第三話 選択と崩壊

 特に苦手なのは女子ということに変わりないけれど、人間関係において俺にトラウマを植えつけたのは紛れもなく、繰斗だった。今じゃ唐沢や藤という仲のいい友だちがいるが、それまでは人との関わりをできるだけ避けて、あまり仲良くならないようにしていた。上辺だけの関係といえばわかりやすい。


 俺にとって繰斗は小学校に入って初めてできた友だちだった。休み時間はいっしょに遊んでいたし、放課後遊びも毎日のようにしていた。クラス替えがあった三年でも同じクラスで、朝、学校へ登校して教室へ行くと、一番に繰斗が挨拶をしてくれる。それが嬉しかったし、当たり前だと思っていた。

 しかし、千種が転校してきて、彼女の家庭事情を知った俺は繰斗よりも彼女のことを優先するようになっていた。

 千種とは学校でそんなに話さないものの下校時は誰もいなくなった教室でふたり残って他愛ないおしゃべりをした。その日学校であったこと、昨夜も殴られてつらかったこと、お互いに話して痛みを共有すれば望まない明日も俺たちは信じられた。

 怪我が目立つ俺に対し千種は本当に綺麗なままだった。だが、隠している怪我は俺よりも酷い。苦しそうにお腹を押さえて登校してくる日、かばうように腕をさする日、誰にもバレないように足を引きずる日もあった。痛みに耐えてひとり涙を枯らす千種を俺は助けることもできなかった。どうすることもできないまま千種は学校を頻繁に休むようになった。

 担任はもともと身体の弱い子だから仕方ないと俺に告げた。休みがちなのを身体が弱いと担任は捉えていたようだ。教育者だからこそ敏感にならないといけない虐待から俺は担任が目を背けているのではと疑念がうまれた。

 たまに登校してくる千種は日に日に衰弱しているようで誰の目にも無理していることが明確だった。仲良くしていた女子たちは心配していたが、深く踏みこむ様子はなかった。次第に面倒だと判断したのか一軍女子たちは千種を避けるようになった。

 放課後になると千種は『本当は動くのもきついんだけど、椎名くんと話せるから学校に来るんだ』と弱々しく笑った。耐えられなかった。千種がなんでこんな目に遭わないといけないんだ。全部大人の勝手な理不尽だ。俺たちが被害を受けないといけないなんて誰が決めたんだ。

 そして、事件は起こる。

『花火、お前さぁ』

 繰斗がいつものように話しかけてくる。

『今日こそはオレんちにみんなで集まってゲームだかんな』

 最近新作のゲームソフトが発売されてクラスはその話題で持ちきりだった。繰斗はさっそく新しいゲームソフトを購入したらしく自慢げにみんなに話していた。仲のいいクラスの男子たちはほとんど毎日のように繰斗の家へ集まってゲームで遊んでいるらしい。俺も誘われたが、放課後は千種と話したかったからいつも断っていた。

 教室を見渡すと、千種の姿はない。もう予鈴が鳴る時刻だ。登校している日はいつも十五分前には来ていたから今日は休みかもしれない。

 俺は繰斗の言葉に頷いてしまった。それがきっと事件の始まりだったのだ。

 休みだと思われた千種は三時限目に登校してきた。もう見慣れた光景らしく誰一人として彼女の存在を気にしない。あんなに話しかけてみんなとの仲をとりもっていた繰斗さえ千種が隣に座っても知らん顔だった。

 放課後になって誰も教室にいなくなった頃合い。俺は教室の扉を開いた。千種はいなかった。俺は一言断ってから繰斗の家へ行こうとしたが、千種が俺と話したいからつらくても学校へ来ているという言葉を思い出して繰斗の誘いを断ったのだ。

 繰斗との約束は朝休みに話していたから遅刻してきた千種は知らないはずだ。だから、先に帰ったとは思えなかった。

 静かな教室へと足を踏み入れて千種の席まで行く。

 ランドセルもない。やはり帰ってしまったのだろうか。

 窓の外を眺めた。まだ空は明るい。初めて放課後の教室で千種と話したときに彼女も窓の外を眺めていた。なにを見ていたのか。

 窓からの景色は中庭へつながる校舎裏の花壇だった。よく目を凝らしてみれば、花壇の傍になにかが散らばっている。赤い、あれはランドセル? なら、散らばっている四角いものらは教科書だろうか。どうしてあんなところに散らばってるんだ。いったい誰のものだろう。窓を開けてさらによく見ようとした瞬間、背後から声がした。

『なにしてんの』

 反射で振り向いた先には繰斗がいた。

『なんでお前が? みんなと遊ぶ約束は?』

『花火が来ないからやめちゃったよ。急にやっぱ行かないって花火が言うんだもん』

『ごめん』

 繰斗は徐々にこちらへ近づいてきた。

『窓からはなにが見えた?』

『え?』

 繰斗は笑っていた。

『あれ、千種のだよ』

 なにを言っているんだ? 繰斗の言葉の意味が分からなくてもう一度俺は窓の外を見た。先ほどまでいなかった女の子がひとりで荷物を拾い集めている。見覚えのある黄いろいワンピース。

 俺は教室を飛び出していた。

 中庭を駆け抜けて花壇の方へ一直線に向かっていく。

『千種!』

 俺の姿を見て千種は目を丸くした。

『なんで、今日は坂崎くんの家で遊ぶんじゃ』

 千種が繰斗との約束を知っている。

『どうして、それを』

 千種はなにも答えなかった。しかし、その態度で繰斗が言ったのだと確信した。

 俺も黙ったまま千種の荷物を拾った。

 ランドセルにしまってやり、そのランドセルを千種の代わりに持つ。そして千種の手を引いて学校を後にした。千種はなにも訊かずに大人しくついてきた。

 許せなかった。あの様子からして千種のランドセルの中身をバラまいたのは繰斗だ。そのときに繰斗と話して約束のことを知ったのかもしれない。だから、今日の放課後は俺が来ないこともわかっていた。繰斗に酷いことをされたときも俺は既に学校にはいないと思っていたのだ。

 あくる日、俺は繰斗に千種へ謝るように説得した。繰斗はあっさり自分のしたことを認めて素直に謝ると告げた。しかし、条件付きだった。今後一切なにがあっても俺は千種と関わらないこと。一言も話してはいけない。繰斗は放課後になると、俺が千種とふたりでいることを知っていた。

『オレ、あいつが嫌い』

 千種なんて学校に来なければいい。そうすれば、俺は繰斗と遊ぶし、放課後だって前みたいに約束をしていっしょに楽しく過ごせた。千種が来てから俺がいっしょに遊んでくれなくなったと繰斗は思い込んでいた。

『花火とあいつがいっしょにいるの、嫌なんだよ』

 女の考えることはわからない。しかし今は男である繰斗の言っていることも理解できなかった。学校にいる間は繰斗と遊んでいる。千種が休みの日は繰斗と下校もしている。ほとんどの時間を繰斗と過ごしているのに二、三日の放課後わずか一時間程度しか話していられない千種が嫌なのか。

『花火がこれからもあいつと関わるならオレは謝らない』

 千種のランドセルの嫌がらせも千種へ俺と関わるなという警告が理由らしい。千種本人はランドセルのことを気にしてはいなかった。きっと自宅でそれ以上の暴行を受けているからまだマシだと感じたのだろう。

『わかった。繰斗は謝らなくていいよ』

 繰斗は首を傾げた。

『その代わり俺はお前とはもう遊ばない』

 話もしない。話しかけられても無視するし、放課後遊びも繰斗の家にだって二度と行かないと告げた。

 これ以上千種をつらい目に遭わせたくない。俺が繰斗と関わることをやめれば繰斗は俺との関係を諦めて千種に悪さしなくなるだろう。だが、それが大きな間違いだった。それに俺が気づくのはもう少し後になってからだ。


 四年生に進級して、数ヶ月が過ぎた。夏休みに入る頃には千種は本格的に不登校になっていた。

 そうして九月一日。始業式が終わってから、担任と校長が二人そろって教室へ来た。

『千種朝音さんは入院することになりました。遠くの病院への入院となるので、転校します』

 入院の詳しい理由は教えてくれなかったが、転校が後づけだったことは校長自らの口から告げられた。入院も本当かどうか怪しい。

『朝音さんのご両親から言われていることがあります。朝音さんの不登校の理由についてです。朝音さんはクラスメイトからいじめを受けていた、誰がそんなことをして朝音さんを追いつめたのか見つけてほしい、と』

 教室がざわついた。一軍女子たちがお互いに目を合わせながら顔を引きつらせている。繰斗は変わりなく平然と前を見ていた。

 担任が順番にクラスメイトたちへ質問を投げかけていた。後ろめたいことはなにもないはずなのにみんな自分は悪くないと主張するような言い分ばかりを並べていた。

 担任が繰斗に質問をした。転校初日に繰斗が千種とよく話していたのは担任も含めクラス全員が知っている。一軍女子たちはみんな息を呑んで繰斗を見つめていた。

『……オレは席が隣ってだけで学校のことを教えてあげたくらいです。席替えしてからは一度も話してないし、それこそ四年になってからは教室にいるところを見た記憶がありません』

 四年生になっても千種は登校していた日が何日かあった。それでも教室にいた記憶がないということは既に眼中になかったということだろう。繰斗と遊ばないと言った日以来、俺は本当に繰斗と関わることをやめた。一度も話していない。

『あ……確か、いや、でもいいか』

 わざとらしい言い草だ。担任は気になることがあるなら言えと繰斗を促した。言いにくそうな演技をしながら繰斗は俺の方を見た。

『花火が千種とよく話してた、かな』

 俺は驚いて繰斗を見つめた。

『ね? 花火。放課後とか千種と一緒に帰ってたよね?』

 クラスメイトたちは初めて聞いたと言わんばかりに驚いて俺に視線が集まった。

『そうか、椎名どうなんだ?』

 どうなんだ? って、その質問の意味はなんだ。

『俺が見る限り学校では問題なかったようだが、隠れてお前が千種に何かしてたのか?』

 なにかしてただって? なにかしていたのは千種の両親で、繰斗だ。ランドセルのことは今でも忘れてない。

『違う、俺はただいっしょに帰っただけで、……です』

『そうかなぁ。千種よく花火の方気にしてたけど、もしかしてあれって花火がなにかしてこないか不安で見てたのかも』

 おいなに言ってんだよ。繰斗、お前。

『お、俺はなにもしてない。なにかしてたのは繰斗の方だろ⁉』

『自分のしてたことなのに人のせいにするつもり?』

 繰斗の口から信じられない言葉が出た。

『三年のとき、花火さ、誰もいない教室で窓の外見てたじゃん。あの日、オレと遊ぶ約束したのにずっと学校に残っててさ、なにやってたの?』

『はあ? あれはお前が』

『おかしいなと思って様子見にいったら窓の下覗いてたよね。オレが声かけたらびっくりした顔してた』

 クラスメイトたちの前で、先生たちの前で繰斗は淡々とランドセル事件のことを話していた。俺は事態の理解が追いつかなくて反論できずに、千種をいじめていた犯人にされた。

 真相が暴かれないままいじめ事件は偽りの事柄で俺の母親へ伝えられた。母親と俺は千種の両親のもとへ出向いて謝罪することになったが、既に千種家は引っ越していて行方はわからなかった。学校へ問い合わせてもどんな理由があろうと個人情報は教えられないと断られた。転校先の学校さえなに一つ情報を与えられなかったところを考えると、千種の両親がそう頼んだ可能性が高い。

 母親は今まで以上に俺を毛嫌いするようになった。トラブルを起こす厄介者扱いだった。不機嫌なときが増えて母親の暴力はエスカレートしていった。

 クラスでは完全に浮いた存在になった。仲のよかった友だちはみんな俺を避けるようになって孤立した。もうなにを言ってもいい訳にしかならない。みんなが俺をいじめっ子の酷い奴だと認識している。ランドセル事件の真相を伝えてもみんなの態度が変わる気はしなかった。

 

 五年生に進級してクラス替えの結果はほとんど総入れ替えだった。いじめの件があったからクラスの今後を考えての対応だと思う。俺の学年は四クラスあって、俺は五年三組だった。三組に俺の知っている奴はほとんどいなかった。いても一度話したことがあるかないかくらいの朧げな記憶の中に存在する奴らばかりで、そいつら自身も俺のことは眼中にないようだった。

 繰斗は二組で、四年生の頃と違って繰斗は廊下ですれ違うたびに話しかけてきた。決まって俺がひとりのときにだけ話しかけてくるのだ。もう繰斗がなにをしたいのかわからなかった。千種に酷いことをして、俺をいじめの犯人にしといて、急に優しくしてきて繰斗が理解できなかった。

 六年生になる頃には繰斗は俺にべったりだった。人目を気にすることもなくなって休み時間ごとに教室に来ては俺の席まで来て話しかけてきた。二十分休みや昼休みには絶対に繰斗とふたりだけで遊ばないと彼は不機嫌になった。放課後は一緒に下校したし、休日も繰斗と約束した日は必ず会っていた。

 冬のよく冷える日に繰斗が今日は外で会おうと誘ってきた。

『花火は中学やっぱり双葉中?』

『あぁ……いや、えー……っと、俺は満ヶ丘みつるがおかに行くんだ、よね』

『え?』

 繰斗は驚いた顔で俺を見た。

 満ヶ丘中学は私立の男子校だ。青葉町から電車で一時間以上かかる場所に位置している。高校、大学まで付属であり、全寮制の進学校だった。中学受験がもうすぐある。

『俺、片親だからさ、将来いい仕事に就きたくて、それに共学は……』

 言い淀んだ俺の心情を察したのか、繰斗はそっか、と呟いたきりなにも訊いてこなかった。


 繰斗に嘘を吐いた。本当は霧崎きりさき中学に進学するつもりでいる。霧崎はここから五駅先の隣町にある公立中学だ。母親の転勤で隣町へ引っ越すことになって、双葉中学よりも比較的近い霧崎中学へ進学ということで話は進んだ。男子校なんて、私立自体そもそも学費が高くて例え、特待生で一部免除してもらえても行けるわけがない。

 正直、繰斗には嫌気がさしていた。俺を陥れたかと思えば掌返しで友だち面してくる。自分を最優先にしなければ怒って俺をさらに束縛した。鬱陶しさをとり越して、そこまで俺に執着することが怖かった。小学一年生から仲がよかったが、繰斗からしたら特別親しくしていたわけではない。俺と違って繰斗は友だちが多かったし、誰とでも遊んでいた。

 繰斗に訊いても、俺と遊ぶのが一番楽しいからと誤魔化されて、俺はそれ以上尋ねることができなかった。嫌悪よりも拒絶に近い。繰斗とはもう離れたかった。

 冬休みが明けると、卒業まであっという間だった。春休み中に隣町へ引っ越してしまうのでみんなとは今日で最後だ。と言っても別れを惜しむほどの友だちなんて一人もいないけど。

 卒業式は退屈だった。俺は欠席でもよかったのだが、母親がどうしても行けと言うので登校した。世間体を気にしたのだろう。

 卒業式が終わると最後の記念に集合写真を撮ることになったが、俺はこっそり抜け出して帰り支度をしに教室へ戻った。

 教室を出て、繰斗に見つかる前に昇降口を抜け、帰路を急いだ。

 そして、無事にバレることはなく、俺は繰斗という呪縛から逃げ出せた。



 そうして俺は霧崎中へ進学して、繰斗とは二度と会うことはなくなった。そこで唐沢と出会い、同じ北丘高校を受験。ふたりとも受かって、高校では藤と出会った。北丘高校で過ごした約二年半弱の間に俺には大切なものがたくさんできた。それをまた繰斗に壊されるのはごめんだ。

 再会した繰斗は小学校の頃と比べて大人っぽくなっていた。性格もクラスで人気者の元気な少年ではなく、落ち着いていて品性のある高校生だった。高校三年にもなれば、少なからず変化はあるだろうから当たり前か。それでも相変わらず考えていることはわからないし、強引なところや俺にだけ無駄に優しいのも健在だった。

 繰斗に嘘を吐いてまで逃げ出して、そのまま音信不通になったのに繰斗は怒ることもなく笑顔で俺に接してくれた。正直、それもあまり信用ならないが、昔よりは話が通じる人間になったということだろう。

 もし、もっと別の選択をしていたら今でも繰斗と友だちでいられたのかもしれない。繰斗ときちんと話をしていたら、あんなことにはならなかったのかもしれない。千種への配慮をもっと気をつけていたら、彼女をあんなに苦しめることはなかったかもしれない。俺があのときよりもしっかりしていれば、誰も傷つかずに済んだかもしれないんだ。

 今さら、そんなことを考えてもしかたない。時間は巻き戻しできない。

 千種は元気だろうか。彼女とも転校をきっかけに離ればなれになってしまった。連絡先はもちろん、あの後どうなったのか、今どうしているのか、俺はなにも知らない。元気になって、両親からの虐待もなくなって、今の俺みたいに幸せだったらいい。なんでも話せる友だちもできて、他の子と同じように学校に通う。怒ったり笑ったり、たまには泣いたりして、普通の女の子みたいに毎日を歩けているのなら、俺が抱える傷の痛みも少しは和らぐはずだ。


 千種に会いたいな。

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アカシグレ 衣瀬有 @iseyuu615

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