第133話 心に嘘をついたまま死にたくない!

 「ここは私が子どもだった頃、よく雨宿りで使ってた場所なの。近くに小川が流れてて、そこで友達と魚を獲ったり洗濯をしてたりしたときにね」


 「そう、なんだ」


 「奥に入って。風がどんどん強くなってきてる。そんなに抱きつかなくても大丈夫だから」


 綾人は背中から降ろされると、岩陰の最も深い場所に座らされる。触れ合っていた腹部が外気にさらされて震えがひどくなり、少しでも寒さから逃げようと玲子の腕に抱きつくと邪魔だと払われてしまう。玲子はコートを脱いでそれを綾人に被せる。玲子の匂いに包まれただけで苦しさが紛れる。玲子は続いて綾人の濡れた靴を脱がし始めた。


 「濡れたのは足だけ?濡れた服は全部脱がないといけない」


 「寒い」


 「聞こえてる?どこか濡れた場所は?」


 「分からない。何も感じない」


 「もう」


 玲子は綾人を裸足にすると、代わりに自分の靴下とショートブーツを履かせる。その後は綾人の全身をくまなく触って濡れている場所がないか探した。幸い、ズボンの裾と臀部が少し濡れていた程度でその他は大丈夫だった。次に玲子は綾人の上着の前を開けると、前から抱きしめて体温を共有する。ほどなくして綾人の腕が腰に回された。


 「外は大丈夫?」


 「気にしなくていい。私に任せて」


 「また足手まといになっちゃった。ごめん」


 「もうそのことで言い合いするつもりはないよ」


 綾人には普段から物事を難しく考える癖があるが、弱った時はとことん考えを沼にはまらせることを玲子は知っている。これまでにそんな考え方が生死に関わることはなかったが、今日の綾人は一人にしてしまうと間違いなく死んでしまう。風が岩陰に流れ込むと人を不安にさせる音が響く。その一方で綾人の呼吸音は大人しくなっていった。


 「寝ちゃ駄目だよ」


 「眠るもんか。こうしてずっと玲子を感じているんだ」


 「震えは収まってきたね」


 「玲子は寒くない?俺の濡れた靴、交換して履いてるんだろ?」


 「大丈夫よ。知ってるでしょ。私は綾人より丈夫だから」


 「同じ妖狐なのに」


 綾人はそう言って笑う。この状況でまだそんな元気があったのかと驚いた玲子は少し体を起こして綾人の顔を見る。だが、寒いと文句を言った綾人がすぐにその隙間を埋めてしまった。今の二人は絶望的な状況にある。それにもかかわらず、綾人は思いのほか穏やかな顔をしていた。


 「これからどうしよっか」


 「本家の陰陽師が助けに来てくれるかもしれない。きっと状況は伝わってるはずだから」


 「陰陽師が?砂海家の?」


 玲子は簡単に同意しない。綾人が耳元でまだ信用ならないのかと問いかけた。


 「綾人と出会ってから、陰陽師に対する認識が変わったのは間違いない。先生はとてもいい人だし、綾人の家族だってそう。私を助けに来てくれたのが砂海家の人たちだったってことも分かってる。だけど」


 「玲子がそう感じるのは仕方ないのかもしれない。でも、どうせここまで来たんだから当てにするしかない。俺だって自分をあんなに嫌ってる人たちに助けを求めるなんて嫌だよ。けれど、そうしないと玲子と一緒に居られないのなら我慢する」


 「あの時、陰陽師が協力してくれたのは先生や夏乃ちゃんがいたからかもしれない。今、妖狐の私たちだけが飛び込んだとして、同じ扱いをしてくれると思う?」


 玲子は少しでも不安に思うことがあれば常に疑ってかかる。それが未来を狭めてしまうのだとしても、そうして生きてきたのだから文句は言えない。綾人はそれだったらと別の案を考えてみる。


 「だったら二人でどこかに逃げようか。それでもいい。玲子もそう思ってくれるのなら」


 「どうして」


 「一緒にいられるならそれでいいんだ。玲子を失った時は頼れるものは全部頼ってどうにかしないといけないって焦った。だけど、今回はそうじゃない。こうやって一緒にいる」


 「何をそんなこと。今の状況を分かってるの?」


 「分かってるよ。玲子が居ないとすぐに死んでしまう弱い体だ。何も決める権利なんてないって。でも、悲観してないことだけは伝えたくて。好きな人と一緒にいられるっていうのはそれだけで心を強くできるんだ」


 「もう、ほんと馬鹿ね」


 玲子は照れ隠しに抱きしめる力を強くする。妖狐同士で傷を舐めあったとしても、最後に待ち受けるは絶望だけ。それを分かっていたからこそ、玲子は毎晩枕を濡らしてでも感情を抑え込んできた。しかし、死を意識するとこれまでは簡単だった感情の操作が難しくなっていく。


 「間違ったことは言ってない」


 「綾人、やっぱり判断力が鈍ってるみたい。じゃあ、仮に二人で仲良く妖狐の呪いを身にまとったまま死ぬことになったら?綾人の言い方だとそれでも良いってことになる。もし本気でそんなこと考えてたら怒るよ」


 「どうして?そう思ってたよ」


 「綾人」


 「寿命じゃなかったとしても、そうやって幸せに死ねるのなら呪いはもう解かれたことにならない?孤独に死ぬんじゃない。大切な人と死ねるんだ。ほとんど全ての人が望んでる最期だと思うけどな」


 「………」


 「あ、でもそっか」


 玲子は思わず納得しかける。これで死んだとしても自殺ではない。そうなれば、決して天寿を全うしたかったわけではない玲子の望みは満たされることになる。ただ、それでも良いかと思った矢先、綾人から乾いた笑いが出た。


 「そういえば、玲子の心が離れていたのを勘定に入れ忘れてたよ。自分だけが幸せに死ねたって意味ないもんね」


 「そんなこと」


 「となると、やっぱり本家の陰陽師を頼るしかない。違う?」


 「もう、分かったよ。天候がマシになったら一緒に行こう」


 「良かった。じゃあもう少しこうして居られるんだね」


 綾人はそう言って玲子の肩に頭を預けて寝息を立ててしまう。体温が下がるのを心配して起こそうと思った玲子だったが、一緒なら大丈夫だと言った綾人の言葉を思い出す。抱きしめている内に綾人の体温は正常近くまで上がってきた。これからどんな困難が待ち受けているか分からない。外から二人を邪魔する者がいないかだけ注意して、玲子は綾人の鼓動と吐息を感じることにした。


 「綾人、起きて」


 綾人が気持ちの良い睡眠から目を覚ましたのは、まだ辺りが真っ暗な時間のことだった。体の調子は信じられないほどに回復している。雪はまだ降り続いているが、風は落ち着いた。玲子は綾人が起きたのを確認するなり、移動すると伝えて立ち上がる。その囁き声は静かでありながら緊迫感を伴っていた。


 「どうしたの?」


 「いいから早く」


 「待って。もう大丈夫だから上着を羽織って」


 綾人は借りていたコートを玲子の肩にかける。全ての準備が整うと、玲子と綾人は再び手を握って岩陰から飛び出し、新雪を踏みしめた。


 「誰かが迫ってる。そんな雰囲気がすぐそばまで」


 「本家の陰陽師とは違って?」


 「違う。陰陽師じゃない。裏社会」


 「しつこい連中だな」


 綾人は走りながらこれまでとは違う感情を湧かせる。せっかく玲子との温かい時間を過ごしたというのに、裏社会のせいで再び冷たい雪原を手探りで進んでいる。これまで裏社会は恐怖の対象だった。しかし、理由が分からないままこんな場所まで追いかけられた挙げ句、二人きりを邪魔をされては怒りを覚える。一方で玲子は岩陰で休む前と比べて弱気になっていた。


 「あっちからも来てる。やっぱり神通力はもう意味がないみたい」


 「少しでも本家に近づけば気付いてくれるはず。急ごう」


 「ねえ綾人。もし相手がどちらかを殺すってまた言ってきたらどうする?」


 「そうならないように逃げてるんだろう」


 「怖いよ」


 「どうしたの!?」


 不安を漏らした玲子の動きが鈍くなる。そうして、今まで玲子に支えられっぱなしだった綾人が先導する立場になる。とはいえ、地形が分からないため闇雲に走るしかなく、それもすぐさま玲子に腕を引っ張っられて終わる。


 「玲子?」


 「囲まれた。終わりだ」


 「大丈夫。二人なら大丈夫だって話したばかりだろ!?」


 「綾人どうしよう」


 立ち止まった玲子は綾人の腕に抱きついて恐怖におののいた顔を見せる。追手の陰陽師と戦っていた時とは打って変わって弱々しい。綾人はそんな変わりように疑問を感じるも、まずは辺りを見渡して敵の姿を探す。しかし、この暗闇では綾人の目は何の役にも立たない。


 「玲子、どうしたの?どうして急に」


 「怖い。嫌だ。綾人と離れ離れになるのは嫌だ」


 「俺だってそうだ。だったらなおさら」


 「だから押し込めてたのに!綾人があんなこと、言うから!」


 玲子は神通力を保ち続けている。しかし、もはやそれが二人を守ってくれるとは思っていなかった。綾人の耳でもようやく周囲から誰かが近づいてくる音を感じ取る。数人分の人影も同時に見つけた。


 「心に嘘をついたまま死にたくない!もういいよね!?」


 「うん。いいよ」


 「綾人、好き。好きだよ!気持ちが胸から溢れかえると恐怖に勝てなくなった!怖いよ、綾人!」


 玲子の告白は感情的だった。涙を流しながら訴えかけるその姿に綾人は思わず目を奪われてしまう。そして合点がいった。


 「私のこと、助けてくれてありがとう。困らせてばかりだった。こんな最期なんて」


 「俺もだ。玲子とすれ違ったときは苦しかった。どうしてもっと早く決断できなかったんだろうって」


 二人で膝をつく。周りを取り囲んでいたのは小鬼の大群だった。そのどれもが二人を睨んで今にも飛びかからんとしている。そんな絶望の中でできることはお互いを正直に愛することだけだった。妖狐が引き寄せたこの出会いは同じ場所で始まって同じ場所で終わろうとしている。それでも怖くはない。孤独に打ち勝ったことを二人は悟っていた。


 そうして気持ちを落ち着かせた矢先のことだった。綾人は突然体を突き抜ける違和感を覚える。咄嗟に息を止めたのは無意識に嘔吐に身構えたからだ。目の前では玲子も同じように大きく目を見開いている。綾人はこの感覚を知っている。時間が止まり、自分が妖狐だと思い知らされた日のことを思い出す。しかし、その時とは違って気持ち悪さはやってこなかった。


 「うそ……時間が」


 体の中で力強く何かが脈打つ。それと同時に玲子の神通力が消え、二人の姿が露わになった。見上げると山の頂が白み始めている。暗い夜が終わろうとしていた。


 「綾人、綾人!」


 玲子は震える体からか弱い声を漏らす。今の綾人を見上げているのは強気に綾人を守り続けてきた玲子ではない。全ての力を失い、全ての呪縛から解放されたことで綾人に縋るしかない一人の儚げな少女だった。そこに男が大股で近づいてくる。怯える玲子を背中に隠した綾人は向かい合った。


 「くそ、遅かったか」


 「なんのつもりだ!約束が違うじゃないか!」


 蛸山は二人に目配せをして舌打ちする。綾人は恐怖を克服し、怒りに身を任せて問いただした。しかし、蛸山はすでに二人から興味を失っていた。


 「お前たちにもう用はない」


 蛸山はそう言い残すと手を一度振ってから踵を返す。その背中が林の中に消えていった次の瞬間、小鬼は雄叫びを上げて一斉に突進を始める。綾人は玲子を抱き寄せて目を瞑る。死を覚悟しても考えることは玲子を不安にさせたくないということだけ。玲子もそれに呼応して心を寄せる。


 それから数秒、小鬼はなかなかやって来ない。恐る恐る顔を上げると、恐ろしい咆哮が山々に響いた。


 「この下等生物!余のマブダチに手を出すとはいい度胸じゃ!」


 「た、玉藻さん?」


 「間に合ったようじゃな。セイラ、こいつらを払ってこい」


 「はい」


 抱き合いながらうずくまる二人の前に玉藻が躍り出て、命令を受けたセイラは小鬼狩りに出る。小鬼は恐ろしい魔女に襲われて散り散りに逃げていった。


 「ふーむ。なるほどの」


 「玉藻?玉藻!」


 「そうじゃ。余が来てやったぞ。ふふ、これが人の姿をした玲子か。これまた可愛らしいのう」


 玉藻はそんな冗談を言ってから二人を抱きしめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る