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 5月8日。夜の捜査会議を終えた午後8時半、真壁は蒲田東署を出た。

 事件の捜査は物証がほとんどないまま四苦八苦していたため、十係はヤケ気味の馬場が音頭を取って蒲田駅に向かう途中の居酒屋に入っていった。真壁はビールを1杯だけ付き合い、居酒屋を後にした。その夜は行かなくてはならないところがあった。遅刻だなと思いながら、蒲田駅に向かって駆け出した。

 真壁が神保町のバーに着いたのは、午後9時半だった。10人も座れば満席になるカウンターだけの小さな店内は槍ヶ岳や北岳のカラー写真が所狭しと飾られている。バーのオーナーが真壁と富樫が所属していた大学山岳部のOBだった。

 富樫はカウンター席の一番奥に座って待っていた。

「やっと来たな」

 富樫はカルヴァドス。真壁はバランタインの17年。2人ともロックでグラスを傾けながら、話題は自然と事件の話になる。真壁が話したのは、新條紀子の母である満智子の話だった。

 三鷹南署の聴取に対して、満智子は供述を拒否したという。満智子はほとんど黙秘か「分かりません」で押し通した。段田の話によれば、紀子と同じく家庭の事情をいっさい外に漏らす気はないという無意識の壁が見えたという。

 最後に段田が「新條紀子を放火と殺人の容疑で送致しました」と告げた時、満智子はこう呟いたという。

「紀子は父親がしていることを見ていたんです」

 父のカバンから警視庁の内部資料を見つけたことによって、紀子は父の仕事について何らかの疑念を持ったのではないか。独断による評価を下したことも考えられる。父は弁護士で人のために働きながら、実は《汚いことをやっている》のではないか。新條紀子が凶行に及んだ背景にそんなところが含まれていたのではないかという段田の話だ。

 新條が警視庁の内部資料を持っていた理由は不明。しかし事務所の職員が「暴力団の弁護を担当していた時期があった」と言っていたことから、ある程度まで推測は立つ。

 暴力団絡みの事案では、拳銃や覚醒剤所持といった、起訴事実自体では争えない場合が多い。その代わりに弁護側は捜査や取調のちょっとした行き過ぎや不備をついてくる。その際は捜査担当者を証人として裁判に呼び出して締め上げる。しかし、あまりに軽微な犯罪の裁判に時間をかけるのも考えものだという意見もある。新條博已は事前に捜査側とウラで打ち合わせて裁判に臨んでいたのだろうか。

「人の為になすとはよく言ったもんだが」富樫が言った。「人偏の横に為と書いて、どういう漢字になるかわかるか?」

「いや・・・」

「偽りだ」

 それが冨樫なりのオチだった。

 こうして断片的に見えてきた事柄をつなぎあわせても、一つの家庭の内実とはほど遠いことだろう。学校関係者には紀子は《おとなしい、真面目な子》であり、父博巳は世間で《剛直でバイタリティー溢れる正義漢》であり、母真千子は《絵に描いたようなキャリアウーマン》に過ぎない。事件で家庭の実情が明るみに出ると、世間は《なぜあんな真面目な子が》《なぜあんな理想的な家庭が》と首をかしげるだけだ。

 実際、捜査に当たった三鷹南署も家庭の実情が本当のところはどんなふうだったのか分からないまま、時間の制約もあって送致したのだった。

 家庭に対する憎悪の正確なところは知る由もない。両親の実像、受験勉強の重圧などが全て絡み合っていたに違いない。そして家では感情を表に出さない、あるいは出せないような育ち方をしてきた少女は何を求めていたのか。

 バーを出る。2人で夜道を歩いていた時、冨樫が「あれ・・・」という声を挙げて立ち止まった。その眼は壁のポスター1枚に止まっていた。冨樫はため息をついた。

「もう5月かぁ・・・」

 1週間ほど前、真壁も六本木の路上で同じポスターの写真を眼にしていた。奥多摩の都民の森が一面、初夏の緑に輝いている。

「なぁ、夏に穂高にでも行かないか・・・」真壁は呟いた。

「穂高のどこへ?」

「北鎌尾根から槍ヶ岳・・・前穂北尾根でもいい」

「休み、必ず取れよ」

「ああ」

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