第131話 どちらかを殺せという命令だ

 事態が急変したのは、梅沢から不穏な話を聞いた数日後のことだった。この日も学校から帰ってきた後、二人は何気ない普通の時間を過ごしていた。今日は夏乃が夕食当番だが莉子の手伝いもあって既に準備を終えており、早苗の帰りを待つだけとなっている。和人は陰陽師の関係で家を離れていて、今日中に帰ってくる見込みはない。


 最初に異変に気付いたのは玲子だった。窓越しに見える寒そうな外の様子を気にし始めたかと思えば、隣にいたねねに何か耳打ちをする。すると、ねねの目つきも徐々に鋭いものになっていき、部屋から会話がなくなる。誰か帰ってきたと綾人が気付いたのは、施錠された玄関に鍵が差し込まれる音がしたときだった。夏乃は早苗だと思ったらしい。しかし、出迎えられたのは汗だくの和人だった。


 「綾人と玲子ちゃんは?今いる!?」


 「え、うん。いるよ」


 和人は肩を大きく上下させつつリビングに飛び込み、二人の姿を確認すると束の間の安堵を見せる。ただ、すぐに声を張り上げた。


 「家を出る準備をするんだ!二人とも、急いで!」


 「何があったの?」


 和人はポケットから陰陽師の武器である護符を取り出し、数枚を夏乃に手渡す。夏乃の声は動揺しているが、渡された意味を理解できていないわけではない。ねねも慌てて立ち上がると窓際に近づいて外の様子を窺った。綾人はひとまず玲子のすぐ横にまで移動する。


 「統制組織がここに迫ってる。細かいことは後だ。ほら早く!」


 焦る和人だが、綾人が状況を飲み込むにはまだ時間がかかる。玲子はというとそんな綾人の腕を掴み、夏乃から上着を受け取る。和人は玄関から二人の靴を取ってくるとそれを勝手口に持っていった。綾人は訳が分からない内に覚悟しなければならなくなる。


 「できるだけ時間を稼ぐ。ねねさんは二人の方へ」


 和人がねねと見張りを交代し、夏乃もその後ろで待機する。この中で部屋の隅で固まっている莉子だけが浮いてしまっている。玲子が声をかけようとしたものの、それより先に窓ガラスが粉々に砕け散った。


 「ねね!莉子をお願い!」


 「でも!」


 「私は玲子様のそばにいます。そばに居させてください!」


 「駄目よ!莉子を巻き込みたくない。分かるでしょう?」


 靴を履いた綾人と玲子はすぐにでも外に出られる。莉子は玲子と離れることを怖がっていた。それはねねも同じで掴んだ玲子の手を離そうとせず、運命を共にしようとしている。そうしている間にリビングの奥で淡い緑の発光が起こり、式神が呼び出された。


 「私も玲子と一緒に行きたい」


 「ねね、お願い!莉子はまだ高校に通いだしたばかり。これからが大切なの分かるでしょう?助けてあげて」


 「玲子様、私は」


 「よく聞いて。ねねの言うことちゃんと聞いて逃げなさい。また会える。約束する」


 「何してる!早く行け!」


 「玲子、行こう!」


 「ねねは莉子を連れて私たちとは違う方向へ。いいね?」


 「うう、分かった」


 決断を迫られたねねは最後に頷く。それと同時に綾人は勝手口を開け放ち、玲子の腕を引いて外に飛び出した。その後ろから莉子を抱えたねねが出て、すぐに向かう先を違える。


 「とにかく人混みの多いところへ行こう!」


 「じゃあ、ねねは学校に向かって先生と合流して!」


 玲子の最後の言葉が届いたかどうかは分からない。引き返すことはもうできず、綾人は玲子の力を借りながら塀を乗り越える。振り返ると家の屋根には黒い影が数体見えた。弾ける閃光は和人と夏乃が戦っている証拠だ。綾人は玲子の手を握り直す。


 「神通力でいけるところまで行く」


 「今度は絶対離さないで!」


 こんな時に玲子を失った瞬間を思い出してしまう。返事はあったのかもしれない。しかし、風切り音のせいで綾人の耳には何も届かなかった。


 駅までの道のりで敵との接触はなかった。半歩先を進む玲子からは極度の緊張が感じ取れる。綾人も唐突な出来事に恐怖を隠しきれないが、それでも優先事項を自分に言い聞かせる。離れ離れにさえならなければ未来は残される。たとえ捕まることになったとしても二度失うことは許されなかった。


 「ここはまだ人が多い。さすがにこんなところで騒ぎを起こしたりはしないよね」


 「油断はできない」


 最寄り駅に到着した二人は、いくつもの店が軒を連ねる複合施設を歩く。日が沈んでまだそんなに経っていない。こんなにもショッピング客で賑わう場所では統制組織も手を出してこないだろうと綾人は考える。しかし、玲子にそんな楽観的な考えはないらしく、神通力の行使に全力を注いでいた。


 「ここに留まるのは良くない。どこかに隠れないと」


 二人は次の行き先を考える。ここは表社会の影響が強いものの、家から近いため追手の捜索は間違いなく入る。玲子に助言を求められて綾人は考え始める。唐突に体が宙を舞ったのはその直後だった。


 「見つけた。その力はもうお見通しなんだよ」


 「まずい。吸血鬼よ」


 綾人は玲子に抱きしめられながら数メートル先に着地する。怪我はなかったが、数秒前まで立っていたコンクリートの床は大きくえぐれていた。粉塵が舞っていて、突然の爆発に周囲の人は悲鳴を上げながら散り散りに逃げていく。追手は人間の姿をしている。しかし、真っ赤な瞳が怪異であることを物語っていた。今も玲子の神通力は機能しているはずだが、位置を正確に把握されている。声も聞こえているのだろうと予想した綾人は会話を試みた。


 「何が目的だ!」


 「砂海綾人と信濃玲子。どちらかを殺せという命令だ」


 「だったら」


 「玲子、行こう!」


 吸血鬼の男から二人の行く末が簡単に語られる。玲子はそれを聞いて何か言おうとする。しかし、それが完結する前に綾人の体は動き始めていた。玲子を強引に引いて改札に走る。


 「綾人!」


 「腕を千切られたって離すもんか!」


 改札を飛び越えた綾人だったが、吸血鬼の動きは人間と比べ物にならない。血が薄いと言っていた有紗でさえ、あれほどの能力を持っていたのだ。先に足手まといの綾人が狙われ、ここでも玲子の機転によってどうにか命拾いする。しかし、もみくちゃになった二人はそのまま床に倒れた。


 「男を殺す」


 「させない!」


 吸血鬼が急接近する中、玲子が綾人の上に覆いかぶさる。綾人はそんな玲子の腰を掴んで引き寄せはするが、体を入れ替えるには至らない。そのまま再び爆音が轟き、綾人の背筋は凍る。爆風に飲み込まれながら目に飛び込んできたのは、鋭い牙をむき出しにした大きな獣の姿だった。


 「なんとか間に合った。二人とも立てるか?」


 「こむぎ!?」


 目を開くと艷やかな小麦色の体毛が揺れている。近くの壁には大穴があいていて、切断された電線が火花を散らしていた。吸血鬼は自動販売機に頭から突っ込んで動かない。


 「玉藻から連絡があった」


 「倒したの?」


 「あんな外来生物。わしにかかれば容易い」


 こむぎが自慢気に鼻を鳴らす。しかし、その声に反応してか吸血鬼はよろよろと動き始めた。こむぎはいつものサイズに戻る。


 「しばらくはまともに動けん。まずは逃げよう。階段を上がってホームに」


 「でもこんなことになってたら」


 「わしが電車になる」


 こむぎの言葉の意味は分からなかったが、二人は指示に従ってエスカレーターを駆け上がる。案の定、爆発を原因として電車は止まってしまっていた。駅は危険だと思ったのか、線路上に避難している乗客もいる。こむぎは誰も居ない線路を選んで降りるとそこで再び体を大きくした。


 「わしに乗れ」


 「お願いします」


 玲子が綾人を両腕に抱えてこむぎの背中に飛び乗る。ホーム上の人には全く認識されていない。二人が柔らかい体毛にしがみついたことを確認して、こむぎは走り始めた。


 「携帯とか追跡されそうな物は全部捨てろ。それと今の状況では人混みはかえって危険だ。相手が見境なく攻撃してくる以上、どこから出てきて殺されるか分からない」


 「分かりました。でも、どこに行けば」


 「陰陽師のところに逃げ込むんだ。車を使え。わしができるのはこの地域から逃がすことだけ。長野のあそこが良い」


 こむぎは砂海家の本家に向かうことを提案する。確かにそれは統制組織から逃げる上で合理的と言える。斎藤家の方が近いが、前回の一件で痛手を負っているため砂海家の方が頼りになるだろう。しかし、二人で逃げるには長野は遠すぎる。


 強風にさらされた綾人から体温が奪われていく。ただ、体が震えているのはそのせいではなかった。


 「恐れている暇はないぞ」


 「不安です。何もかもが」


 「お前がそんなでどうする!?不甲斐ない姿を見せるな」


 玲子は口を真一文字に結んで真っ直ぐ前を見ている。馬鹿げたことを考えていないかと綾人が心配になるのは、吸血鬼を前にして玲子が取った態度が引っかかるからだ。綾人がこんなままでは同じことが繰り返されてしまう。


 「分かってます。任せてください」


 綾人の覚悟は玲子への約束だった。右手は今も玲子と繋がっている。しっかり握ってほんの僅か先の未来にのみ意識を集中させる。玲子が好きだという気持ちは全ての原動力になった。


 こむぎは線路を突き進み、地下に入る前に道路に出て最寄りの駅のタクシー乗り場で立ち止まった。二人を下ろすとどこからともなく札束を取り出す。


 「わしが何年もかけて貯めたへそくりだ。秋野には絶対言うな。タクシーで直接向かえ。遠すぎて断られるかもしれんが、その時は妖狐の能力を使えばいい」


 「こむぎはどうするの?」


 「なにやら鼻につく臭いが残ってる。片付けてから二人の家に行ってみよう。心配だろうが誰とも連絡は取るな。まっすぐ逃げるんだ」


 「ありがとうございます。これ、必ず返します」


 「当然だ。さあ行け!」


 こむぎに急かされて綾人と玲子はタクシーの後部座席に乗り込む。行き先の説明は玲子が行い、長距離移動もなんなく引き受けられる。タクシーが動きはじめ、振り返ってみるとすでにこむぎの姿はなかった。


 「絶対に大丈夫。絶対に」


 寒さで手先がかじかんでいても、触れ合う部分は熱を帯びている。綾人は半ば強引に玲子の頭を自分に預けさせる。玲子の心を読むことはできない。深夜になっても眠ることはできなかった。

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