第134話 もう孤独じゃない。嫌われものじゃない

 「それじゃ行ってくるよ」


 「玲子様、行ってらっしゃいませ」


 「莉子も遅れないようにね」


 玲子は玄関口で慌ただしく声を掛けた後、綾人が待っている自転車の荷台に腰を下ろす。いつものように自転車のタイヤは少し沈み、甘い匂いが綾人の背後から回り込んでくる。しかし、ちょっとした違和感を覚えた綾人はペダルを踏み込めなかった。


 「ちゃんと掴まって」


 「え?ちゃんと掴まってるよ」


 綾人が振り返ると小さく首を傾げた玲子と目が合う。玲子の言う通り、確かにその両腕は綾人の腰に回されている。その力がいつもと比べて弱いと感じた綾人だったが、玲子が何度か抱き締め直しても変わらなかったため仕方なく出発した。


 妖狐という呪いから解放された二人を待っていたのはいつも通りの生活だった。時間が再び進み始めたといえど顔や体形が劇的に変わるわけではなく、雪山で軽い凍傷を負った綾人の足はすでに完治している。


 しかし、何も変わらなかったわけではない。二人で砂海家の本家に逃げ込んだとき、待ち構えていた陰陽師はその全員が二人に驚いていた。あの時のことはこれからどんなに時間が経っても忘れることはないだろう。日常が鮮やかに色づいた瞬間だった。


 「今日はすぐ来れる?」


 「うん。多分」


 「多分は嫌だな」


 玲子が密着してきて、久しくハンドル操作を間違えそうになる。これまでのようなどこか試すような雰囲気は感じられない。顔に覗かせるかすかな困惑が本当の気持ちを証明していた。玲子にとって時間を次第に失う感覚は一体いつ振りになるのか。綾人はスピードを少し上げる。


 斎藤研究室への入りびたりは今も続いている。玲子が妖狐でなくなったとしても豊富な知識と記憶には意味がある。当初の目的とは大きく変わってしまったが、綾人は便利屋として毎日働かされていた。


 「砂海君はもう冬休みに入っているんだろう?それなのにどうして毎日来るんだい?」


 「玲子に言ってください。俺だって本当はもっと寝たいのに」


 「だからだよ。そうやって惰眠をむさぼっていると時間はどんどんと無くなっていく。そんなのもったいないでしょ?」


 「皆そんなこと分かってて惰眠をむさぼってるんだ」


 「まだ私には耐えられないの。一秒でも長く綾人と一緒の時間を過ごさないと」


 玲子はそう言って笑いかけてくるが、隣で斎藤が気持ち悪そうにする。好意を素直に向けてくれることは嬉しい。しかし、毎日こんなことを言われ続けていると綾人ももちそうになかった。


 「君たちがハッピーエンドを迎えられて良かったと思ってるよ。でもね、その喜びは二人で分かち合ってくれないかい?私は欠片もいらないよ」


 「私たちがこうなれたのは先生のお陰でもあるんです。それなのに先生を省くなんて」


 「大体だ、ここに来る時間が惜しいと言ってオンラインでミーティングできる環境を作りましょうと言い出したのは玲子ちゃんだった。なのに実際に繋いだのはテストの一回きりじゃないか」


 「家で二人きりだとほら。付き合い始めてから綾人が色々と」


 玲子がしおらしく意味深な視線を向けてくる。もう勘弁してくれと苦しむ斎藤は非難めいた目を綾人に向けた。ただし、実際のところは真逆のことが起きている。


 「良いことだとは思うよ。妖狐という怪異が生まれた原因にも通ずることだったんだ。二人が仲良くしている分には私も安心だからね。とはいえだ」


 また斎藤から文句が出てくる。綾人がそう思って身構えたところ、玲子がはっと何か思い出したような顔をする。斎藤の注意もそちらに向いた。


 「そういえば気付いたことがあるの」


 「気付いたこと?」


 「うん。私の出生についてなんだけど」


 どうでもいい話が始まると思っていた綾人だったが、出生と聞いて心を入れ替える。一方の斎藤は腕組みをして訝しげにしているままだった。玲子はその振る舞いを改めさせようと時間を置いたが、最後は諦めて話し始めた。


 「私の出生で分かっていたことはせいぜい場所やおおよその時代だけだった」


 「そうだね」


 「でも、私は綾人と同じタイミングで普通に戻ることができた。だから私の誕生日は綾人と同じだと思うの」


 「うん。うん?」


 綾人は思わず聞き返してしまう。斎藤はほら見たことかとため息をついた。玲子は理解が追い付いていない綾人のために説明を続ける。


 「きっと妖狐になるタイミングは同じなんだと思う。生まれた時からその人が妖狐になるかどうかは決まってるわけだし、実際、私と綾人は同じくらいの年齢でしょ」


 「……それで?」


 「私の本当の誕生日は分からない。でも、綾人と同じ時間が流れた後に時間が止まって、同じタイミングでまた時間が流れた。ということはつまり、私たちの身体に流れた時間は等しくて、だったら誕生日が一緒だったとしてもおかしくないよね?」


 「そう、なんですか?先生」


 「私は忙しい」


 斎藤は我慢の限界を迎えて机に向かい合い、話の輪から抜けてしまう。玲子ももはや綾人しか見ていない。綾人は脳の表層だけで考えを纏めて言葉を決めた。


 「凄いよ!玲子と共通点が見つかるなんて嬉しいな」


 「そうでしょ?良かった。嫌がられたりしなくて」


 「ううん。とっても嬉しいよ」


 綾人が答えると玲子が視線を手元に落とす。喜びで満ち満ちていることは誰が見ても分かる。しかし、そんな感情とは正反対に玲子の目に涙が溢れた。


 「もう孤独じゃない。嫌われものじゃない」


 「そうだ。玲子は一人じゃないよ」


 綾人は断言する。すると、満足した玲子はようやく斎藤の手伝いを始めた。こんな日々が毎日続けばいいのにと思う一方、そうはならないだろうからこそ本当の幸せを感じられるのだとも考える。こんな奇跡は二度と起こらない。玲子の笑顔が綾人にそう語りかけた。

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疎まれ妖狐に首ったけ クーゲルロール @kugelrohr

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