5.闇の底にあるものは
1.
秋は白い家の前に立っていた。
時刻は深夜に近い。
胸に留まる不安は今も消えなかったが、その正体が微かに見えた気がしていた。
この数日、漠然としたそれに感情を掻き乱されていた。自らが抱き続けた畏れを取り去れるのではないかと希望を感じながらも、その思いを持ち続けていた。
自らに巣くう畏れを見抜いた
「……秋」
届いた声に顔を上げ、秋は櫂の姿を目に映した。
彼女が隣にいることで心を強く持てるが、一緒に来たことには少し後悔を感じていた。自らの弱さが招いた問題に彼女を巻き込もうとしている。事態を改善するには本来なら一人で向き合わなければならないものだった。
守りたいと言ってくれた彼女の思いを無下にはしないが、同様の思いは自分にもある。この先もし予期せぬ事態が起これば、それから彼女を遠離けるのが自分の役目のはずだった。目的を果たし彼女の思いに応えるためにも、いつまでもこの場で迷っていては何も始まらなかった。
「……こんばんはー」
呼び鈴を何度か鳴らしたが応答はなく、扉にも鍵は掛かっていなかった。
意を決して男の家の扉を開くが、来訪者を出迎えたのは室内の闇だった。
玄関もその先にあるリビングも明かりが消され、呼びかけにも応答はない。
不在も考えたが、こちらを呼び出しておきながらそれはあり得なく、何より家の中に誰かがいるのは確かだった。
「なぁ、これは一体何の音だ……?」
家中に響き渡る異質な音がどこかからしていた。
隣に問いかけるも、彼女も疑問だけを戻す。
秋は暗い室内を見回した。
前回来た時に家の間取りは大体把握していた。正面に見える扉の先はリビング、左手側は客間と二階に続く階段、右手側にはキッチンやバスルームなどの水回りが集結していたはずだ。
音は右方向から響いてくる。
所在の知れない家の主の居場所も恐らくそこであるはずだった。
「……俺はあっちの方に行ってみる。櫂はここで待ってるか?」
「……ううん、一緒に行く」
戻る返事に一瞬惑うが、秋は頷き返して暗い廊下を先導した。
奈津川の家は広かった。
彼は一人暮らしだが、一人で住むにはこの家は大きすぎる。リビングに数年前に撮ったらしき写真が飾られていたのを思い出す。写るのは奈津川とその両親と思われる中年の男女。彼らの姿は今もその時も見えなかったが、以前はこの家で三人で暮らしていたのかもしれなかった。
壁伝いにキッチンを通り過ぎ、唯一灯るバスルームの照明が目に入ると音はより大きくなった。
廊下には作業場で木を切断する時のような音が反響している。
秋は脱衣所に立ち、バスルームの戸に触れるが再び惑いに襲われる。でもそれを振り払って一気に開いた。
「あれ? 秋君?」
扉の音に気づいたのか奈津川が振り返る。
それと同時に鳴り続けた音も止んだ。
刺すような照明の明るさに右目が眩むが、それをも上回る勢いで視界に入り込んだのは辺りに散る血の色だった。
振り返った男の手も血に染まっている。
身に纏うビニールエプロンも滴る血に濡れ、だがそこにある笑顔はいつもと寸分変わりがなかった。
「随分来るのが早かったんだねぇ。僕の方はまだ作業が終わってないんだよ。これを使うのが初めてで、ちょっと手間取っちゃって」
奈津川は笑顔のまま、手にした電動ノコギリを掲げる。猟奇映画の一場面のようなその光景には言葉もないが、相手に気にする様子は欠片もない。
「けど何事にも初めてってあるものだよね。緊急用に用意してたけど、やっぱり準備不足だったみたいだよ。でもまぁこれも今後に生かさないとね」
壁や床には血が飛び散り、男の足元には包丁やナイフが散乱している。
周囲は惨劇の様相でしかないが、秋はこの場に足を踏み入れてからずっとバスタブから目を離せないでいた。
白い壁を染める血や肉片。
それらが滴り落ちるバスタブに無造作に放り込まれた華奢な腕や脚が見える。
生気のないそれらの狭間から、微かに覗くピンク色の髪がある。
「嘘、だろ……?」
呟きは無意識に漏れ、一歩出た足はバスタブの中にある真実を確かめるべく進んでいた。
でも既にその必要がないのは分かっていた。そこにいるのは自分の片割れだった。しかしだからこそこの目で見て、確かめて知らなくてはならなかった。
「……秋、待って」
「櫂、止めるな……その手を離してくれ」
「秋、駄目だよ、見ちゃいけない。秋はこれからも彼女が覚えていてほしい彼女だけを覚えてなきゃならない」
進む足は櫂の手によって止められていた。拒絶を顕しても、手首を掴み取った力は弛むこともない。
振り返って見た表情は深い感情に染まっていた。
触れた彼女の手が氷のように冷たかった。だが冷たくとも、それは生きている者が持つ強い意思と力強さのある手だった。
「ねぇ、お話し中のところ悪いけど、秋君、これ」
届いた声に秋は目を向けた。歩み寄った男は猫の形をした携帯ライトを掌に載せて差し出している。その顔には未だ消えない笑みがあった。
「これがさっき君への電話で言ってたプレゼントだよ。このライトを見つけた時、僕、思わずお店で人の目も忘れて歓喜しちゃったよ。あー、秋君にもこんな可愛いお供がいれば、闇も少しは怖くなくなるかもしれないなぁって。あっ、ごめん。つい汚れた手で触っちゃったから血がついちゃったかも……」
秋は信じられない思いで男を見た。
混濁する感情は混沌を極めようとしたが、物事を見る余地は僅か残っていた。目の前の男は自分が畏れる闇とはまた別の得体の知れない、《何か》だった。何も気づかず関わりを持とうとしていた自分は無邪気な痴れ者でしかなかった。
「あれ? 秋君、なんだか機嫌が悪い? もしかしてそれってプレゼントに血がついちゃったことじゃなくて、コレのこと……?」
「コレ、だって……? お前、そこにいるのは俺の……」
「ああ、そうそう、そうだったよ。ごめんねぇ、秋君。僕、自分の中でどうでもよくなっちゃったことは、どんどん頭の中から薄れていっちゃうんだよねぇ」
「お前……」
「あー、あのさぁ秋君、君、なんだかさっきからちょっと感じ悪くない? 僕、猫ちゃんのライトのお礼もまだ言われてないし。ま、でもここは場所が悪い。出ようか」
奈津川は外したエプロンをその場に放り出すと、バスルームを出ていく。
秋は後を追うしかなかったが キッチンに向かった男は早速石鹸やブラシを使い、血染めの手を洗い始めている。鼻唄が聞こえ、耳を疑ったがその横顔には微笑さえ浮かんでいた。
「秋君、僕ね、昔からとても地味な少年だった。傍にいても苦にならないけど、いなくても苦にならない。そんな感じだね。だから僕は自分を変えたくて、他人ともっと関わりを持とうと努力を始めた。けど元々どうでもいい存在でしかなった十四才の僕は、結局みんなのパシリ以上の存在にはなれなかったんだよ。僕はそんな自分を思い知らされてがっかりして、落胆しかできなかったけど、あの事件が起こった。僕が親しくなりたいと常日頃から憧れていた華やかな同級生達が、ある日仲間の一人を死に追いやってしまったんだ」
手を洗い終えた男は振り返ると、指の間まで念入りにタオルで拭っている。
向かい合う男の目には何も見えない。
でも元よりそこには何も無かったかもしれなかった。
「昨今は他者への批難が一気に拡散するご時世だよ。同級生達には当然抗議が向けられて、それは彼らの末端にいただけの僕にも向いた。中傷や隠しもしない疑いの目。何も知らないくせにそんなことができるなんて、人ってすごいんだなぁって何度も実感した瞬間だったよ。だけど真相はね、死んだ彼が仲間に疑いが向くように仕向けて自殺した。そんなのだったんだよ。真実が明らかになれば波が引くように状況は変わったけど、前々から僕に関心のなかった大学教授の父さんと専業主婦の母さんは、世間体を気にして二人して田舎に引っ込んでしまった。今も自給自足の生活をして毎日を過ごしてるらしいけど、作物の心配はしても僕の心配はしないんだよね。でもそんなことはもういいんだ。僕はこの一件の後、自分の中にあった素晴らしいものを発見することができたんだからね」
男はその後も時間を忘れたように滔々と語った。
鏡の中にいるもう一人の自分への憧れ。
そのもう一人への強い憧れから、より自らを磨こうと他人を観察し続けた結果、得たのは相手の心情を透かすように見られるようになったことだった。
「他人の心やその中身、好きなものや弱点なんか段々見えてきたんだ。それはもうびっくりするほど不思議なくらいみるみるとね。それを携えて相手に近づくと、向こうの心の内側にまでとてもよく入り込めることが分かったんだ。それって秋君も実感したよね?」
男は何度も浮かべてみせた笑みを見せる。幾度も目にしたはずのそれは今夜この場でおぞましい形を作っていた。
「だけどね、そのうちにそれだけじゃ物足りなくなって、僕は一歩前に進むことにしたんだ。相手をもっとよく見て、もっと内側まで観察したい。言わば目標のアップグレードって感じだね。僕はこの一年の間に五人の人間を観察してきた。今考えてもどれもいい体験だったし、いい成果を生み出すことができたと思ってる。結果的には連続殺人事件って呼ばれることになっちゃったけど、うん、どれも素敵な経験だったと今でも感慨深く思ってるよ。だからねぇ秋君、君にもできれば分かってほしいよ。このことは僕の思いが強く発露してしまっただけ、たったそれだけの出来事でしかないんだよ。でもまぁ……例外も確かにあることはあるね。君の妹に関しては少しは悪かったと思ってるよ。だけど彼女、いつかきっと僕に危害を及ぼすと思ったんだ。だから仕方がないよね」
長い話を語り終えた男を秋は見ていた。
しかし全てがどうでもいい話でしかなかった。
この男がどんな人生を歩んでようが、これからどうやって生きようが、自分には何の関係もない。
まともじゃないまともじゃないと言われ続けて自分でもそう思っていたが、この男とは同列に語られたくなかった。
長いクソ話はキ×ガイ男のただの与太話だ。
でも一つの確信は持てた。
今自分にあるのはこの男に対する殺意だけだ。
この男を今ここで殺す。
これはいつもやっていることの延長線上にあるものにすぎない。
過剰な暴力で人を殺めても、僅か何かが行きすぎただけだ。
そう思い込みたい自分がいるのも確かだが、この意思に間違いはないはずだった。
「ああ、喋りすぎて少し喉が渇いたよ。君達も何か飲む?」
男は問いかけてこちらに背を向ける。
秋は傍のナイフ立てから一本奪うと、その背後に忍び寄った。この行いの結果次第で相手と同列になろうと今は何も構わない。その先を考えることなど、今は必要なかった。
「秋」
「櫂、やめろ。今度は止めるな」
密やかな声に拒否を示すが、ひやりとした手が手の甲に触れる。
そこから伝る力強さは先程と全く異なるものでしかなかった。
「秋、あなたはこんなことしなくていい」
「しなくていい? じゃ一体誰がやるんだ? 俺がやらなきゃ留可が……」
「秋にはそんなことやらせない」
谺するように彼女の声が響いた。
内耳にまで響くそれが消え去ると、秋の視界を覆っていたのは何もない闇だった。
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