7.九条坂 その4

 血のついた拳で扉を何度も叩くと、しばらくして明かりが灯る。

 四番地の外れにある小さな診療所は、薄明かりの下に潜むように建っていた。

 色褪せたカーテンが僅か開き、くすんだガラス向こうに不機嫌そうな顔が見える。

 扉は開けられたが、望まぬ客を出迎える声が響いた。


「こんな時間にうるさいよ、久吾」

「先生、頼む。怪我人を診てくれ」

「頼むだって? どうせ嫌だって言ったって診させるんだろ? 早く連れてきな」

 深夜でも白衣姿の相手は煙草を咥え、燐寸で火を点けながら暗い廊下の先に消える。

 車に戻り、久吾はケイラを抱きかかえて奥にある処置室に向かった。咥え煙草の相手に指示されながら寝台に寝かせると、再度不機嫌な声が届いた。


「久吾、あんたいつまでそこにいるつもりだ。私は構わないが、碌でもない記憶しか残らないよ」

 四番地の外れにこの『火華かはな診療所』を構える火華百合ゆりは、久吾が十五の時から知る相手だった。今はもう六十に手が届く頃のはずだが、その時から相貌は変わっていない気がしていた。

「ほら、とっとと行きな。そっちの待合室で暇潰しでもしてろ」

 彼女はこちらも気にせず処置を始め、久吾は追い出されるように場を離れると非常灯の灯る待合室の長椅子に腰を下ろした。


 百合は表向きはただの町医者だが、訳ありの怪我人や病人を治療することで有名だった。

 腕は確かだが、彼女が表の道で真っ当な評価を得ることはない。

 彼女と知り合うきっかけになったのは、櫂がいつまでも治らない風邪をこじらせた時だった。高熱の下がらない櫂を医者に診せたくとも、十五の自分には金がなかった。

 困り果てた時に知り合いの路上生活者から百合の噂を聞き、櫂を背負って彼女の元を訪ねた。「金はいつでもいい」と言って百合は診てくれ、それ以来関わりは続いているが高額でなくとも診療代は当時からきっちり取り立てられていた。警官になってからは密かにそれが割り増しされている事実さえある。


「終わったよ」

 しばらくの後、凝り固まった首を回しながら百合が処置室から出てきた。

 疲れた顔をしているが、「あんた酷い顔してるよ」と逆に言われ、自分の方が指摘対象であると知る。

「……彼女の容態は?」

「まぁ、手放しで喜べるほどよくはないが、最悪でもない。彼女は若くて丈夫だ。運が味方してくれれば回復は大きく見込めるだろうよ」

 答えると百合は煙草の火を点け、大きく煙を吐く。暫しの休憩を堪能する相手に久吾は伏せた視線を向けた。


「先生……彼女のこと、頼めるか?」

「ああ? どうせ嫌だって言ったって、あんたはお願いするんだろ?」

 そう言って笑いもしない相手は本当にうんざりといった表情を浮かべる。

 職業柄彼女は多くを聞かない。初めて関わりを持った時も親のいない自分達を詮索もしなければ、それ以上関わってこようともしなかった。

 医者としての彼女しか知らないがその立場であるからこそ、彼女との距離感が今も保たれているのかもしれない。だがそれが今後も続くかは分からなかった。


「あの子、なんて名だ?」

「ケイラだ、蔓橋ケイラ」

「あんたの恋人か?」

「いいや、多分違う……」

「多分? 多分って一体どういう意味だよ。なんだか有耶無耶ではっきりしないね」

「彼女の方がそう呼ばれるのを拒否するはずだ」

「はぁ? 彼女に嫌われるようなことでもしたか?」

「……彼女に憎まれるようなことをした」

 伝えると、馬鹿だねぇ、と呟く声が聞こえた。

 それに対しては何も言えない。

 彼女の言葉どおりの事実しかない。

 これについて考えることすら、自らの不実へと全て繋がる気がした。


「先生、悪いがもう一つ頼みがある。夜が明けたらこの男に連絡して彼女のことを伝えてくれないか?」

 久吾は立ち上がると、隅の公衆電話に備えつけられた紙に記憶する番号と名を記した。

「呉……? この人にかい?」

 渡したメモを見て訊ねる相手に久吾は頷き返す。

 あの男ならケイラを助けてくれる。多くを伝えずとも彼は察し、判断するはずだった。


「じゃ、後は頼む、先生」

「ああ、本当は嫌だけどね」

 再び笑いもしない相手に背を向け、去ろうとしたが呼び止める声が届く。

「久吾、あんたちょっと待ってな。その格好少し酷すぎるよ。一応警官だろ」

 告げた百合は診察室に消え、その言葉に久吾は自分を見下ろす。

 シャツもズボンも血で染まっている。今まで気が回らずに気づかなかったが、街でこんな姿を見かければ間違いなく職務質問の対象だった。


「ほら、どこぞのやくざものが置いてったヤツだ。ちょっと臭うが、それよりマシだ」

 戻った百合が皺になったシャツを差し出していた。確かに言葉どおりの代物でしかなかったが数段マシなのも確かだった。礼を言ってそれに着替え、今度こそ診療所を後にする。

「久吾、今日の金、必ず払いに来いよ」

 扉の隙間からは変わらぬ声が届いた。

 それはどこかに向かう自分への彼女なりの餞の言葉だと久吾は思った。

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