サベージ・ブラッド ー因果応報、あるいは逃れられぬ血の行方ー

４．留可

「なんで出ないの？」

　留可は携帯電話を叩きつけたい思いにかられたが、しなかった。

　ドラッグをやっていない時の自分は自制ができる。

　本来ならあんなものに頼らず日々を過ごしたかった。だが深みに填ると生半可な気持ちでは抜けられなくなる。思ったより底のないそれに片足を囚われ、気づいたら両足とも囚われていた。今は取り戻した自制心でどうにかなっているが、二度と後戻りしないよう自らをより律することが今後の最重要課題だった。

「あー、嫌になる」

　留可は昏い夜空に目を移し、投げやりに呟いた。

　自分の回りには今気がかりが多くある。けれど今呟いたのはその中のどれに対してでもなかった。

　駅前の噴水前には多くの人が行き交っている。

　その人々が行き来する合間に、こちらに縋るような気配を放つ黒い靄が見える。

　それは影のようだが、影ではない。

　自分の目には形を持って映るが、それは実体を持っていない。

　それらは昔から見えていた。

　部屋の隅、人の背後、街の陰。その正体は今でもはっきりしないが、よくないものであるのは分かっていた。彼らはこちらの都合も考えず、時に視界に入り込もうとしてくる。でも自分勝手な思いで縋ろうとするその存在を『無きものとする術』は知っていた。

　そこにあるものだとしても全てをなかったことにすれば、存在しないも同じ。

　奴らは存在を認められなければ急速に力を失っていくしかない、そんな他愛もない矮小なものの群れでしかなかった。

　昔から心は強かった。

　そうしなければ生きていけないと思えば、どんなことでも実行できた。

　でも兄は違っていた。

　自分と違って彼は剛胆なようで繊細だ。それに自分のように何かが見えたりしないから、何かがあるように思える闇にただ怯える。

　その元凶となったのは三才の頃の曖昧な記憶と思っていたが、違ったのだろうか。しかし彼の反応に隠されたものを思えば、推測は間違ってなかったのかもしれなかった。

「だから今は……」

　応答のない電話を見下ろし、留可は呟いた。

　昨日ファストフード店を出た後、数日前から様子のおかしかった兄の尾行を決行した。どこかに向かう背後を密かに尾ければ、予測したとおりに秋はあの男と会っていた。

　奈津川葉月。

　初めて会った時、その背後に薄気味悪いものを見た。

　滅茶苦茶に身体を刻まれた傷だらけの人達。その足元には爛れた肉片が垂れ続けている。

　それは一人二人ではなく、男の背後にはその影が幾人分もうつろっていた。

　彼らは何かを訴えようとしたが、相手にする気はいつもどおりなかった。

　彼らが怒りや哀しみや悲痛を訴えても、なかったことにすれば最初から存在しないも同じ。いつものように心でそう思うと、その姿もじきに見えなくなった。

　目に見えたものと、相手との因果関係を考えたことはない。見えたもの全てについて考え始めれば、いずれ自分が壊れる。

　しかし二番地の高台にある白い外壁の家。

　その家であの男は秋を笑顔で出迎えていた。

　満面の笑みで兄の肩に触れる手。だがそこに優しさなど感じず、禍々しいものしか感じ取れなかった。

　因果関係は考えたことはない。でも常にあんなものが寄り添う男と関わる秋を見れば、今は考えることが必要と思った。

　見回した周囲には、午後九時を過ぎた街の様相がある。

　噴水前には変わらず多くの人が行き交っている。待ち合わせに使われるこの場所では多くの人が誰かを待ち、やって来た待ち人と去っていく。

　前に一度、二時間以上も櫂をこの場所で待たせたことを留可は思い出す。

　その櫂は珍しく学校を休んでいた。

　不思議な気配の同級生はどんな状況にあっても、学校から逃げることをしなかった。

　時に隣から握ってくれた手。ひんやりしたあの手が救いになっていたことを、彼女はどれだけか理解してくれているだろうか。

「散漫になってるな……」

　留可は夜空を仰ぎ、独り言を呟いた。

　双子の兄のことを心が弱いと心配している。しかし本当は自分の方がもっと弱いのかもしれない。

　自分には過剰に装飾した自負があるだけにすぎない。

　冬人と秋、跡継ぎにしか興味がなかった父は、兄達に連なる名すら娘に与えなかった。留可と名づけてくれたのは母だった。突然の事故で呆気なく死んだ父などどうでもよかったが、自分の存在を認めてくれた母の死後、ドラッグに縋る日々を重ねていった。

　偽物の感覚が自分から浮上すれば、その分何も考えずに済む。それを知ってしまえば安易な逃げ道だった。でも今は逃げずにそこにあるものと対峙する時だった。偽物の薬も偽物の感覚も今の自分に必要なかった。

「あれ？　君」

　その声は雑踏に紛れて届いた。

　自分の中の何かが粟立つ感触に襲われたが、表面に出せば終わりだった。

　顔を向ければあの男、奈津川葉月が立っている。

　予想外の遭遇には動揺を感じたが、隠し果せる余裕はまだ持っていた。

「えっと確か霧原……留可ちゃんだったよね？　秋君の双子の妹の」

「ええ、そうですけど何か用ですか」

「ええっと、用って訳じゃないけど、もしそうだったら話しかけちゃ駄目かな」

「別に駄目とは言ってないです」

「そっか、それじゃあさぁ、留可ちゃん。今夜僕達、こんな多くの人がいる中でこうして出会うことができたんだよね？　それってすごいことだと思わない？　せっかくこんな素敵な偶然に恵まれたんだし、どうかな、これから僕と一緒にお茶でも」

　留可は無言で相手を見返した。

　そこには屈託ない笑顔があるが、今日も背後には血濡れの誰かが立っている。

　この男がなぜいつも笑顔でいられるのか分からなかった。

　彼らはずっと怒りの瞳で男を凝視している。無関係とは思えない彼らとの間に因果関係があるなら、自分の目に映るものは見たままではきっとない。目前の笑顔も、人当たりのよさそうな態度も、彼らの存在を透過させた先に見えてくるものが、この男の本当の性（さが）かもしれなかった。

「いいえ、私は用があるのでお断りします」

「あれれ？　なんだかさぁ僕、君に嫌われちゃってるのかな？」

「そんなことはないです。だけどそう思うってことは、あなたの方に嫌われることをした覚えでも？」

「えーっ、君に嫌われるようなこと？　そんなの僕、全然思いつかないよぉ」

　硬めの言葉を向ければ、相手はなぜかはにかむように笑う。

　それには粟立つ感触を再び覚えるが、そう感じたことすら認めたくなかった。

「留可ちゃんはちょっと他人に厳しい子なんだねぇ」

「そうですか？　普通です」

「ふふっ、そういうところが厳しいって言うんだよ」

　男は再度笑むと、「それじゃ、また今度」と言って去っていった。

　雑踏に紛れる背を見ながら、『今度』など決して訪れないことを留可は願った。

　去る背にはあの影達が寄り添う。

　昨日偶然見たテレビで知った連続殺人事件。

　周囲に無関心なせいでその事件が起きていることを昨日初めて知った。

　詳しく調べれば事件は一年前に発生し、発見された遺体はどれも著しく損傷されていたという不穏な噂のあるものだった。

　雑踏の向こうには、今消えようとする男の姿がある。

　立ち上がり、留可はその背を追った。

　あの男と傷だらけの彼らと殺人。それらに関係あるかは知りようがないが、その答えは必要と思わなかった。ここにある実感が確実なものを指し示している。あの男が秋に近づくのを阻まなくてはならないと感じたそのことだけが重要だった。

　奈津川は自宅に戻るのか、秋を尾けた時と同じ道筋を辿っている。

　人の波に紛れ、距離を取りつつも見失わないように追う。

　歩きながら携帯電話を取り出すと、留可は先程と同じ番号にかけた。だが今度も相手は出ず、仕方なく伝言を残すことにした。

「ねぇ、変な男がいる。名前は奈津川葉月。住所は二番地の紅葉（もみじ）台にある白くて大きな家。そいつは最近秋と仲よくしてる。一見無害な男に見えるけど、あいつはきっと何か隠してる。久吾、言ったよ。必ず確かめて」

　留可は電話を切ると、尾行を続行した。

　確実でないかもしれないが、保険的対応は一応取った。

　櫂の兄である九条坂は人としてはどうかと思うが、警官としては信頼できるはずだった。

　彼の背後にはいつも悲しみと死が見えていた。それに惹かれ、少し酷い男だったが彼のことが好きだった。けれどそれよりも深いものが時に見えた櫂のことが、もっと好きだったかもしれなかった。

　前を行く奈津川は繁華街の路地に向かっていく。

　人通りが減ったことに僅か危惧を覚えるが、対処の自信はあった。

　しかし突然左折した姿を追って、自分も曲がるが、一瞬見失う。

　その直後、側頭部に不意打ちの衝撃を受けていた。

「留可ちゃん、さっきの用って、もしかして僕にだったのかな？」

　よろけながら振り返る背後には、奈津川の笑顔がある。

　変わらぬ笑みには背筋が冷えるが、余計な感情は今不要だった。

　痛みと衝撃を堪え、留可は地面につけた右手を軸に男の足元を素早く払った。

「おっと」

　だが意外に機敏な相手が背後に飛び退け、余裕を残して手にしていた棒きれを放る。

「思ってたとおり、君ってなかなか乱暴な子なんだね」

　言葉の途中でタイミングの読めない右の拳が飛び、避けるも続けて来襲する拳を避け切れず脇腹に食らう。

　留可は距離を取り、相手を見据えた。

　しかし内蔵まで響く衝撃が動きと思考を鈍くする。

　最初の殴打で負った傷から血が流れ、こめかみを伝う。

　男は確実な殺意を持っている。

　それならばこちらも同様でなければ、立ち向かえなかった。

　視線を走らせ、相手が放った棒きれを拾い上げると膝を狙う。

　それを避けられれば、次は確実に喉を狙うつもりだった。

「ドラッグをやってる君とは気が合いそうだったのに」

　声が出なかった。

　見上げた場所には奈津川の笑顔がある。

　震える手を喉にやれば、瞬く間に溢れる血で染まる。

　強い血の匂いと、金属の匂い。

　死が近づいた人間はこんなにも嗅覚が増すのだと、留可は思った。

「残念だよ」

　喉元に突き立てられたナイフが容易く抜かれる。

　男の足元に倒れ、呻きも出せず留可は相手を見上げた。

　背後にはうつろう影。その影が自分を悼むように微かに揺れた。