2.秋   その1

 目覚めると自分のベッドに知らない裸の女が寝ている。ついでに自分も裸と気づけば、溜息と唸りが混ざったものしかとりあえず漏れなかった。


「マジか……」

 呻きながら身を起こすと、秋は片方しかない視界で部屋を見回した。

 服が散乱する光景を目に映せば記憶が朧気に蘇るが、それらを無理に呼び覚ましたくはない。昨晩やらかした出来事は今すぐにでも外に蹴り出したいものでしかなかったが、目覚めの寸前まで見ていた夢も最悪としか言えなかった。

 部屋の隅に左目から血を流す黒衣の男が立っている。

 足音も立てずに迫った男に肩を押されたと思ったら、奈落のようなどこかに真っ逆さまに墜ちていた。

 自分を見下ろす男の顔をその時ようやく見た。

 死に神を思わせる男の正体は、九条坂だった。


「まったく……夢にまで出てくるなって」

 そう呟けば隣から相槌のような鼾が届く。

 それには再びの溜息と舌打ちが零れるが、全ては自らの行いから出でたものでしかない。

 名残もないベッドを下り、散らばった服を回収しながら順に着ていく。

 最後にテーブルの下に落ちていた眼帯を取り上げ、ぼさぼさの髪も放置して部屋を出る。

 すると不意打ちのように不機嫌顔の留可と出会していた。


「汚いな」

 その一言が妹から発せられる。

 それが示すのが昨日と同じ服のことなのか、見知らぬ女を連れ込んだことなのか、多分どっちもだろうと秋は思う。

 留可はリビングに移動してソファに腰を下ろす。

 その表情には基本無視があるが、何か言いたげなものも僅か横切る。

 ファストフード店での出来事は一晩経った今も尾を引いていた。

 しかし、ぶったのは確かに悪いが、ぶたれることをした方も悪い。

 秋はソファの正面に陣取ると、強く相手を見据えた。


「俺は昨日のこと、謝らないからな」

「うん、別に謝ってもらわなくていいよ。私は謝ってもらうようなことなんてしてないから」

「はぁ? なんだそれ?」

「今言ったとおりだよ。私は秋のうるさい携帯電話を取り上げて、水没させて黙らせてやった。昨日起きた出来事はそれしかない。その中で秋に褒められることはあっても、謝られることなんかない」

「留可、お前、それな……」

 秋は口を開くも、言葉は続かない。

 昔から口喧嘩の類で妹に勝てたことはない。今日も頑張ったところで無駄に終わるのは分かっていた。


 顔を上げれば窓からの陽射しが、妹のピンク色の髪を照らしていた。

 この数日ドラッグを断っているのか、彼女の言動は安定している。何を思ってそれに至ったか知らないが、まともな会話ができるのは結構なことではある。

 自分達を仲睦まじい兄妹とだとは思ってないが、何かを共有していると秋自身感じることはある。ドラッグに填ったのが母親が死んでからなのは知っていた。それを知っても自分にできたのは彼女の好きなようにやらせて、それを見ていることだけだった。でもそんな中でも双子であるからか、妹が感じる痛みは時に受け取っていた。棘に覆われた蔦に絡みつかれるような、針先で神経を嬲られるような、彼女が得ているかもしれないそんな痛みを時に感じていた。


「秋」

「なんだよ、まだ言い足り……」

「あのさ……昔のこと、私達が三才ぐらいだった時のこと、覚えてる?」

「は?」

 不意に届いたのはそんな言葉だった。

 向かい合う顔には先程までの不機嫌さも嫌悪もなく、思いがけない言葉を放ったその表情にはためらいと呼んでいいものが過ぎった。


「私達がそれくらいの歳だった頃、母さんと父さんはいつも喧嘩ばかりしてた……その日も大喧嘩をした母さんは秋と私を連れて何度目かの家出をした……車に乗って遠い所に行った気もするけど、子供だったからそう思っただけで、もしかしたら近い場所だったかもしれない……母さんは古びたモーテルみたいな場所で部屋を取った後は、隣のベッドでずっと泣いてた……その時の母さんが哀しそうでやり切れない感じだったのは今も覚えてるけど、私が言いたいのはそれじゃなくて、夜遅くにそのモーテルでがあったことだよ……」

「人ごろし……?」

 秋は先の見えない話に戸惑った。

 窺い見た表情は日射しの下で暗く、沈んでいる。

 暫しの間を置いて彼女の声は続いた。


「そうしてる間に泣き疲れた母さんは寝ちゃって、私達もいつの間にか眠ってた。けど夜中に大きな声がして、母さんは起きなかったけど私達は目を覚ました。二人してカーテンの隙間から外を覗いたら、近くの部屋から二人の男が走り出てきた。必死に逃げる若い男をもう一人の歳を取った男が追いかけてて、その人は若い男の左目をナイフで刺して殺した。倒れた男からは血がいっぱい溢れて、床が赤く染まった。秋はそれを見て叫ぼうとしたけど、私はその口を押さえてずっと我慢してた。だけど次に気づいた時には、もう朝になってた。恐る恐る外を確かめたけど、何の騒ぎにもなってなくて、床にあんなに流れた血も全然なかった……だから私は夢だったんだと思った。慣れない不安な土地で見た悪い夢なんだと思った。今だって多分、そう思ってる……けど本当はそうじゃなかったのかな……? 秋がいつも何かに怯えてるのは、もしかしてこの時の記憶のせい? もしかしてあの夜のことは夢なんかじゃなかった? 私は自分のことで精一杯で、これまで秋が何に怯えてるのかちゃんと考えたこともなかった。でもそれじゃ駄目だったんだよね? だけど秋……このことで。そんなことで秋の中の何かが変わったりなんかしない。だって……」

「は? 留可、お前何言ってんの?」

「……秋?」

「お前が何言ってんのか、俺全然分かんないんだけど。モーテルのことなんて俺は全然記憶にないし、何一つ思い出せそうもない。悪いけど全部お前の記憶違いなんじゃないの?」

「……秋、それ本心……?」

「本心に決まってるだろ? こんな嘘言ってどうすんだよ? 急に何を言い出すかと思えばこんなことかよ。んなことより留可、もう学校行けよ、遅刻すんぞ」


 笑いながら秋は告げるが、無言の相手はまだそこにいる。

 その視線から逃れるように秋はベランダに向かうと街の風景を眼下にした。背後にある表情は昔よく見たものだった。妹はよくこんな顔をして自分を心配していた。いつからかそんなことは遠い思い出の中だけなっていたが、それはいつも記憶の奥底に眠っていた。


「秋」

「留可、早く行けって言ったろ? お前、出席日数も足りてないだろ?」

「……分かった。でも秋、帰ったらもう一度……」

「あー、あー、分かったって」

 振り返りもせず、秋は肩越しに素っ気ない返事を戻す。

 足音が遠離り、扉の閉まる音を聞けば知らぬ間に強張っていた身体の力が抜けていくのを感じていた。


「嘘だ」

 一人になり、秋が最初に吐き出した言葉はそれだった。

 それは今の留可の話に対して、そして自分の過去の記憶に対してだった。

「これが……俺が怖れる理由……?」

 その場に尻をつき、秋は力なく呟いた。

 妹が蘇らせた記憶。それは薄気味悪いほどに自分の中で欠けていた何かを補っている。

 これまで忘却していたのは、あまりにも衝撃的な出来事だったからか。あの出来事に怯えて混乱した自分が、自ら何重にも紐をかけて強固に封印していたのかもしれなかった。


「こんな結末ありかよ……」

 呟きを落とせば、彷徨う視線はベランダを這う一匹の虫を捉えていた。おざなりにそれを追えば、虫は血溜まりへと入り、床に点々と赤い足跡をつけ始めている。

「……なんだ……これ?」

 気づけば目の前には腐乱した屍体が横たわっていた。

 屍体に群がる大量の虫達は無心に肉を喰らい、咀嚼音が鼓膜奥まで響く。

 瞬く間に屍肉を喰い尽くした虫達は、自らの足にも這い始める。

 彼らの新たな餌は、この場でぼんやり座り込む自分でしかなかった。

「うあああああああああっ」

 生きたまま捕食される恐怖は耐え難いものだった。

 身体中を埋め尽くす虫の恐怖に叫びを上げれば、途端辺りは闇になった。

 どこを見ても闇、自分の手足も見えない闇が広がる。

 発する叫びは暗がりに吸い込まれ、聞き取ることもできない。

 床は腐り落ちるように崩れ、身体は延々墜ちていく。

 見上げると、夢で見た死に神が自分を見下ろしていた。

 あれは一体誰だ? 本当に九条坂か?

 しかし顔を見ようとしても、残った右の瞳には何も映し出すことはできなかった。


「ねぇ、タクシーで帰りたいからお金くれる?」

 その声に我に返れば、朝の陽射しが降り注ぐベランダにいる。

 虚ろな目で見上げれば、そこにはベッドにいた知らない女が立っている。昨日は櫂に似ていると思ったが、似ても似つかない女だった。化粧の匂いが鼻先まで漂って、今程の幻覚より自分を嘔吐かせそうだった。


「うるさい、早く消えろ……」

「は? 昨夜ゆうべはあんたから誘ったと思うんだけど。その言い方ちょっとなくない?」

「……うるさい、早く消えろって言ってんだろ!」

「なんかムカつくー。昨日は猿みたいに五回もヤッたくせに」

 それは真実でしかなかったが無性に腹が立って、秋は傍の観葉植物の鉢を掴んで投げつける。ガラスに当たった大きな音がして、女は悲鳴を上げると出ていった。

「……なんだこれ……こんなんじゃ、俺……」


 呟きは嗄れるように漏れた。

 でも呟いてもこんなことで何も変わりはしない。

 畏れの原因を知っても、それで何かが変わる訳でもなかった。

 それならばあの男に会わなければ。

 あの男といる時は闇の怖さも、この怯えも忘れていられる。

 だけどどうしてだろう。

 そう思っても、男からの電話を拒む自分がいる。

 会うことを拒み、二度と会えないようにと望む自分がどこかにいる。

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