 久吾は逃避をするように床上で死に絶える男に目を移す。僅かな時間稼ぎにしかならないと分かっていたが、対峙する相手に問いかけた。


「これは、お前がやったのか……?」

 向けた問いに美怜は気怠げな視線を落とす。

 彼女が漏らした微かな笑い声が聞こえた気がした。

「彼は……藤堂得蘭は、あなたに執着して固執していた……の後、彼は行方不明になったあなたを執念で見つけ出し、後も監視し続け、ありもしない借金を持ち出して関わり続けた……」


 届く声は脳裏に蒙昧とした霧を呼び、失ったものを引き摺り出そうとしている。

 いつも自分に敵視する視線を向けていた、藤堂得蘭。

 覚えのある少年の端整な横顔が記憶の霧の中を過ぎる。

 その光景は過去のひび割れから漏れ出ようとしたが、曖昧な痕跡だけを残して再び闇に消えていった。


「……藤堂はも知っていた……そのことに本質的な恐れは感じてなかったけれど、彼はも知っていた……それをいずれ利用するであろうあの男の思惑は回避しなければならないものだった。処遇はいつか考えなければならないと思っていた……」

 辻褄の合わない昏い何かが背に寄り添おうとしていた。

 言葉が終わりを迎えれば、束の間静寂が生まれる。

 今も寄り添うその何かを焦点の合わない視界で捉えようとすれば、それは自分と同じ形をしていた。


「久吾」

 名を呼ばれ、傍にある女の顔を久吾は見下ろす。

 櫂とは似ているようで似ていないが、悲しげなその面影はどちらにもある。

 彼女の唇がためらうように微か頬に触れ、離れていった。

「本当に全部忘れてしまったのね、久吾……でもそれが正しくないとしても、あなたにとってそうあることが心の平穏だった。苦痛は消えることはないけれども」

 深い闇と悲しみを秘めた彼女の声。

 忘れたくて忘れたのか、彼女の言葉どおりに生きていくために忘れたのか。

 だが苦痛は消えることがない。

 願っても消されなかった遠い過去は、今記憶の底から這い出て、蘇っていた。


 十七年前。

 美怜と二十四才の自分は恋に落ちた。

 彼女が父、理の恋人であるのは知っていたが、思いを止めることができなかった。

 一年後、櫂が生まれ、隠匿し続けた関係は誰にも気づかれることなくその後も継続されたが、父は本当は全てを知っていた。櫂の二才の誕生日、彼に暴発したように関係を曝かれ、緻密な事前の計画によって職も住居も失わされた自分は美怜と櫂を連れて、執拗に自分達を追い始めた父から逃げ続けることしかできなかった。

 各地を転々と渡り歩き、ある日も辿りついた遠い街で古びたモーテルに身を隠したが、それも一時だけのものだった。


 深夜、力任せに扉を開けて現れた父。その形相は怖ろしいものでしかなかったが、それを彼に刻ませたのは自分でしかなかった。父の口から迸ったのは、これまで耳にしたこともなかった怒号、罵声。思わず恐れを為し、外に走り出たが彼が振り翳したナイフで左目を刺され、為す術もなく床に倒れた。どくどくと血が溢れ出し、瞬く間に床を汚した。迫り来る逃れられない死を実感しながらも、あてのない逃亡の終わりに安堵も感じていた。

 消えゆく視界は美怜が父を殺す瞬間も捉えていた。絶命の喘ぎを上げる父から、彼女が心臓を取り出す姿も見えた。しかし残された最後の記憶は彼女の悲しげな表情と、何も気づかずにベッドで眠る《自分の娘》、櫂の寝顔だった。


「……あの時、力が足りずにあなたを十五才の姿でしか蘇らせられなかった……そしてあなたを蘇らせた後、私には何も残っていなかった……」

 次に得た記憶は三才の櫂を抱え、《彼女の兄として》右往左往する十五才の自分だった。

 二十八才で一度人生を終え、十五才になってそこから新たな人生を上書きした。

 だが失われたはずの過去の記憶は、自分が一度死んだ年齢に近づく毎に蘇ろうとしていた。

 忘れたくても、忘れることなど許されない。

 死という闇から継続する、これが自分の本当の過去だった。


「櫂は、あの子は……」

 美怜の呟きが届いた。

 櫂は別の意味でも血を分けた相手だった。

 彼女を愛していた。そこには許されない感情もあったが、それも消せない真実だった。

「……櫂は恐らくもう長くはない。あなたと私、から。きっとあの子もそれを分かってる……でもあの子を……櫂を救う方法はある……」

 美怜が手を取り、自分の胸に当てさせる。

 届く鼓動は弱く、彼女に残された時間も既に多くないことを伝えていた。

「私の心臓を彼女に与えればいい」

「……心臓を……?」

「他の誰でもなく、私の心臓を抉って彼女に与える。そうすれば彼女は人として残された何かを失うけれど、今後も生き続けることができる……選んで、久吾。あなたがどちらを選んでも私は受け入れる。選ぶのよ、久吾」


 長い夜の二度目の選択だった。

 久吾は顔を上げ、自らが過去愛した女を見る。

 彼女の顔には何も見えない。諦めも絶望も懇願もない。自分がどちらを選ぶか分かっていても、彼女はその顔に何も顕さないはずだった。

「俺は……」

 答えを呟く自らの声を久吾は聞いた。

 それを受け取る相手の表情に何かを見ることはやはりできなかった。

 安堵が微かに見えた気がしたが、それは自分が望んだまぼろしでしかなかった。

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