第132話 これまで綾人がしてくれたことに比べればこんなこと

 「お客さん、お客さん!」


 「あ、はい」


 タクシーの運転手に声を掛けられた綾人は目を覚ます。高速道路を進んで長野県に入ったところまでの記憶は残っている。その景色がいつの間にか白い雪の降りしきる山道に変わっていた。玲子も綾人に寄りかかって眠っていたらしく、目覚めた瞬間に鋭い目つきを取り戻す。車内の時計は夜中の二時過ぎを示していた。


 「ここからはもう無理だ。雪が積もっててこのタイヤでは上がれない。急に降ってきたし急いで戻らないと」


 「ここは」


 「駅の方まで戻りましょうか?」


 綾人はもう一度窓の外を注意深く観察する。アスファルトに落ちる雪は溶けて消えているが、ガードレールの奥に広がる林には膝上ほどの雪が積もっている。ヘッドライトに照らされた先には融雪区間の境目があり、それを越えると見渡す限り白い世界が広がっている。場所を確認しようにも携帯は捨ててしまった。


 「ここまでで構いません」


 「ではお会計を」


 綾人は慌ててポケットにねじ込んでいた札束から一万円札を一枚ずつ数えながら取り出す。初めて支払う金額に動揺するが、それは運転手も同じらしい。行き先を伝えるときは玲子の神通力の影響下にあったはずで、今はどうしてこんなところまで来てしまったのかと言わんばかりに呆然としている。無事に会計を済ませるとお互い深い息を吐いた。


 「それではお気をつけて」


 タクシーを下りた二人は運転手から声を掛けられた後、Uターンして走り去っていくテールランプを見届ける。周囲は真っ暗闇となり、見上げた先の小さな光の粒だけが目に留まる。玲子を探して暗がりに手を這わせた綾人は、温かい感触を得るともう片方の手で拳を作った。


 「この道を進めば朝までには着くと思う」


 「ちゃんと場所分かってて良かった。俺にはさっぱりだったから」


 「流石にね。私の生まれた土地だから。綾人と初めて出会ったあの日だって、この道を歩きながら真っ暗な未来を考えてたんだよ」


 「そうなんだ」


 「そんなことより先に進もう」


 玲子はそう言って暗闇に足を踏み出す。綾人は玲子が歩いた跡に沿って進むしかできない。本当に二人しか居ないのだと思うと恐怖が胃の中から逆流しそうになる。繋いだ手を外に出したままだと寒さで即座に感覚がなくなっていく。せめて自分にできることは何だと考えた綾人は、玲子の手を自分のコートのポケットに引き込んだ。


 山を登るにつれて踏みしめる雪の厚みは増していく。こんな深夜にこのような田舎道を通る車などあるはずがなく、常に緊張の糸を張っていないと足を滑らせて奈落の底に落ちてしまいそうになる。玲子はその度に綾人を助けてくれる。歩き始めて小一時間。玲子が立ち止まった時、綾人の息はかなり上がっていた。


 「休憩は要らないよ」


 「違う。静かに」


 玲子は後ろを振り返って呼吸を止める。綾人もひとまず同じ方向を見てみる。しかし、目に映るのは歩いてきた道のぼんやりとした輪郭だけで、結局は玲子の反応を待つしかない。そうして待っていると玲子は途端に走り始めた。腕を引かれた綾人は凍った地面に足を滑らせ、それでも倒れる前に次の足を出して進む。道が大きくカーブしているところまでくると、玲子は道なりに進むのではなくガードレールをまたいで林の中に飛び込んだ。今度は冷たく硬い枝に顔を打たれないように気をつけなければならなくなる。


 「どうしたの?」


 「誰かが後をつけてきてる。何人かは分からない。だけど、距離が詰まってきてた」


 「危ない?」


 「分からない。でも逃げる」


 林の中は除雪されていない分さらに雪が深い。スニーカーを履いていた綾人の足首からはどんどんと雪が入り込み、肌に触れると溶けて靴下を濡らす。玲子が察知した相手が何者かはさておき、このままでは逃げ切れないと悟ったのは振り返った先に足跡がくっきりと残っていたからだった。次の瞬間、後方で赤い閃光が走る。追跡者は陰陽師だった。


 「式神だ!」


 「あれは敵のもの。見覚えがある」


 玲子の走る速度が上がる。綾人はもはやついていくことができなくなって握る手の力を緩めてしまう。不規則な呼吸を正すことができず、足先の感覚は全くない。自分が今どちらの足を前に出しているのかさえ分かっておらず、それでも進んでいたのは玲子と離れたくないという気持ちがあったからだった。玲子は覚悟を決めたのか走って逃げることは諦め、綾人を近くの木の根元に座らせる。そして繋いでいた手が離された。


 「玲子、駄目だ」


 「ちゃんと戻ってくる。陰陽師なら得意だから」


 「相手がどれだけいるかも分からないのに」


 「それでも綾人は来てくれた。その分をまだ返せてない」


 「玲子!」


 玲子は一方的にそう言い残して来た道を戻っていく。一人になると綾人の全身は途端に寒気に襲われる。心なしか風が強くなったように感じ、玲子を追いかけようと思っても腰を上げることができない。閃光が走ったときだけ周囲の木々が照らし出される。そんな時間は数十分にわたって続いた。


 「おまたせ」


 「れ、玲子」


 玲子は戻ってくると綾人の頭に積もった雪を払ってくれる。顔を上げると玲子がいる。それだけで力が湧いた綾人は立ち上がって玲子の全身を触り、強く抱きしめた。玲子はそれをやめさせて再び手を繋ぐ。


 「怪我は?」


 「してない。それより綾人が心配。手は冷え切ってるし、すごく震えているの自分で気づいてる?」


 「これは、怖かったから」


 「違う。低体温症になりかけてる。天候はこれから悪くなっていく一方だし、まだどこかに敵が潜んでるかも。今は休んで暖を取るべきだね」


 「大丈夫だって」


 「駄目。歩ける?この近くに風と雪をしのげるいい場所を知ってるの」


 玲子が先導する形で再び歩き始める。しかし、一歩足を出した瞬間に綾人は膝から崩れ落ちた。玲子はそれを見て綾人を背負う。一人ではないことが綾人を勇気づける。ただ、体を擦り合わせているにもかかわらず、上手く玲子とくっついて居られない。その時に自分の激しい震えのせいだと気付く。動き続けていた玲子の顔は温かく、綾人は無意識に頬ずりする。


 「ごめん」


 「これまで綾人がしてくれたことに比べればこんなこと」


 「好きだ」


 「急がないと。判断力も落ちてきてる」


 最初の頃、綾人は玲子におんぶにだっこだったことが恥ずかしかった。だからこそ、堂々と横に立っていられる男になりたいと考えていた。しかし、今日の綾人はあいも変わらず弱気で、玲子を感じられているだけで満足だった。

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