エピローグ

 5月9日。十係の面々が蒲田南署の捜査本部に集まった朝、桜井が着てきたのはピンク色のサマージャケットだった。もちろん有名なイタリアのブランド品だ。

 桜井が会議室に現れたとき、真っ先に目敏い杉村が「おう、やったな」とけだるい声で囁いた。「今日は気合が入ってるな」

 新聞の陰で馬場が真壁に耳打ちした。

「まるでサーモンの切り身だ」

 二日酔いの真壁は「まあ・・・」と生返事をした。

「今日のラッキーカラーはピンクだって、テレビの占いが言ってた」桜井は近くの椅子に腰掛けた。「だから、これを着てきたんだよ、俺は」

「デートか」田淵が言った。

「ばかやろう。人生、もっとマジな話もあるんだ」

「離婚話で家裁へ行くとか」と言ったのは清宮。

「今日は日曜で、家裁は判事が休み」杉村が言った。

「お前らには分からんさ」桜井が笑った。

「分かってたまるか、上着をとっかえたついでに、頭の中身も変えろ」馬場が怒鳴る。

「ひでえな、主任は」

 吉岡が忍び笑いをした。

「静かに!始めるぞ!」

 開渡係長の一喝が飛び、捜査会議が始まる。朝の会議室に起きたちょっとしたさざ波は、その場はそれで終わりになった。すると、隣に座っていた清宮がちらりと1枚の写真を真壁に見せてくれた。去年の暮れに吉祥寺のキャバクラで一緒だった人物だったという。

 若い女の顔が写っていた。だが真壁は新宿界隈を警らしていた時に見かけた男娼たちの風貌に近いものを感じ、正体は聞くまでもなかった。

 真壁は「きれいですね」とだけ言った。

 清宮がぶつぶつ呟いた短い言葉から察するに、清宮はその《女》と付き合いがあり、吉祥寺の道を何度か一緒に歩いたことがあったという。清宮が同じ町内に住む女子高生の桐谷芽衣から声をかけられた際に桐谷からニヤニヤされて、前後の見境なく焦り狂ったのは、要するにそういうことだ。

「いろいろ、ありがとう」

 聞こえなかったフリをして、真壁は黙って写真を返した。事件の教訓で、遅まきながら禁欲主義に徹する決意でもしたのか。そんな情けなさそうな清宮の横顔だった。

 会議室にいた1ダースほどの頭数は、2人ひと組に分けられた。未だ姿形が見えない強殺犯を追って全員、地取りと被害者のカン(敷鑑)だった。対象は殺害された工場主の最近の行動と足取りの追跡。

 杉村が各組に聞き込み範囲を割り振り、朝の会議はさっさと打ちきられた。

 真壁は刑事課の巡査と一緒に、蒲田南署を出た。割り当てでは所轄の巡査と組になり、現場周辺で聞き込みに当たることになっている。

 その日は脳味噌が腑抜けになる程、天気が良かった。実りのない地取りで歩き回るのがさすがに苦痛に思えた。町工場近くの児童公園に差しかかる。数人の男子高生が公園の入り口に自転車を連ねて朝から野太い笑い声を上げている。道路の反対側に女子高生たちがおり、こちらも甲高い笑い声を上げている。どこにでもいる、ちょっとワルが入っている高校生たちの姿。真壁はその情景を眼に留め、ふいに脳裏に浮かぶものがある。

 真壁は送致前に、段田から時間をもらって新條紀子を聴取した。あまりに孤独に見えた紀子を眼の前にして、真壁は『友だちはいるのか?』と尋ねた。

 紀子はうなずいた。

『誰?同級生?』

 紀子はまたうなずいた。

『桐谷芽衣か?』

 またうなずいた。

『今も仲良し?』

 うなずいた。それ以上の問いは、真壁も発することが出来なかった。紀子は芽衣が春休みになってから疎遠になったことを誰よりも自覚していたはずだ。しかし今はとにかくうなずいたのだった。芽衣が自分を裏切ったことを予感していたのだろうか。

 真壁がしばしば思い知らされるのは、人間の心には明かす必要のない部分があるということだ。《動機の解明》は単に法律上の便宜であり、司法の理解の及ばない心の襞に司法が分け入る権利はない。

 真壁は紀子に『両親と会うか』と尋ねた。紀子は首を横に振った。

『これで自由になれます』

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相克のペルソナ 伊藤 薫 @tayki

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