6.九条坂 その3
久吾は夜空にそびえるビルを仰ぐと、数十分前を思い返していた。
既に出来上がった酔っぱらいを避けつつ『宵』に到着した時刻は、十時になろうかという頃だった。
見慣れた扉の先にはいつもの相手が待っていると思っていた。だがそこには客の姿もなければ主の姿もなく、見えない相手の所在が買い出しに行ったのでも、奥でつまみを作っている訳でもないのは考えるまでもなかった。
椅子は倒れ、割れたグラスや皿が床に散乱し、瓶から零れた酒の匂いが強く香っていた。
直後携帯電話が鳴り響いていた。『クソ野郎』からの電話を初めて急かされるように出た。
『九条坂、失望だな』
「藪から棒に何のことだ、藤堂」
『私はお前に川西を捜せと命じた。なぜ報告しない』
「そのことか? するさ、じきにな。まだその時じゃないだけだ」
『もう遅い。訳は胸に手を当てなくても分かっているはずだ。だが浅薄で憐れなお前に私は一度だけ機会をやることにした』
「何を言ってるんだ? お前の言ってることが俺にはさっぱりだ」
『痛々しい足掻きは既に滑稽だ。よく考えてみろ。そんな余裕が果たして今のお前にあるか? 蔓橋ケイラはここにいる。お前が彼女に預けたものもここにある。ここに来て私に贖罪しろ。どうすれば許しを請えるかは分かっているな』
通話はそこで切れ、そして数十分後の今、久吾は夜空にそびえるビルを無言で見上げていた。
川西の所在とドラッグの行方。
行動は慎重にしたつもりだったが、足りなかったようだ。不覚だった自分を今は憂うしかないが動向を見張られていたなら、藤堂は川西の居場所も知ったはずだ。あの男の思惑は知れない。何をカードに使い、どう出るのか。この先を進むにはより慎重な判断が必要だった。
「今日は時間を守れたようだな。でもまぁそれも当然か。元々子供にも守れることだ」
部屋に辿りついた相手を真っ先に出迎えたのは藤堂の声だった。
久吾はその姿をまず捉えるが、同時に視界に入ったものには異論を唱えるしかなかった。
「それは何の真似だ、藤堂」
「保険だよ。か弱い一市民の私が刑事のお前に丸腰では対峙できないだろう?」
鈍色の銃口がこちらに向けられていた。
この国では申請すれば銃の所持は可能になる。無論審査は厳格だがこの男が正規ルートで資格を得るのも容易くすり抜けるのも、どちらも可能であるのは確かだった。
「久吾……」
微かな声を辿るとケイラの姿がある。
彼女は椅子に座らされ、両腕を背後に拘束されている。
殴られたのか頬には痣が残り、唇が切れている。
男を強く見据えると、相手は呆れたような仕種を見せた。
「あらぬ疑いだな。お前の女に手荒な真似をしたのは私じゃない。それにこれはお互い様だ。私の部下も引っ掻かれたり股間を蹴られたり、相応の被害は被っている」
「ふざけるな」
「ふざけるな? ふざけているのはお前の方だよ、九条坂。なぜお前はいつも私の指示に従わない? 私に抗えない事実も、お前が私の下僕である事実も常に明白だ。それなのにお前はいつも予測にない行動を取って、私を失望させる」
「話にならない。そんなことよりケイラを解放しろ。彼女はこの件に関係ない。川西の行方なら今すぐ教える。元より奴の命運がどうなろうと、俺にはどうでもいいことだ」
「あの男の命運などそれは私にとってもどうでもいいことだ。ドラッグ売買に手を貸したのも面倒を見たのも、単なる戯れにすぎない。親にコンプレックスを持ち続けた子供がどんな末路を辿るか見たかっただけだ。でも案の定、彼は面白くも愉しくもないものを見せてくれたよ」
連なる言葉を聞きながら、久吾はここにある現実を直視していた。
川西と引き替えに秘密を聞き出すなど、とうに不可能だった。
この男を謀るには自分はまだその闇を理解し切れていなかった。しかし今夜を脱すれば今後も機会はある。今はケイラを解放させることが最優先だった。
「藤堂、川西の居場所は……」
「九条坂、そんなことはどうでもいいと言ったろう? いいか、私は今からお前に二つの選択肢を与える。この女を今すぐこの場から解放する。それが一つ目だ」
藤堂はケイラの背後に立ち、銃口を今度は彼女の頭部に向ける。
彼女の頬を掌で撫で上げるその顔には露悪な笑みが浮かんだ。
「彼女のことは知っている。昔懇意にしていた店で一番の稼ぎ頭だった。請われればどんなことでもしてみせる子供だったからな。私も不可思議で魅力的なこの身体を使って、よく愉しませてもらったよ」
ケイラの表情は強張り、怯えが張りついてた。
彼女のそんな表情を久吾は見たことがなかった。いつも陽気で強気で自分を強く持っていた。その彼女が暗闇を怖れる子供のような表情で怯えていた。
「もう一つの選択肢は、お前が以前から欲しいと願っていたものだ」
「俺が……?」
「私が隠し持っていると、お前が疑義を持ち続けたその秘密を教えよう。それは間違いなくお前が知りたいと思っていた真実だ。どうする? 九条坂、お前はどちらを選ぶ? 彼女を解放するか、その秘密を私から得るか、二つに一つだ。選べ。私はどちらでも構わない」
突きつけられた二つの選択肢を久吾は無言で眺めていた。
長年知りたかったこの男が知る秘密。それは何に代えてでも得たかったものだった。
だがそれを選べば、
「この二つの選択肢、もしお前が秘密を選べば、この女は私が貰うとしよう。お前にはもう必要がないということだからな」
久吾はケイラの顔を見る。
そこには縋る表情があるが、その中を微かな失望が過ぎる。それは自分がどちらを選ぼうとしているか、彼女が予感しているからだった。
「藤堂、選べば俺に本当に秘密を……」
「勿論だ。お前と違って私は嘘はつかない。どうした九条坂、お前の選択はそちらでいいのか?」
「ああ、藤堂、俺に……その秘密を教えてくれ」
「了解したよ。それではもうこの女は不要ということだな。私が貰うとするよ。どうもありがとう」
その言葉が終わると銃声が響いた。
突然の発砲の衝撃には目を瞠る間もなかった。
視線を走らせた先には、声も上げず血が溢れる腹部を見下ろすケイラの姿がある。
「藤堂!」
「どうした? 何をするのかとでも言いたいのか? この女は私のものだ。どうしようと私の自由だ」
ケイラに駆け寄った久吾は彼女の腹部に自分の上着をあてがう。出血を止めようとするが、こんなことでは埒が開かないのは分かっていた。ここにいては何の術もなく終わるのは誰の目にも明らかだった。
「九条坂、そういえば地下に私の車がある。銀のメルセデスだ。使うか?」
「寄越せ!」
笑みながらキーを揺らす相手に殴りかかる暇もなかった。
キーを奪い取り、拘束を外したケイラを抱き上げて部屋を横切る。
「なぁ、やはりお前は落胆に足る男だったよ、久吾」
届いた声に一瞬足を止めるが、記憶に留める必要もなかった。
扉を開け、エレベーターに乗り込んで地下へと向かう。その間も痛みに喘ぐケイラの呻きは止まることがなかった。
「久吾……」
「ケイラ、喋るな」
力ない声には不穏が増す。だが自分がここでできることもない。
「久吾……」
「なんだ? ケイラ」
「あんたって、やっぱりひどい男……」
呟いて目を閉じ、彼女はそのまま気を失う。それに何も答えられなかったが、彼女が再び目覚めても自分が言う言葉はもう何もなかった。
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