5.秋 その2
向こうから会いたいと言われたのは、初めての気がしていた。
いつも自分の方からやや強引に約束を取りつけ、会っていた気もする。
夜も深まる時刻、秋は後ろを歩く櫂を時折気にしながらも少しの苛立ちを感じていた。
今日の彼女は珍しく制服ではなかった。いつもは学校帰りに会うことが多いからそうなるのは確かだが、今夜の彼女は白いシャツにチェックのスカートと制服とあまり変わらない服装であるものの、秋にとっては初めて見る櫂の私服だった。
「……秋」
「なんだよ」
呼びかけに応える声が、ついぶっきらぼうになる。
会えたのはうれしいが、手放しでは喜べない事実もある。
昨日の留可との件、彼女はそれを気にしている。会いたいと言われた理由が関係修復を願ってのものと思えば彼女の優しさを感じるが、こういったことがなければ会いたいと言われないことには、もやもやした感情が残る。
「秋、留可とのこと……」
「ああ分かってるよ、櫂が何を言いたいかは。だけどあんなの珍しいことでもない。だから櫂が特別気にすることでもない」
相手の言葉を封じる自分には器の小ささを感じる。しかし今日は色々と気が回らなかった。でも気が回らないのは今日だけでなく、ここ数日の自分はいつも苛々してより不安定だった。
「なぁ櫂、九条坂とは喧嘩したりする?」
あてもなく歩く一番地の大通りはこんな時間でも多くの人がいた。
自分とは無関係な高級ブランド店が通りに並び、どれもきらびやかに映るが興味も意味もない。質問は彼女と男の日常に関心があった訳でも、それを知りたかったからでもなかった。黙ってしまった相手が気になったのと、沈黙の間を持たせるためのものだった。
「……久吾とはしないよ」
「へぇ、あいつとは仲いいんだ」
会話は始まるが、すぐ途切れる。
関心がないと自分には言ったが、本当は嘘だった。彼女のことをもっと知りたかった。それは鬱陶しいほど切実な願いだった。今も彼らの親密度を勝手に読み取って、嫉妬に似たものを沸き立たせただけにすぎない。そのささくれ立った感情は背後の相手にも伝わっているはずだった。
続ける言葉も発する言葉も浮かばず、何気に見たショーウインドーには通りを歩く二人の男女の姿が映っていた。
自分とは逆の目に眼帯をしただらしない服装の少年と、その背後で俯く少女。
お前さ、もっとうまくやれよ。好きな子にそんな顔させないでさ。
心内では呟きが漏れるが、こちら側にも同様でしかない光景がある。
秋は足を止めると、振り返った。
色白の彼女は今夜は一段と透けるような肌をしていた。それは顔色がよくないと言い換え可能なものだったが、その心配を敢えて口にしたくなかった。
自分は櫂のことが好きだが、彼女の多くを知っている訳ではない。
自分が九条坂に絡むのは、櫂との関係にいつも嫉妬しているからだ。
櫂はいつも自分の心を惑わす。
きっと今も誰かの心も惑わしている。
決して手に入らない相手であるのに、彼女はその範疇外でいつも自分を翻弄し続けている。
「秋……」
「なんだ、櫂」
「私、秋が何に悩んでるのかは分からない……それを想像することも残念だけどできない……だけど秋の力になりたい……どう力になっていいかも分からないけど、でももし、秋の悩みの理由がこの前助けた人、あの奈津川って人なら、私……」
「あのさぁ、ちょっと訊くけど、櫂はどうしてそう思う訳?」
「えっと……どうしてか?」
「ああ、櫂はどうしてそう思うんだ?」
通りの向こうでは車のクラクションがけたたましく鳴っている。
神経を逆撫でるようなそれが途切れると、微かな声が届いた。
「私……秋とあの人が会った時からよくない感じがしてた……訳も分からずこんなことを言ったら駄目なのは分かってるけど、だけど……」
「だけど?」
「秋とあの人が一緒にいるのは、きっとよくないことだと思う。私、秋のこと」
「俺のこと?」
「守りたいから」
目の前には意を決した表情がある。
力強くも見えるそれに秋はなぜか苛立ちを感じていた。
何も言わずに自分の傍にいてくれる可愛い女の子。
櫂のことを自分はずっとそう見ていたのかもしれないと秋は思った。
だから意思を持つ彼女を見れば、齟齬のような苛つきを覚える。その上守ってやらなければならないと思っていた相手に「好きだ」と言われることもなく、逆に守ってやると言われている。
「分かったよ櫂、それならこっちに来て俺のこと、守ってくれよ」
「えっ? 秋?」
秋は櫂の手を取ると、路地に向かった。
高級店が並ぶ通りだが、一歩裏に入れば他と変わらない。
握った手からは戸惑いが伝わったが、秋は気にせず奥に進んだ。
通りから隠れた場所まで進むと、相手の背を壁に押しつけ、当惑する両手を握り取る。
心の中では先程から同じ感情が渦巻いていた。
本当の彼女を見ていなかった自分はただの間抜けなクソ野郎でしかなかった。だったらこんな間抜けなクソ野郎の自分は、もっとクソ野郎でもいいんじゃないか?
「櫂……」
強引にキスしようと顔を近づけるが、当然驚いた相手に拒まれる結果となる。
それは当たり前の反応でしかなかったが、クソ野郎の脳味噌は思わずカッとなることしかしない。
「ヤラせろよ」
相手の顔を見下ろしながら、自分が呆れるほど最低な言葉を吐いていた。
向かい合う顔が、無論悲しそうなものになる。
本当にクソで最低でクズだ。
やけくそな思いでもう一度引き寄せると、櫂はなぜか拒まなかった。
瞳を閉じ、握った手を微かに握り返してくる。
再度顔を近づければ、何度も夢見た櫂の唇がすぐ目の前にある。
俺、ホントーにクソでサイテーでクズだ……。
だがそんな呟きが心で漏れると、滅茶苦茶で下降しかしない感情はどこかに消えていった。
「秋……」
手を離して背を向けると、その声が届く。
静かに近寄った相手はクソでサイテーでクズな男の手を取る。
それには自己嫌悪と止まらない悔恨しか繰り返されなかったが、言葉は何も出なかった。
「何も言わなくていいよ、秋」
暗い路地に彼女の声が響いた。
湿った暗がりに仄かな明かりが灯った気がしたが、それを遮るように携帯電話の呼び出し音が鳴り響いていた。
表示された名を見ても秋は無視しなかった。
心にある澱みは自分で臨まなければ誰にも見えない。ずっと目を逸らし、これからもそうしたかったが、それが沈んでいくだけの逃避であることは分かっていた。
『あ。秋君、奈津川だよ。あのさ、君にプレゼントがあるんだよね。今から僕の家に来て』
届いた声は一方的に用件を告げて途絶えた。
「櫂、俺……」
「分かってる、秋。一緒に行く」
ためらう視線は彼女を捉え、それを受け取った相手は力強い瞳で見返す。
意思を持つ相手の手に応えるように、秋はその掌を握り返した。
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