3.九条坂 その2
手詰まりの状況は継続中だった。
だが焦りを先立たせれば誤りに向かう危惧も増す。こんな時こそ自制や見方を変えた思考が有効なのは久吾自身も分かっていた。
昨日は引き継いでから初めてとなる被害者家族との面談を行った。彼らに起きた悲劇を蘇らせる側面もあるものだったが、新たな見解に繋がるものは見つけらず、肩を落として帰っていく姿を見送る以外に得られるものもできることもなかった。しかし翌日、深夜も近い時刻に一人の女性が警察署を訪れていた。
「すみません。私の都合でこんな夜遅くにお時間を取らせてしまって」
「いえ、いいんですよ。どうぞおかけになってください」
訪れたのは三人目の被害者であり、唯一の女性被害者、
彼女は昨晩、妹の部屋であるものを発見したという。
看護師をしているという彼女は待合室の椅子から立ち上がって恐縮の表情を見せると、櫻木の言葉にようやく腰を下ろした。
「あれからもう数ヶ月が経ちました……でも恵の……妹のことが何も忘れられません……彼女の部屋にいると一緒に過ごした時間を思い出します。今でも恵が『ただいま』って帰ってくるような気がして、まだ信じられない思いがあるんです……」
「ええ、分かります」
櫻木の同意に彼女も頷く。
常磐沙織は今も悲しみを癒せない表情で、静かに語り始めた。
「それで……昨日も妹の部屋で家族写真を眺めてたんです。家族四人で山登りに行った時の写真なんですがそれを見ていたら、写真立ての中に何かがあることに気づいたんです……開いて確かめてみたそれは二つに折り畳まれた封書でした」
彼女は告げると鞄から白い封筒を取り出した。
櫻木が慎重に受け取ったそれには住所も宛名もなく、裏にも名前はなかった。
「……恵には悪いと思ったんですが私、その手紙を読んでみたんです。それは私達家族の知らない誰かから恵に宛てたものでした……」
《僕はいつも君のことを見てるよ。鏡のこちら側から君を見てる。君からは僕が見えるかい? だけどもし僕等を見張ってる誰かの存在が君に見えたとしたら、危険だよ。でも君ならどんな状況にあってもきっと大丈夫。僕にはそれが分かるんだ。だって僕は君のことをずっと見てるし、今だって見てる。この手紙は君が心配だから送ったけど、できればすぐに処分して。見張ってる誰かに知れたらとても危険だからね。こんなこともちろん言わなくても分かってると思うけど、僕にとって君はちょっとトクベツだから。最後にもう一度言うけど、絶対に処分してよ。必ずだよ……》
櫻木が手紙を読み上げ、沙織の顔を見る。彼女は無意識なのか眉根に皺を寄せると、再び静かに語った。
「……恵は……妹は少しメンタルが不安定な子でした。周囲には明るく振る舞っていましたが、何かを考え込んでいることが時々ありました……ここではないどこかに憧れるようなそんな夢見がちなところがあったのは確かです。この手紙、妹のそんなところを指摘しているようで、優しい言葉だけど私にはそれが不安に思えて……すみません、いつ貰ったものかも分からないし、本当に恵のただの思い出の品かもしれません。でもこの手紙の言葉がどうしても頭から離れないんです。何か……どこか不吉なにおいがするような……本当にすみません、こんな抽象的なことばかり言って……この手紙、そちらにお預けします。捜査が終わっても返却してもらわなくて大丈夫です。刑事さん、今日はこんな夜分に本当にお手数をかけました……」
常磐沙織はその後も何度も恐縮しながら帰っていった。
待合室のテーブルには、証拠品袋に入れられた手紙が残されている。
預かった手紙はこの後鑑識課に引き渡し、指紋採取を始めとした分析が為される。指紋に関しては被害者と姉以外のものが採取されれば前歴者と照合し、合致すれば対象者を調べる。そこまで行き着いても対象が事件と関わっているとは限らず、実のある結果を得られる確証もない。だが今はどんなものだろうと、容疑者に繋がり得る可能性を手探らなくてはならなかった。
「これ、僕が鑑識課に持っていきます」
「いや、俺が持っていく」
立ち上がった相手を久吾は引き留めた。
今日もとっくに終業時刻は過ぎていた。残業続きの相棒はもう帰宅した方がよかった。しかし相手は証拠品を手にしたまま、受け渡そうとしない。疲労する顔には強い意思も見えるが、時には切り替えも必要だった。
「櫻木、お前入れ込みすぎだ。少し肩の力を抜け」
「九条坂さん、そのアドバイスはもちろん有り難く受け取っておきますが、でもそれ、今必要ですか? 一刻も早く何かを掴まないと、亡くなった彼らが浮かばれません。それに……次の犠牲者は既に選ばれているかもしれません……」
相手の表情には追い詰められたようなものも見える。
彼の言葉は事実ではある。けれどそう考え始めれば、思考の堂々巡りは終わることなく深みに填っていくだけだ。この仕事はいつ終わるか分からないものに追われ、それを捕らえたとしてもまた別のものに追われる。延々続くループに終結の文字はなかった。
「九条坂さん、それに僕……この犯人のことを僅かですが分かってきた気がするんです」
「分かったって、何をだ」
「この犯人……仮に今は『彼』と呼びますが、『彼』はもしかしたら被害者達を自分なりに愛していたんじゃないでしょうか? そうでなければあの残虐な傷も、そのことにかけられた多くの時間も、存在しないものである気がするんです。もっと相手を知りたい。もっと相手に関わりたい。そんな思いが『彼』をあの行為へと駆り立てたんじゃないでしょうか……? だから僕達がもっと『彼』の心理に近づいていけば……」
「櫻木」
「はい」
「随分と犯人に寄り添った考えだな。警察学校ででも習ったか」
「……いえ」
言葉を遮ると相手は口を噤む。
表情を硬くした相手の反論が届く前に久吾は言葉を発した。
「今のお前みたいに相手になり変わって考えることは時に有効だ。だが危険でもある。感情移入は常に表裏一体だ。それに奴に対して、彼や愛してなんて言葉は使うな。戻れなくなる」
届く言葉はなかった。
彼自身その危うさは感じていたが、敢えて目を逸らしていたことが分かる。しかしこの仕事を続ける以上、人の闇に近づくこと自体が不穏を感じつつも避けられないものとも言えた。
「それ寄越せ。心配するな、結果はお前に真っ先に伝えるよう鑑識には言っておく」
説得紛いの言葉を向けると、相手はようやく封筒を手放す。その顔には焦燥や悔恨が入り混じるが、久吾は「今日はもう帰れ」と告げて背を向けた。
「九条坂さん」
「なんだ」
「なんだか今日はすみませんでした。明日、また……」
「ああ、またな」
振り返ればその場には同様とは言い難いが、見慣れた表情がある。
久吾は笑みを返すと、地下にある鑑識課に向かった。夜勤の職員を見つけ出し、できるだけ早く結果を出してくれるよう言づけた後はまた暗い廊下を通って地上に戻る。
外に出て見上げた空には昏い月が浮かんでいた。
相手のことが気にならないと言えば嘘だが、
駅へ歩き出そうとすると、胸元で携帯電話が鳴った。
表示画面には『可愛い可愛い留可たん』とある。あの厄災に電話を奪われ、勝手に登録されたものだったが無論出る気はなかった。その後も電話は何度か鳴り続けたが、自らが厄災と認定する相手の呼び出しに久吾が応えることはなかった。
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