電車

相内 秋沙

電車

 吊革が規則的に揺れる千代田線の電車の中。

 一人の男が肩をびくりと震わせ、瞼をパチリと開け、目を覚ました。

(よもや、寝過ごしたか……?)

 男は辺りを見渡す。

 スマホをいじっている女が一人。その子供と思われる女児がベビーカーからこちらをじっと見つめている。他には誰もいなかった。

 男はその赤子に一抹の不気味さを感じて、心が竦む思いであった。

(確か大手町までは起きていたが……)

 男は慌てて長椅子から立ち上がり、扉の方へ急いだ。まさに扉が閉まろうとしていたところで、けれど男は電車から降りずにピタリと立ち止まってしまった。

 そのまま扉は閉ざされ、男はぼんやりと佇みながら、ホームの壁に書かれた駅名を見ている。そこには、大手町と書かれていた。

 扉が閉まる時に、あの駅のホーム特有の臭い匂いが車内に侵入して、男の鼻孔を刺激する。

(なんだ、勘違いか……)

 男は安堵の表情を示しながら、再び長椅子へと戻った。男は仕事の帰りで疲れていたのである。ゆらゆらと揺れる吊革を眺めていたらいつのまにか寝てしまっていたということは、なんら不思議なことではない。ただ一つ、男には引っかかることがあった。

(前にも、全く同じ境遇に出会ったことがあった気がする。これは、デジャヴというやつだろうか……?)

(いずれにせよ、寝過ごした時のあの焦燥感は心臓に悪い。なるべく寝ないでいよう。それに、さっきはなにか、怖い夢を見ていたような気がする。内容は忘れたが、また見ないともかぎらないからな)

 男は数回、瞼を力強く開閉させた。眠らないように、眠らないように。

 しかし、男の意思に反して、睡魔はやってくる。揺れる吊革、電車自体から発するリズミカルな音、そして男の疲労も相まって、男の瞼は鉛のように重くなり、だんだんと閉ざされていく。

 男は眠りつつある自分を自覚し、眠らないように首を横に振った。そして再び正面を向くと、また、あの赤子と目があってしまった。

 くりっとしたつぶらな瞳。純真無垢な表情。それらが、疲弊に満ちた男の心を和ませる。お返しに、男が赤子に対して笑顔を送ろうとした、その刹那のことである。

 赤子の眼球が不自然に動き始めた。目が大きく見開かれ、まるで嘔吐するかの如く眼球が外に出ようとしているのである。赤子の目玉は徐々に大きくなり、やがてポロリと両目同時に眼球がこぼれ落ちてしまった。ミミズが土の中から出るように、赤い視神経が目玉のあった空洞から垂れ下がっている。

 男は突然の出来事に内心慌てふためくも、体の方は縛られたように身動きできず、せいぜい口をわなわなと動かしているだけであった。

 赤子は眼球を垂れ下げたまま、男の方をずっと見ている。そして、口の端を大きく吊り上げてニヘラと不気味な笑顔を男に向けた。

 男はここで、やっと叫び声をあげて……





 吊革が規則的に揺れる千代田線の電車の中。

 一人の男が肩をびくりと震わせ、瞼をパチリと開け、目を覚ました。

 電車はちょうど大手町駅に着いたところである……


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