8.九条坂 その5
夜明けには、まだ少し遠い。
今夜二度目のビルは夜空に霞んで、幻のように見えた。
車を正面に乗り捨て、一度目と同じくエレベーターで上階に向かう。
何度も歩いた長い廊下が、訪れる者を静寂の中で待ち受けていた。
廊下を歩き始めると、何かが足元に落ちた。
見遣ったそれは自分の携帯電話だった。
診療所に置き去りにした上着に入れていたはずだが、無意識に身に着けていたのだろうか。
その時誰かに呼ばれた気がして周囲を見回すが、誰の姿もない。
電話を拾い上げ、確認した履歴には櫻木からの着信が並んでいた。
他には同様に羅列する履歴と音声伝言が一件。送り主の名を見れば溜息が漏れそうになるが、とりあえず再生してみる。誰それが変だ、怪しい、と綴る聞き覚えある声が届くが、全体的にはよく分からない伝言だった。
「櫻木、俺だ」
『あ、九条坂さん、すみません、こんな時間に』
続けて櫻木に電話を繋ぐと、相手は待ち構えていたように出る。
背後の音から署内にいると分かるが、家に戻って休めとはもう言えなかった。
「……手紙の指紋の件か?」
『はい。まず封筒の方ですが、そこからは被害者と沙織さんのものしか見つかりませんでした。中の便箋についても大半は二人のものでしたが、その中に一つだけ、別人の指紋が検出されました。鮮明でなかった上に部分指紋だったので期待薄でしたが、犯歴者と照合したところ、六年前の少年犯罪の容疑者だった二十才の男と一致しました。氏名は奈津川葉月。被害者との関係は現時点で不明ですが、何もない中でやっと浮かび上がった手がかりです。夜明けを待って男の住居に向かうつもりです』
簡潔な報告が電話越しに届くが、久吾は最後まで聞いていなかった。
今聞いたその名を今程耳にしたばかりだ。
《名前は奈津川葉月。久吾、言ったよ。必ず確かめて》
いつもと違う明瞭な声で告げられた言葉が耳の奥で蘇っていた。
「櫻木」
『はい?』
「今すぐその男の家に向かうんだ。俺もすぐ行く」
『え? 一体どうしたんですか? あ……いえ、分かりました!』
惑うも直後に了承を寄越す相棒の声が届く。
不穏な予感がしていた。だがそれは既に予感ではなく、現実となっているかもしれなかった。
現在唯一捜査線上に浮かんだ男。
時を同じくして、別の場からもその名を聞くこととなった。
何度もかけられた電話。無視続けた自分。
不穏はその相手だけでなく、いつも一緒にいる
久吾は電話を切ると、エレベーターに向かった。
今自分が優先すべきは、ここにいることではなかった。
長い廊下をもどかしく感じながら先を急ぐが、不意に足が止まる。
何かに引き寄せられるように振り返れば、藤堂の部屋の扉がゆっくり開いていくところだった。
開き切った扉向こうから床を舐めるように赤いものが流れ出てくる。
止めどなく溢れるそれは大量の血液だった。
「これは、一体……」
言葉は失われるが、足は歩み始めていた。
血に塗れた部屋、血で覆われた両手。
あの幻覚と同じにおいがしていた。
その残滓は抗おうとも瞼の裏に幾度もちらつき、消えることもない。
辿りついた扉の先。
そこには血溜まりと、その中に倒れ込む男の姿がある。
見開かれた目の眼球にまで血が飛び散っている。
男は藤堂だった。
喉を深く切り裂かれ、息絶えているのは触れなくても分かった。
「長かったわね、久吾」
呼びかけに顔を上げれば、女がいる。
決して忘れるはずはなかったが、久吾は己の目を疑う。
死んだ男の傍らには、十三年前と何ひとつ変わらぬ姿の雨宮美怜が立っていた。
〈4.堕ちる暗闇 了〉
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